第9話
立派な一軒家の中は、やはり広い。どこをどう探せばいいやら。そして、勝手に探すとは言ったものの、片っ端から扉を開けていくわけにはいかない。
しかし、二階に上がると、すぐに見つけることができた。
一階にもあったが、二階にもキッチンがある。そして、そこから一番近い部屋の扉に、『カンタの部屋』と書かれたプレートがぶら下がっていた。おそらく一階のキッチンは家族用で、二階はカンタ用のものなのだろう。
コンコン、とノックをする。
小鳥遊、今ちょっといいか。
声をかけると、すぐに扉が開いた。
「……なに、今いいとこなんだけど」
「漫画の続きか? どこらへんを読んでるんだ?」
「主人公が闘技大会に出場してて、千人を相手に一人一人倒してるとこ。今五十人目で、あと九百五十人ってところでライバルが――」
「悪いが、それは後にしてくれ……」
どうして一人一人倒していくんだその漫画は。
せめてトーナメント戦にするとか、尺を短くする工夫はできなかったのか。
さすがにあと九百五十人を倒すまで待っているわけにはいかない。しかもライバルって言いかけてたから、もっと長くなる。
「ちょっと話がある。カンタ――小鳥遊のお父さんと、お母さんの件でだ」
「…………そう、いいけど」
どうぞ、と冷たく案内された部屋は、本がいっぱい並んでいた。漫画から、レシピ本、エッセイなど。様々な分野の本があるということは、ここはカンタの書斎なのだろうか。部屋の景観に思わず声が漏れてしまう。これはすごい、と。
俺の驚いた様子とは逆に、小鳥遊は不機嫌な様子だった。
そんなに漫画の続きが読みたいのだろうか。
確かにそんな大会の序盤でライバルが――ってところなら、続きを早く読みたくなるのもわかるが、少し我慢してほしいところ。
「悪いな。話はすぐに終わらせるから、漫画のことで不機嫌にならないでくれ」
「……そうじゃない」
小鳥遊は俺に背を向けたまま振り向き、何かを訴える目線を浴びせてくる。
え、もしかしてもうライバルやられちゃった?
「
今度はきちんと対面し、自分の名前を主張した。
怒るとこ、そこなの?
「カンちゃんには名前で呼んでたのに、私だけ苗字なのはなんか嫌!」
……子供か。
そう言いかけて、俺は一度、深呼吸をした。
個を大事にする。
うちの学校のコンセプトだ。それを否定してしまうのは、教師としてだけでなく、大人としてよくない。
「……それじゃあ、纏愛。お父さん――カンタと、夢葉さんの過去を知って、パパ活をしているって聞いたけど、それは本当か?」
「そーだよ」
答えつつ、小鳥遊――纏愛は、書斎の座椅子をクルリと回し、こちらを向いたまま座った。
「私は、ママみたいな愛される人になりたい」
「パパ活で愛されたら、今日みたいなことになるぞ」
すぐさま言い返すと、うっ、と纏愛は唸ってから、返す言葉を探していた。おそらく、ホテルに連れていかれる、なんてことは今まで想像していなかったのだろう。想定していたなら、何かしら対策を練って活動を始めるはずだ。
「どうして、あの二人の話を知って、愛されたい人になりたいって思ったんだ?」
まずは、真っすぐに訊いてみよう。
本人の考えを。
あんな行動をとった理由。
行動には理由がつきものだ。それを知らずに説教することは、俺にはできない。知ってから、ちゃんと向き合いたい。
「……私は、纏愛」
「それはわかってる。だから、なんであの二人の話を聞い――」
「纏愛だから、愛されないといけないの!」
俺の言葉を遮って、彼女は叫ぶように言った。
なんだか、言葉に重みがある。そんな気がした。
「ママとカンちゃんの間に、愛情は無かったかもしれない……でも、でも!」
纏愛は読んでいた漫画を投げ捨て、主張を続けた。
「そんなカンちゃんは、私に纏愛って名付けてくれた! 愛される人になってほしいって! それで、私とママを幸せにするって、誰よりも愛し続けるって!」
次第に、座っていた椅子から立ち上がり、俺の正面へと立つ。
「私は、私の名前、メッチャ気に入ってる。それに、ママが愛されてるって、毎日見ててわかる。だから、私は愛される人になりたい!」
目が、本気の目をしていた。
纏愛は、俺のネクタイを掴んで、目と目の距離を詰める。
「今日担任になった先生には、わからないでしょ!」
パッと。
言い切ってから、纏愛は俺のネクタイから手を離した。
俺はネクタイをキュッと引っ張って、形を整える。
そして、見つけてしまう。
ネクタイの、しわを。
「……纏愛、これ、見てくれ」
そう言って、整えられたと思われているネクタイを見せてやる。
このしわは、何回もアイロンをしてようやく消えてくれる。そんな苦労を、この子は知っているだろうか。
いいや、知らないだろう。
「ネクタイはな、きちんと結ばれているからこそ、かっこいいんだ。真っすぐに伸びているからこそ、かっこいいんだ」
俺のネクタイ愛に、火が付く。
「お前は今、俺がこのネクタイをどんな思いでつけてきたか、知らないまま思い切り握ってくれたな? 見ろ、このしわ」
「え、いや、あの……」
そんなに怒る? といった、困り顔を浮かべる纏愛に、俺は熱弁する。
「いいか、俺は今日お前らの担任になった! 高校生活最初に対面する教師、それが俺だ! なら、俺はどんな格好をするべきだ? お気に入りの一本をちゃんと締めて、お前らの前に立つべきだろ? そのネクタイを、今、お前は!」
「ご、ごめんって! ごめんなさい!」
纏愛は頭を守ろうと、両手を前へ出した。
おっといけない。
ネクタイ愛が暴発してしまった。なんと大人げない。
「……とにかく、纏愛。俺はお前のその考え方を否定したいわけじゃないんだ」
「え……? そなの?」
豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で訊き返された。
「そうだ。お前の愛されたいっていう考えは否定しない。だが、やり方が間違っているだけだ。それを伝えたかったんだが、ネクタイにしわができたのがショックで、つい熱くなってしまった……悪かった」
そう言うと、「なぁんだ」と、籠っていた力が抜けたような声を出してから、纏愛が足から崩れ落ちた。
「めっちゃ怖かったぁ……」
「いや、本当に悪かった」
苦笑いを浮かべ、手を差し伸ばす。握られた手をゆっくりと引き上げ、纏愛を立たせてやる。
「とにかく、だ。このままだと、お前は歪んだ愛され方をされるようになってしまうぞ。今日みたいに、襲われて愛されたいのか?」
「……」
釘を刺しておく。纏愛は黙ったまま、俯いていた。
「でも、ママはカンちゃんを――」
「それは今無し」
夢葉さんにもいろいろあったんだよ。
そう突っ込みたかったが、黙っておこう。
今は、纏愛と向き合う時間だ。
「纏愛。お前の気持ちはよく分かった。そして、それが夢というのなら、俺は全力で応援するし、サポートもする」
「え、え?」
「ただし、パパ活は禁止。これからお前には、俺が顧問をしている科学部に入部してもらう」
「え、待って、なんで?」
困惑する纏愛に対し、俺は自分の考えを整理する。
その方が面倒を見やすい、というのが理由の一つだ。
放課後、マッチングアプリなど、別のことをする前に、話をする時間を多く作りたい。そのためには、クラスの教師と生徒の関係だけでは足りない。部活の顧問と部員、この時間を使うことで、矯正の精度をより上げるのだ。
そして、理由はもう一つ。
化学だからこそ、できることもあるのだ。
「纏愛。お前は、好きな人とそうじゃない人、どちらに愛されたい?」
「そ、それは……どうせなら、好きな人……」
もじもじしながら答えてくれた。
「だ、だけど今好きな人なんていないし!」
「その特訓も科学部で行う。そして、科学部には秘密兵器がある。恋に関して言えば、これ以上にお前に良い環境はないぞ」
「秘密兵器……?」
おそるおそる聞く、纏愛に、俺はひっそりと教える。
「纏愛、媚薬って知ってるか?」
「え? びやく? なにそれ」
「じゃあ宿題だ。明日、それについて調べて理科室に来ること。いいな?」
「う、うんわかった」
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