第4話

 ぎゅっと心臓を、悪意を持って握りしめられたような感覚。

『夢があるなら、別れましょ』

 目の前にいる女性――小鳥遊の母親から、元婚約者から出た言葉。彼女の顔を見るだけで――口元を見ただけで、あのときの気持ちが蘇ってくる。


「光秀くん、ここの先生だったんだ……」

「えぇ、まあ……」


 気まずい。

 元婚約者が目の前にいるってだけでも正直キツイ。これに加え、問題児である小鳥遊纏愛の母親ときた。これから注意しようとしても、なんともやるせない気持ちになってしまう。


「あぁ、そんなことより……うちの娘が暴れたそうで……」

「えぇ、まあ……」


 同じ返事を繰り返した。

 そんなことより、か。

 相変わらずだな、この人は。


「ごめんなさい。家に帰ってからきちんと叱っておくから」

「……えぇ、そうしてください」

「えー! ママのお説教やだ!」


 三者三様に一言ずつ。

 夢葉さんは俺と目を合わせようとしない――いや、それは俺も同じだ。お互いに気まずいのだろう。対して小鳥遊は、これから待ち受ける説教にブーイング。


 今日はこのまま、帰ってもらおう。


「周りの生徒を見下すような言動もありました。入学初日からこれでは、今後が心配ですので、その辺も含めて、よろしくお願いします」

「そんなことまで……わかりました。主人にもきちんと報告して、反省させます。この度はお騒がせしてすみませんでした」


 そう言って、夢葉さんは深くお辞儀した。

 びっくり、というか、驚いた。

 この人が他人のために頭を下げるところなんて、初めて見た。いや、他人ではないからだろうか。


 家族だから、なのか。


「纏愛ちゃん、ほら帰るよ」

「やだー! ママ怒るとしつこいんだもん!」


 こうして、小鳥遊一家は職員室を後にする。

 ふう、とため息と共に、俺は先程まで小鳥遊と座っていたソファに、再び座り込んだ。


 なんてことだ。


 小鳥遊が夢葉さんに似ていることはなんとなく気付いていたし、嫌な予感もしていた。そして本人を目の前にして、トラウマを思い出してしまった。


 一番厄介なのは、小鳥遊が問題児に成り得るというと。

 入学初日からこんなことをしでかしたんだ。今後、彼女が問題を起こすたびに、夢葉さんを学校に呼ばなければならない。


 そう思うと、気が重い。

 ガラガラ、と音がする。

 駄々をこねていた小鳥遊が、ようやく母親に連れられ、職員室を出るのだろう。その時、ふと小鳥遊が零した。


「そういえば……ママ、先生と知り合いだったの?」


 背筋に冷めた血が流れるような感覚がした。

 余計なことを聞くな、と声に出そうになったところで、夢葉さんが。


「昔ちょっとね。もう、そんなことはいいでしょ? 話を逸らしてもお説教はするんだから」

「ちぇー……」


 そんなこと。


 夢葉さんにとって、俺はそんなことなんだろう。

 先ほどから引っかかっていた言葉。


 そう、あれは『そんなこと』で済む話。

 俺もいちいち気にしていてはいけない。


「……切り替えないと」


 自分に言い聞かせ、立ち上がる。

 俺は『そんなこと』で済む傷を乗り越えて今、教師になったんだ。


 道を踏み間違えてはいけない。

 夢を叶えるため、まだ見ない感動を、この身で感じるため。


 彼女は問題児の母親。家庭環境にはあまり踏み込めないが、順調な関係で育っている可能性は低いはずだ。

 もしかしたら、母親――小鳥遊夢葉にも、問題があるかもしれない。あのエリート社長にそんなことはまずないとは思うが、念には念を。構えておいて損はないはずだ。


「……つうか結婚してるなら、教えてくれたっていいじゃないか」


 旦那とか、気になるし。

 いやまてまて。

 切り替え切り替え。

 大きく息を吐いて、自分のデスクに戻った。

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