第10話
翌日の放課後。
理科室に入ると、纏愛の飛び蹴りがやっていた。
「ミッチーのバカッ!」
「ぐふっ」
鈍い痛みと共に、俺は尻餅をついた。くそ、この青と白のストライプめ。次はネクタイを汚すときたか!
「纏愛! お前俺のネクタイに何するんだ!」
「何するんだはこっちのセリフ! 女子に何調べさせてんの!」
「何って、なんのことだ?」
「それは、そのっ、び、びや……宿題のこと! ミッチーが昨日調べてこいって言ったじゃん!」
あぁ、それのことか。
またもネクタイの熱にやられて大事なことを忘れてしまうところだった。危ない危ない。
昨日、俺は纏愛を科学部に入部させるため、媚薬を餌にしようとした。しかし本人がそれを知らなかったため、調べてくるよう、宿題を出していたのだった。そうだそうだ、そうだったな。
「あぁ、媚薬のこと――」
「あー! もーバカ! ミッチーのバカ!」
そう言って、まだ立ち上がれていない俺のことを蹴り続ける纏愛。なんとかネクタイを踏みつけるのは、避けてくれたみたいだ。
「いや、纏愛ならそれくらい知っても動じないかと思って」
「動じる! なんであんなエッチな――じゃなくて! あーもー! 最悪!」
そう言って、大股になって理科室へと入っていく纏愛。全く、まずは女の子らしい振る舞いから教えないといけないかもしれないな。
踏まれた箇所を何度かぱっぱと叩き、俺も理科室へと入る。
「ねぇ、なんで部員の人、誰もいないの」
「今日の科学部は、休みにしてあるからな」
「え、じゃあ私だけ?」
そう。今この教室にいるのは、俺と纏愛だけだ。
「パパ活をしていた一年生が、昨日襲われそうになって、媚薬について調べてきて、ついには愛されるためにどうするか、それらをこれから話すというのに、他の部員が居ては話しにくいだろう?」
「た、たしかに……っていうか、媚薬無し! あんなエッチなのはダメ!」
「パパ活も似たようなもんだろう」
「違うもん! 優しい人もいたもん!」
「現実を見ろ、纏愛。媚薬があれば、お前の夢もきっとすぐに叶うはずだ」
「ウソ! とにかくソレは無し!」
それは、無し。
ということは、科学部への入部は承認してもらえたということなのだろう。念のため、入部届のことについて触れてみると、ちゃんと自分で記入して持ってきていた。
「よし、受理しよう。纏愛、今日からお前は科学部員だ」
「よ、よろしくお願いします……?」
実感がわかないまま、とりあえずといった感じで、纏愛はお辞儀をした。といっても、彼女と関わるのは実験ではなく、どうすれば愛されるかについて――恋、愛についてだ。
科学的なことを纏愛の頭に入れてやれば上手くいくこともあるかもしれない。例えば心理学も、人への実験を試みていることから、人間科学と呼称できる。しかし、それで全人類が幸せな愛をいつまでも持ち続け、死して生ける保証はない。
ならば、どうすればいいか。
纏愛に、何を教えればいいか。
「まずそうだな……纏愛、お前昨日、好きな人いないって言ってたな」
「なにその嫌な確認……まあ、いないケド?」
纏愛の言葉に一瞬、違和感を感じた。
なんだか含みのある言い方に聞こえたような気がした。気のせいだろうか。
「よし。じゃあまずは、纏愛のタイプを教えてくれ」
「タイプ?」
「そう。どんな人が好みだ?」
えー、と嫌そうな反応をしつつ、纏愛は真面目に考え始めた。ぶつぶつと、独り言を呟いて。
「そーだなー、優しい人……それから、イケメンとか?」
「イケメンか。じゃあそのイケメンを好きになったとしよう」
そう仮定し、ホワイトボードに棒人間を書いた。頭の上には、『イケメン』と付け足して。それから、少し離れた左側に、纏愛の棒人間を書いた。そして、纏愛からイケメンに向けて矢印を伸ばし、『好き』とハートマークまでおまけしちゃう。
「ミッチーキモい」
「うるさいな。絵心がないんだから仕方ないだろ」
「いや、そーじゃなくて……まーいいや」
じゃあなんだ、お前に向けた恋心でもあればよかったのか。
さすがにこの突っ込みは自分でもキモいと思った。
「纏愛が仮に、このイケメンを好きになったとしよう」
「仮にね」
「このイケメンがクズだったらどうする」
「昨日の人みたいな? 襲ってくる?」
そうだな、と付け足し、俺はどうすれば纏愛がイメージしやすくなるか、彼女の身近なものにありそうな事柄を想像する。
「昨日みたいに襲ってくる人とか、例えばだが、お金を貸してほしい、と言って絶対に返さないやつとかだな」
「あー、約束を守らない系?」
「まあそんな感じ」
短く答えて、『イケメン』の上に『クズ』を付け足す。
「そんな人に愛されて良いと思うか?」
「んー、でも愛されたい」
「お前がそんな愛され方をしたとしよう。カンタはどう思う? 夢葉さんは?」
「あー……」
風船から空気が抜けたみたいに。
纏愛は天井を見上げ、ぼーっとし始めた。
そんな人と仮に付き合ってとか、結婚してとか、子供が産まれてとか。
様々なことを考えて、その場面に二人がいたら、と想像をしているのだろうか。
しばらくしてから、うん、とハッキリとした目で言って。
「多分、悲しむ」
「正解」
俺は『イケメンクズ』に思い切り黒のマーカーでバツ印をつけてやる。
「纏愛、お前は自分が好きだと思った人に愛されるべきだ。そうじゃなきゃ、纏う愛なんて、ただのレッテル、ただのファッションになってしまうぞ」
「……」
少し、言い過ぎただろうか。
真面目に伝えようとして、言葉を選ばなかった節はある。纏愛は俯いて、何も答えてくれなくなってしまった。
「えっと、纏愛……? ちょっと言い過ぎたか?」
「ううん。なんか、しっくりきた」
お? と。
意外な反応に、暴れだそうとしている好奇心を抑える。
友達に、好きな人ができたときに、思わずいろいろ聞いちゃうみたいな、そんな感覚を、必死に。
「まあ、なんとなくだけどね」
「そうか。まあ伝わってくれたなら、それでいいさ」
これに関しては、無理に言語化する必要もないだろう。
さて、ここからは化学の授業だ。
一度ホワイトボードの纏愛だけ残すように、『イケメンクズ』を消す。
「今、纏愛が叶えたいもの、必要なものはなんだ?」
「愛!」
「そう、正解」
俺は纏愛が言ったとおりに、『必要なもの:愛』と書いた。
そして、『必要なもの』にだけ円で囲み、矢印を伸ばした。
「纏愛が生きていく中で、他に必要なものはなんだ?」
「私が生きていく中で、必要なもの?」
「そう。例えば……これ」
ホワイトボードに書く。
文字は、『酸素』。
「纏愛だけじゃなく、人間には酸素が必要だ」
「当たり前じゃん」
「そう、当たり前。纏愛にとっての愛される、っていうのも、もしかしたら同じ当たり前なのかもな」
説明しながら、俺は『酸素』を円で囲み、再び別の場所へと矢印を伸ばす。
「でも、酸素は濃度が濃すぎると、毒になる」
「え?」
「意外だろ? 酸素マスクとかはそういうの調整して作られてるから、百パーセント酸素っていうわけじゃないんだ」
そう言って、俺は『濃度:高=キケン』と書き足す。
「これは愛も同じだ。知らないままで取り扱っていいものではない。騙されたり裏切られたり、不幸になる可能性はたくさんある」
「……じゃあ、どうすればいいの? どうすれば、愛してもらえるの?」
「纏愛、それはな――」
ホワイトボードに書かれた『酸素』、そして『必要なもの:愛』。これらを線で結び、とある言葉を書いた。
「『人を知ること』だ。相手を知ること。その人を知ることで、これらの危険を回避することができる。昨日だって、そんなに知らない人と会ったから、どこかに連れていかれそうになってただろ?」
ぽかんと。
口を開けたまま、纏愛は動かない。
「酸素も人も、そのことについて知ることで、きちんとした対処を心に留めて、初めて受け入れることができるものなんだと、俺は思う」
だから、と続けて。
「纏愛、人を知ろう。他人に興味を持つことからでいい。そこから始めないと、お前が本当に欲しい愛を探すのに時間がかかって、何も見つけられないまま迷子になるかもしれないぞ」
言い切ると、未だにぽかんと、口を開けたままだった。
なんだろう、この無反応感。
結構熱く語ってしまったため、なにかしらの反応をくれないと、ちょっと恥ずかしいんだけれども。
そう思っていたら、纏愛がようやく。
「……じゃあ、人を知るためには、どうすればいいの?」
彼女の問いに、俺はすぐに返答をすることができなかった。人間観察というのは教師になってから常日頃おこなってきたつもりだ。習慣から、癖に昇格しているといってもいいくらいにだ。
では、と思考を切り替えて。
「そうだな……例えば酸素を調べるときは、色んな実験をするな」
「実験?」
「そう。例えば、マッチに点いた火は酸素が無いと消えてしまう。それを調べるには……マッチ棒を瓶に入れて、蓋をする。そうすることで次第に火は消える」
「……なんかわかるようでわかんないけど、そっか……実験か……」
なんだか、伝わっているのか伝わっていないのか。
ニヤリと纏愛が嗤った。
嫌な予感がする。
「わかった! ちょっといろいろ自分で考えてみる!」
一気に纏愛の表情が明るくなった。
鞄を手に持ち、理科室のドアへと向かいつつ。
「ミッチー明日もここ、私と二人きり?」
「あ、あぁ。そうだな」
「じゃ、また明日ね! ミッチー!」
一方的に挨拶をして、纏愛は廊下を走りだした。
「廊下は走っちゃダメなんだけど……まあいいか」
なんだか閃いた様子だったし、なんとか伝えることができたのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、ホワイトボードに目をやる。一応、このまま残しておくか。
「……そういえばあいつ、ミッチーって呼んでくれてたな」
纏愛の『また明日ね』という元気な声が、未だに頭の中で響いている。そして、あだ名で呼んでくれていたことを、今更ながら思い出す。
「……進展アリ、ってとこか」
ふぅ、とため息をついて、窓の外を見る。
カンタと話したあの日とは違う、オレンジ色だ。
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