第15話

「マナ……?」

 そんなもの聞いたことがない。ヴェロニカと同じく、キサリも怪訝に眉を寄せている。

「素晴らしい力だぞ。神力と違って扱いやすいし、なにより怒りや憎しみを感じれば感じるほど俺の中に満ちるんだから! 世界を憎む俺にとってうってつけの力だと思わないか?」

「なにを憎んでいるのか知らないけど、早くシウバさまを戻して! さっきシウバさまに指示を出していたでしょう! 操ってるの?」

「彼は九年前から俺の手駒となるべく育ってきた。なのに……」

 ヴェロニカ、とナクシャが憎悪に満ちた蛮声を上げる。お前さえいなければ、もっと早くに計画を終えられていたのにと。

「お前がシウバさまに神力を注いだせいで遅れた! いや、そもそもお前さえ……お前とアウグストさえいなければ、俺は十六年前に当主の座に就いていたのに! そのために兄貴を殺したのに、こんなことになるならお前たちが生まれる前に兄貴を殺しておくんだった!」

「殺した……?」

「食事にジギタリスが混ぜられているとも知らずになあ。あの時はこれで俺が当主になれると本気で思っていた。なのにお前たちがいたせいで! 神力の量と質はヴェロニカ、薬草の知識はアウグストが上だと? ふざけるな!」

 体のうちに溜まった怒りを全てぶつけるように、ナクシャは手近にあった花瓶を力任せに床に叩きつけた。欠片で指を切ったのか、傷口から溢れてきたのは血ではなく、底なし沼のように深い色の魔力だった。

 ヴェロニカの体の奥底が無性に熱くなる。困惑と怒りがないまぜになり、荒々しく煮えたぎって今にも爆発してしまいそうだ。落ち着けと握りこぶしに力を込めるが、頭はなかなか冷静さを取り戻してはくれない。

「目的はなに? なんのためにお父さんを殺して、どうしてシウバさまを操るの! まさかシウバさまの〈核〉が不完全なのも計画のうち?」

「当たり前だろう。完全な〈核〉を作ったら魔力を注げない。むしろ跳ね返される」

「あえて不完全にすることで魔力を注ぐ隙間を作ったってことかしら」

 なるほどねとうなずいたキサリは、苦しげに喉元を抑えていた。檻の前で魔力に触れた時、自分が自分で無くなるような感覚がしたと言っていた。部屋中に魔力が渦巻いている現在、彼はそれと戦っている状態なのだろう。

「とはいえ最初にシウバさまを殺しかけたのはまったくの偶然だし、やったのも俺じゃない。あの時のことが無ければ、計画も多少は違うものになっていただろうな。どっちにしろ終着点は変わらない。全ては王に、世界に、魔術師の権威を見せつけるため! そうすれば彼女だって考え直して、また俺のところに、」

 言葉が中途半端に途切れる。ナクシャが真横に弾き飛ばされたのだ。叔父は壁に激突し、ぐったりと力なく崩れ落ちた。駆け寄ろうにも彼を痛めつけた張本人であるシウバがヴェロニカの前に立ちふさがり叶わない。アタラムから逃げる最中、道筋にいた障害物を排除したといったところか。

「ヴェ、ラ」

 シウバ本来の声に苦しみゆえの軋みと怯えているような震えが重なり、歪な不協和音が生まれる。彼の全身は魔力に覆われ、四つん這いになっている姿は未知の獣にも見えた。呼吸を整えているのか、シウバはヴェロニカをじっと睨みつけたまま動かない。

 ぐいっと肩を掴まれた。振り返るとアタラムの顔がある。無言の眼差しは「俺の後ろに回れ」と訴えているように見えた。その顎に真っ赤な血が伝っている。頭部の負傷から血が流れ出ているようだ。

「アタラムさま、お怪我を!」

「戦地での怪我に比べれば軽い。それより叔父君は……ああ、あそこでノビているな。胸が上下しているし死んではいないだろう」

 ヴェロニカは口早に魔力や叔父が話していたことを説明した。理解できないと言いたげにアタラムは訝しげに唇を曲げたが、ヴェロニカも同様だ。詳しく聞く前に本人が気絶してしまったのだから。

「ひとまずシウバを止めるべきだな。部屋から出て暴れられると大問題になる。今のあいつを見てシウバだと気付く奴がいるか? いないだろう。兵に捕らわれて殺されるのが目に見えている。そもそも捕らえられるのかすら怪しい」

「恐らくシウバさまに注がれた魔力を消せば、なんとか元に戻るとは思うんです。私の神力の質が上回っているからなのか魔力は私に絡みつこうとしないので、いつもみたいに神力を注げば、多分」

「この前アタラムさまが便利な言葉を仰っていたでしょう。『浄化作用』って。要するにヴェラの神力で魔力を浄化すればいいはずよ。ナクシャの魔力ってことはヴェラの神力には到底敵わないはずだから」

「そのためにはシウバを一度大人しくさせなければいけないな。あの状態ではそう簡単に注がせてくれないだろう」

 シウバが牙を剥きだしにして襲ってくる。アタラムの剣が前方に伸ばされた腕を切り落としたためヴェロニカは悲鳴を上げたが、トカゲの尾が再生するように腕がむくむくと生えてきた。どうやら魔力は本来の体より一回りほど大きく覆っているようで、断面の奥にシウバ自身の手が見えていた。

 操っていたナクシャが気絶しているのだから、シウバも大人しくなるのだと思っていた。だが実際は暴れ回り、何度もアタラムに攻撃を仕掛けてはやり返されている。全身と思考をさいなむ痛苦から逃れようとしての行動だろう。

 ヴェロニカもシウバの攻撃から逃れるのに気を取られてしまう。離れた場所からでも出来ないかと試してみたが、動き回る相手では難しかったし、離れれば離れるほど神力が弱まって効果が薄れた。やはり手を掴むなりなんなりするしかなさそうだ。けれど自分一人では無理だ。アタラムにシウバを捕まえてくれないかと頼むと、彼は快くうなずいてくれた。

「その前に一つ確認したい。神力を注げば、例えばシウバが怪我をしていたとしても完治するか?」

「〈核〉が神力で満たされれば」

「ならいい。奴にはあとで死ぬほど怒られるかもしれないが覚悟のうえでやる」

 なにを、と聞くより早くアタラムが駆けた。まるで天馬のような素早さだ。戦地がどうのと言っていたから、そこで培った俊足だろう。魔力に支配されたシウバも敏速だが、アタラムのそれは神速の域である。絡みついてくる魔力は彼から生まれた風になぎ払われ、哀れな塵と化して消えていった。

 迫りくる異母兄に怖気を覚えたのか、シウバは言葉にならないうめき声をあげて逃げ回っている。しかし瞬きの合間に二人の距離は一気につまり、シウバは部屋のすみに追い詰められて退路を失くしていた。

 次の瞬間、

「アァァァァァァァアアァァァァァァァァァァッ!」

 雷鳴のような絶叫がヴェロニカの耳を劈いた。アタラムの剣がシウバの胸を貫いたのだ。剣はすぐに引き抜かれ、叫びが切れるとともにシウバが前かがみに倒れ込む。寸前にアタラムは腕を掴むと、逃げられないように今度は足と床を剣でぬい付け、羽交い絞めにした。

 なんて迷いのない剣さばきなのか。感心する暇もなく、アタラムに「今だ!」と促された。駆け寄ってシウバの手を取るが、ヴェロニカに気付いて暴れ始めた。すぐさま神力を注ぐが、アタラムの拘束を解こうと腕を闇雲に振り回し、せっかく掴んでもすぐに放される。

「シウバさま落ち着いて下さい! 大丈夫です、すぐに神力を、」

「なんでだよ。ヴェラは僕が嫌いなの」

 ひび割れた声が耳に届く。ぐすぐすと涙を含んでいるようにも聞こえた。

「なんで、毒って。僕がなにかした? なんで?」

「信じていただけないかも知れませんが、私はシウバさまに毒をお渡しした記憶はありません」話している隙を見計らい、ヴェロニカはそっとシウバの手を掴んだ。「推測ですが、先日叔父さまが部屋に来たでしょう。あの時、薬の小包を開けていました。その際に毒入りの薬を紛れ込ませたのだと思います」

「ヴェラがそんなひどいことをするなんて、シウバさまも本気で思ってなんかいないでしょう?」

 キサリの問いかけに答える様子はない。壊れたように何度も「なんで」と繰り返すだけだ。恐らくヴェロニカの言葉も届いていないだろう。でも神力を注ぎ続ければ、あるいは。

 シウバの中で渦巻く魔力はかなり多いようだ。ナクシャに注がれたそれに影響され、本来彼に流れていた神力も変質してしまっている可能性がある。この調子ではどれだけかかるか分からない。シウバを押さえつづけるアタラムの表情も徐々に苦しげになっていく。

 なにかもっと手っ取り早い方法はないものか。ヴェロニカが顔を上げると、シウバの金に輝く瞳が間近にあった。思い出した。先日彼の部屋に来たときに違和感が頭をかすめたが、瞳の色が普段と違う気がしたからだ。部屋もめちゃくちゃになっていたし、シウバはあの時も魔力に支配されて自我が薄れていたのだろう。

 再び手が弾かれる。アタラムから逃れようともがく際、無暗に振り回した爪がヴェロニカの頬を裂いた。鋭い痛みに思わず小さく悲鳴を上げた途端、シウバの動きがぴたりと止まった。

 ――なんでか分からないけど、好都合だわ!

 手から注いでいたのでは時間もかかるし注げる量も多くない。ヴェロニカは意を決し、ごめんなさいと素早く謝ってからシウバの乱れていたシャツを開き、胸の傷口に両手のひらを押し当てた。

 シウバの〈核〉は胸にある。そこへ直接、一気に大量の神力を注ぎ込むように。

 魔力と違って神力は目に見えない。けれど確かに浄化していると感じる。シウバから溢れるそれも徐々に神力が混じり始めたのか、胸や足の傷から血と共に溢れる影は消え、彼を中心に魔力が消散していった。

 全身に汗が伝う。拭う間もないまま、ありったけの神力を注ぎ、キサリに止められるまでそれは続いた。自分の持てる力をすべて出し切った感覚に脚がよろけ、崩れ落ちる前にアタラムの腕に受け止められる。

「よくやった」

 彼はもう片方の腕でシウバの背を支えている。その姿に異形の影はなく、いつものシウバに戻っていた。ただ表情は疲れ切り、意識がもうろうとしているのか視線は定まっていない。

 アタラムはシウバを床に寝かせ、足を貫く剣を引き抜いた。神力が補給されたため胸と足の傷口が少しずつ修復されていく。それに伴って意識もはっきりしてきたのか、シウバはヴェロニカたちを順番に見やって小さく息をついた。

「僕、またなにかしたんだね……」

「したというよりも、されたと言った方が正しいかも知れません。叔父に代わって謝罪します」

「ヴェラのせいじゃないでしょ。はっきりとじゃないけど、今回は全部覚えてる……ナクシャになにかされたのも、暴れてた間のことも」

 ヴェロニカに吐いていた憎悪も、一滴の朝露ほどの微量であったとしても自分の中にその感情があったからこその本音で、付け入られて操られたのだろうと。簡単に言いなりになったのは自分の弱さだとシウバは自嘲気味に笑った。

「そんなことないです!」自分でも思っていた以上に大きな声が出てしまった。勢いはそのままに声量を落とし、ヴェロニカはゆるゆると首を振った。「シウバさまは被害者です。なんの非もありません」

「……ありがとう」

 傷口が塞がった頃、疲れたと言ってシウバは目を閉じた。おかしいといち早く気づいたのはアタラムだった。

「息をしていないんじゃないか」

「えっ?」

 そんな馬鹿な。神力は完璧に補給したはずなのに。慌てるヴェロニカの隣で、キサリが冷静にシウバの胸に手を置いている。

「単純にここと足の傷の治癒で使い果たしちゃったんだと思うわ。どっちも貫かれてたもの。それなりに大量の神力を使って、停止しちゃったのね」

「じゃあまた補給すれば……」

 ヴェロニカはシウバの手を取ろうとしたが、キサリに待ってほしいと止められた。彼の目はいまだ気絶したままのナクシャに向けられている。

「シウバさまの〈核〉が不完全だったから魔力を注ぐ隙が出来てしまったでしょう。この前に暴れてたのは、町に出た時に獣から出たそれを吸収してしまったからでしょうね」

「同じことが起こらないためにも、まずは〈核〉を完全体にすることを考えなきゃいけないのね」

 そうすれば定期的に神力を注ぐ必要性も無くなるし、神力が減った隙間に魔力が入り込むことも無い。けれどすでに体内に埋め込まれているものを、改めて完全体にすることなど出来るのだろうか。

「それは止めた方がいいわ。〈核〉を完全体にするなら一度取り出した方がいいけれど、迂闊にそんなことして本当に死んでしまう可能性だってあるもの」

「新しい〈核〉をちゃんと用意した方がいいってこと?」

「シウバには悪いが、完全な核が出来るまでしばらく眠っていてもらうしかないわけか」

 そういえば、とヴェロニカは部屋を見回した。さんざん暴れ回ったせいで室内はひどく荒れている。机や椅子は無残に折られ、見る影もなく瓦礫の山と化している。

 その隙間から、きらりと輝く物があった。

「あった!」

 ヴェロニカが瓦礫の山から見つけたのは丸みのある石だ。初めて見た時に比べて表面は汚れているが、幸いひびは見当たらない。石を手にシウバの元に戻ると、アタラムが「ヒスイか?」と首を傾げた。

「この前たまたまキサリに〈核〉の作り方を聞いたんです。あの時は転がってた石を例にしてたけど、これでも大丈夫よね?」

「問題ないと思うけれど、待ってヴェラ、今ここで作るつもり?」

「私にしか出来ないことだと思うから」

「無茶よ! 前も言ったけど集中力がいるし、注ぐ量も一定でなきゃいけないのよ。それにいくらヴェラの神力が膨大とはいえ、シウバさまの浄化と神力の補給で結構な量を使ったばかりじゃない! 初めてのことなんだし、途中で力尽きて不完全な〈核〉になったらどうするの!」

「やってみなきゃ分からない!」

 ヒスイを両手で包み込んで神力を注ぐ。一定の量とキサリは言うが、どれくらいが適切なのか分からない。己の勘を信じるしかない。焦って不完全なものが出来ては同じことの繰り返しになってしまうから、なるほど確かに集中力が要る。

 邪魔をするまいとアタラムもキサリも黙り込んでいる。まるでこの場からヴェロニカだけ切り離されているような感覚がした。床が消失し、体がふわふわと宙に浮かんでいるような奇妙さが全身を包む。深い闇に放り込まれたように音も途絶え、周囲の景色もただの漆黒に変わった。

 はじめは混乱した。けれどすぐに狼狽えるなと自分を律する。手の中には確かに石がある。気のせいか、ヒスイが徐々に熱を帯びている。

 無我夢中で続けて、どれくらい経っただろう。一瞬だったのか、数時間か。

 不意に目の前に二つの光が現れた。

 目が眩むほどの神々しい緋色と、清々しく輝く純白の光だ。二つは蛍火のようにふらふらと揺れていたが、やがてヴェロニカの前で静止すると、指の先ほどしかなかった小さな光は爆発的に大きくなり、柱のように上下に伸びていく。

 一体なにごとか。呆然としていると、純白の光の一部がにょきりとヴェロニカに向かって伸びた。まるで巨木の枝だ。枝は見る見るうちに枝分かれし、その一端がヴェロニカの頭に触れ、さわさわと揺れた。きょとんと顔を上げると、緋色の光がぐらぐらと左右に振れる。なんだか笑っているように見えた。

 ぱちんとなにかが弾ける音がする。二つの光から小さな光玉が分離したのだ。光玉はヴェロニカの手の中に吸い込まれるようにして消え、その途端、ヒスイが稲光と見紛うほどの輝きを発した。

 危うく取り落しそうになったが、寸でのところで耐える。恐る恐る手を開けると、

「すごい……」

 ヒスイ本来の色が失われた代わりに、緋色と純白の光が石の中でたわむれるように渦巻いていた。光は常に形を変え、石自体もどくどくと脈打っているような感覚がある。

「これが〈核〉……?」

『そうです』どこからかたおやかな声が響いた。慈しみ深い穏やかさを孕み、たった二文字の言葉だったのに子守唄のような安らぎを与えてくれる不思議な声だ。

 次に聞こえたのは勇ましい声だった。先ほどのそれが子守唄なら、今度は目覚めを促すたくましい頑強な声だ。

『類まれなる高潔な魂の持ち主に祝福を』

「あの、あなたがたは一体」

「ヴェラ!」

 突然誰かに名を呼ばれた。はっと我に返った時、すでに二つの光は消え失せて、あたりにもいつしか色が戻っていた。

 ヴェロニカを呼んだのはキサリだった。夢うつつな頭をはっきりさせるために何度も瞬きを繰り返すと、先ほどまでいなかった大勢の兵がヴェロニカたちを取り囲んでいた。どうやら部屋に突入してきたようだ。

 さっきの光と声は、まさか。ヴェロニカの脳裏を過ぎったのは、国内で信仰されている光と闇、二柱の神だ。多くの場合、光の神は太陽を、闇の神は月をそれぞれ化身としている。先ほどの光の色から考えて、あれは間違いなく。

 ――力を、貸してくれたのかな。

 ヴェロニカ、と張り裂けそうな声が聞こえた。兵たちをかき分けて現れたのはアタラムだった。

「ヴェロニカ! 大丈夫か? すまない、彼らに事情の説明をしに回っていた」

「アタラムさま」これを、と手の中のそれを差し出す。「出来ました。〈核〉です」

「! 本当か?」

「すごいわ……やったわねヴェラ! 紛れもなく完成形の〈核〉よ、すごいじゃな……ヴェラ?」

 急に視界がかげり、無意識に体が後ろに傾いでいく。

 床に倒れ込む前に、ヴェロニカの意識はぷっつりと途切れた。

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