雨が上がるまでに

くらげ

雨が上がるまでに

 雨の日の昇降口は不思議な香りがする。

 世界が。いつもの景色が。薄いヴェールをかけたように見える。

 さああ、という音を聞きながらいつもより少し大きな溜息をついた。


「傘、持ってくるべきだったな…」


 こぼれ落ちた言葉は雨に流される。灰色の空は重く、今の私の心を表しているかのようだ。


「あれ?沢本さん傘忘れたのー?」


 唐突に雨音を遮った、空模様に合わない明るい声。反射的に声のした方へ振り向く。


「一条くん…」


「あれ?名前覚えててくれたんだ?」


「まぁ、同じクラスだし…」


「もしかしてクラス全員の名前覚えてる?それ凄くね?俺、人の名前覚えるの苦手なんだよなー。まだクラスの半分はわかんねぇもん。」


 私だってまさか覚えてもらえてたなんて思ってもいなかった。

 私と彼とでは見える世界が違うから。彼は今日みたいな憂鬱な日も素敵な1日にしてしまえる。私は毎日をただ同じように過ごしていくだけ。

 だからこそ一条くんみたいなタイプは苦手だ。私とは真逆。きっと一生分かり合えない。


「何気に話すの初だよな?」


「…そうだっけ。」


「席近いのにグループワークとかも一緒になったことないしさぁ。沢本さんと話してみたかったから、ちょっとラッキーかも。」


 そういって彼は屈託のない笑顔を見せた。

 そんなことよく恥ずかしげもなく言えるな、と思う。

 だけど。


「私なんかと話してみたいって、一条くん変わってるね。」


 本心は全部隠して。誰にも嫌われないように自分を演じる。それが生きていく上で一番楽な方法だから。すっかり体に染み付いた表面的な笑みを浮かべる。


「いやー、だってさ、気になるでしょ。めっちゃ真面目っぽいのに休み時間になるとどっか行くし、周り見て行動できるとことかかっこいいじゃん。ね?」


 ね?と言われても、そもそも私はそんな人間じゃない。八方美人だと自分でも自覚があるのだから。


「そんなこと初めて言われたよ。」


「そうなの?結構みんなそういうイメージ持ってると思うんだけどなぁ。」


「みんなが持ってるイメージなんて、わからないしね。」


「まー、そうだよなー。沢本さんの中でさ、俺ってどんなイメージなの?」


「え?えーっと…」


 あなたみたいなタイプは苦手です、なんて言えるわけもない。こういうとき何を言うのが正解なんだろう。


「明るくて、毎日笑顔で、キラキラしてて、青春を謳歌してるなって感じ?」


 嘘は言っていない。こんな答えでよかったのだろうか。気を悪くしてないと良いけど。


「えー、俺ってそんなイメージなんだ。」


 なるほどなー、と一人納得する彼。

 とりあえず傷つけてはいなさそう。そのことに安堵した。

 沈黙が流れる。ポトポトと水たまりに水滴が落ちる。ざああ、とさっきよりも強く雨の音がする。近くからか遠くからか響く雨に、飲み込まれていく感覚になった。


「沢本さんって、何か部活入ってる?」


 その声で一気に現実に引き戻される。


「え、あ、ううん、帰宅部。何で、急に?」


「あー、いや、ちょっと気になって。ほら、もうこんな時間だし、この時間まで残ってるのって大体部活してる奴だしさ。でも珍しいね、帰宅部がこんな時間まで学校にいるって。」


「そうだね。私もいつもはもう帰ってる時間。」


「その、今日は、なんか用事?」


「ううん。」


「こんな時間まで何してたの?」


「特に何も。ただぼーっとしてたらこんな時間になってた。」


「あー、そう、なんだ。」


 彼の不自然に下がった目線と、言い淀んだ言葉に違和感を覚える。


「ねえ、」


「あのさ!」


 言いかけた言葉は彼の一言にかき消された。決して声量は大きくないのになぜか刺さるように響いた彼の言葉。


「今日、屋上にいたよな…?」


 ………ああ、そっか。そういうことか。彼はきっと気づいている。私が何をしようとしていたのか。人がほとんどこない北校舎を選んだのに、見られてたなんて。


「うん、いたよ。それがどうかしたの?」


「何で…?」


「鍵、壊れてたから。」


「いや、そうじゃなくて…、えっと……」


 言葉にするのを躊躇う彼を見ているとなんだか取り繕うのも馬鹿馬鹿しくなってきた。


「ごめん、わかってるよ、一条くんが聞きたいこと。」


「…え?」


「屋上で何しようとしてたか知りたいんでしょ?……まさか、見られてたなんてなぁ。」


「何であんなことしようとしたんだよ。」


「あんなこと?一条くんには私が何してるように見えたの?」


「…………飛び降りようと、してた」


「やっぱりわかってたんだね。だから私に話しかけたの?」


「……」


 沈黙。でも、それはつまり肯定を意味する。


「それなら、一条くんが私に話しかけてきたのも納得。じゃなきゃわざわざ私になんて話しかけてこないよね。」


「……話して見たかったっていうのは、本心だよ。」


 苦しそうに吐き出された言葉。真っ直ぐに届くその言葉に、何も言えなくなる。


「…そっか。」


 私は別にやましいことをしていた訳じゃない。ただ、自分の気持ちに正直に行動しただけだ。けれど、自殺という行為は起きてはいけない事だというのが世間の大多数の意見だ。だから彼も、まるでそれが当たり前であるかのように私を止めると、そう思っていた。いや、いっその事そうであれば良かったのだ。


「………何で、自殺なんて、」


 その言葉は私に向けられたようでも、ただの独り言のようにも思えた。


「なんとなく、かな。」


 そう、そこに大した意味などない。全てが嫌になって無気力になって、ただ漠然と死という逃げ道を選んだ。

 雨のように降り注ぐ、不安とか、後悔とか、大きすぎる期待だとか、どうにもできないぐちゃぐちゃした感情とか、そんなものから身を守る傘を持っていなかったんだ。ただそれだけのこと。


「今日は雨が降りそうだったから、止めにしたの。そしたら案の定この天気でしょ?やっぱり人生最後くらいは晴れの日がいいなーって。」


 一条くんは何も言わなかった。あまりにも静かだから不思議に思って彼の方を見ると、彼は


「何で、泣いてるの。」


 涙を流していた。とても綺麗な涙を。


「…った」


「え…?」


「…良かった、今日、雨が降って。」


「それは…私が、飛び降りなかったから?」


「うん。多分、俺じゃどうしようも無かったけど、雨が沢本さんを止めてくれた。本当に、本当に良かった。」


「何それ。もしかして、生きてればいつか幸せが訪れるとかって綺麗事を言うつもり?」


 ふざけるな。そんなもの私は求めてない。そんな来るかもわからない未来のために、いったいどれだけ我慢すればいい?大体私の幸せを、勝手に決めつけないでよ。

 ───でも本当はわかっている。こんなのは八つ当たりだ。彼は素直に、思ったことを言っただけ。こんな風にしか考えられない自分が、より一層嫌いになる。


「…そんなこと言わないし思ってもないよ。沢本さんの幸せなんて、俺がわかるはずもない。沢本さんの幸せは、沢本さんが決めるものだろ。…でも、今日雨が降ったから俺は沢本さんと話せたわけで、最初は取り繕ってるって感じだったけど、今は多分、本心で話してくれてる。それは俺の幸せなわけで、だから、良かった。自分勝手だけど生きててくれて、良かった。」


 想定外の言葉にえ、と声が漏れる。まさか本心じゃなかったこともわかっていたなんて。

 涙を流しながら微笑んだ彼に、その言葉に、なぜか全てを理解してもらえたような気がした。

 私の幸せは、私が決める。

 分かっていても出来なかったこと。

 私の幸せは、ずっと親が決めてきた。あれをしなさい、これをしなさい。いい大学に受かりなさい、安定した職業に就きなさい。そして、これはあなたが幸せになる為に必要なことだと何度も聞かされた。あまりにも時代錯誤だけれど、最初は信じて疑わなかった。けれどその言葉もいつの間にか重荷になった。私はただ好きなものを好きになって、当たり前に夢を持って、ほんの少し自分勝手に生きて、そんなものが欲しかっただけなのに。誰も、誰も分かってくれなかった。


「…沢本さん、本当に、飛び降りたかった?」


「なんで今更、そんなこと」


「だって、泣いてるから。」


 泣いてる?私が?


「違う、これは…。これは雨だよ。」


 泣いてることを知られたくなくて、もうとっくにばれているはずなのに誤魔化した。


「そっか、雨か。」


 そう言って彼はまた笑う。

 ───だから私も、少しだけ笑った。



 私は彼を誤解していたのかもしれない。よく知りもしないのに決めつけて。彼はただ素直で優しい。その優しさが、嬉しかった。


 それから私は、涙が出た理由を考えてみた。

 きっと私は死にたかったんじゃない。理解って欲しかっただけなのだ。『なんとなく死にたかった』だなんて本当に笑える。だからあと一歩がいつまでも踏み出せなくて、雨を理由に飛び降りを止めた。きっと彼と出会わなかったら、何度も挑戦して、そして同じように諦めていたのだろう。

 彼と出会ったのは偶然だ。私が今日、飛び降りようとしたのも、彼が飛び降りようとする私を見たのも全て偶然。

 今日、雨が降った。

 彼に出会った。

 だから私は今、幸せだ。

 偶然が積み重なった奇跡が、私を幸せにした。


 まだ相変わらず雨は降っているけれど、さっきまでよりもずっと世界が綺麗に見える。

 これから私は、私を生きていくから。

 幸せは、自分で決める。

 やりたいことをするし、夢だって見るし、好きなものを好きになる。

 今すぐにでも駆け出したい衝動に駆られた。

 雨だけれど。そんなことは関係ない。


「ねぇ、一条くん。」


「ん?」


「私、飛び降りはしないよ。」


「…え?」


「だから、明日も明後日もその次の日も、いくらだって私と話せる。」


「うん。」


「だからね、一条くん。私達、友達になろう?」


 彼は少し驚いた顔をして、それから直ぐに満面の笑みを浮かべた。


「もちろん。」


「…じゃあ、また明日。」


 そう言って雨の中に駆け出す。後ろからまた明日、と彼の声が聞こえてきた。



 空模様とは反対に、心はとても晴れている。

 ただひたすらに、進んで進んで、気づけば雨は止んでいた。

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