第14話

 キサリが沈痛な面持ちで牢に戻ってきた。シウバの部屋に入れなかったのだという。

「部屋を囲うみたいに影があたりに充満してたの。壁も厚いみたいで声も聞こえなくて。あとここ、位置としては図書館の隣ね。入り口だけが地上に出てるんだけど、陰で見えないようになってたわ」

「そう……ありがとう」礼を言った自分の声は、思っていた以上に疲弊していた。つい先ほど尋問が終わったばかりなのだ。殴られたり鞭うたれたりはしなかったため怪我はないが、犯人と決めてかかる高圧的な物言いにあれこれと言い返していたからか無性に疲れた。

「なにを言っても聞いてもらえなかったけどね。どこか壊れてるんじゃないかって怖くなるくらい、ずっと『お前がやったんだろう』の繰り返し」

「嘘でも認めるまで捕えておく気なのかしら」

 ヴェロニカは縛られたままの手を動かした。牢から出て自分でも調べられないかと思うのだが、縄から抜けられなければどうにもならない。シウバが飲んだという毒はなんなのか取り調べに来ていた者たちに問い質してみたが、「知っているくせに白々しい」と一切答えてくれなかった。

 なにも出来ないまま捕らわれているしかないのか。もう一度キサリに調べてきてもらえないかと口を開いた時だった。

 があん、とけたたましい音が響いた。続いて扉の開く音、誰かのうめき声と順番に聞こえ、最後に「ヴェロニカ!」と名前を呼ばれた。

 ――ああ。

 言葉にならない安心感が、吐息と共に唇から漏れる。

 知っている声だ。誰ですかと聞くまでもない。ヴェロニカは反射的に彼の名を呼んだ。「アタラムさま!」

「無事か、ヴェロニカ」

 もぞもぞと這うように通路に近づくと、目の前にアタラムの靴が見えた。牢を開錠してくれたらしく、両手足を縛っていた縄も切断された。立ち上がる際に腕を支えられ、その手の温かさに幻ではないのだと涙が滲んだ。

 ずっと体勢を固定されていたせいで足がふらつく。よろけて転ぶ寸前に、彼の胸に受け止められた。服の上からは分からなかったが、想像以上にたくましい胸板だ。大丈夫かと訊ねられて、思わず頬を染めながら無言でうなずく。よく見ると右手に剣を握っている。飾り気がなく、実用性に特化しているものに見えた。

「これか? 見張りをしていた者たちから拝借したんだ」

 手段は多少手荒くなってしまったが、と呟いたように聞こえたのは、多分気のせいではない。彼が所持しているのはそれだけではなかった。

「どうしてアタラムさまが薬の包みをお持ちなんですか? 私のカバンも……というかなんでここに」

「移動しながら話す。ひとまず牢から出るぞ」

「ひえっ!」

 体をすくい上げられ、アタラムの背中が目に入る。担ぎ上げられているのだと気付いた時には、アタラムはなぜか通路を出入り口の方と反対に走り出していた。しばらく呆然としていたキサリも慌ててついてくる。

「剣を持っているからな。少々乱暴な担ぎ方ですまない。揺れるが我慢してくれ」

「ど、どこに行くんですかっ。出口はあっちなんじゃ」

 彼が入ったのは一番奥の牢だった。違う牢に移動しただけじゃないかと首を傾げた直後、どんっと壁を蹴り飛ばす音が聞こえた。立ち止まったのはわずかな間で、アタラムは壁に向かって走り続けた。ヴェロニカの前から、どんどん牢が遠ざかっていく。左右の壁は土がむき出しになっていて、空気もずいぶんひんやりとしている。

「隠し通路だ。大昔に放棄されて、今では俺以外に正確な道筋を知る者はいない」

「なんでアタラムさまはご存知なんですかっ」

「子どもの頃、一人になれる場所はないかと探している時にたまたま見つけた」

 明かりが一切ない上に、通路は何ヵ所かで分岐していたが、アタラムは迷う様子もなく突っ走っていく。幼少の時分にはかっこうの探検場所で何度も入り浸っていたといい、どこを走ればどこに出るのか、完璧に覚えていると言った。

「あ、あのっ、自分で走れますから!」

「もう少し待て。追っ手が来ると困る――――うん。このあたりで大丈夫か」

 やっと下ろしてもらえて、ヴェロニカはようやく安堵に胸を撫で下ろした。暗闇で姿は見えないが、キサリもそばにいるようだ。「ヴェラをあんな風に担ぐなんて!」と隣でぷりぷり怒っている。

「単刀直入に聞く。シウバに毒を持ったのはヴェロニカだと言われているが、間違いだな?」

「……はい。身に覚えがありません。アタラムさまがお持ちの包みも、部屋に持ち込んだ記憶がないです」

 信じてもらえないだろうか。暗くて彼の顔色をうかがえないのが恐ろしい。うつむいたヴェロニカの耳に、「信じよう」と穏やかな声が届いた。はっと顔を上げて目を合わせると、本当だと重ねるように力強くうなずいてくれる。

 手が震え、胸の奥で燻っていた憂苦が取り除かれていく。かわりに随喜が満ちていき、気付いた時には両目から涙がこぼれ落ちていた。

 身内にすら疑われていたのに。この人はあっさりと、けれど強い確信をもってヴェロニカを信じてくれた。声を堪えて泣いていると、なにも言わずに抱きしめて背中を撫でてくれる。服が汚れてしまってはいけないと身じろぎしたが、構うなと言わんばかりにより強く抱き寄せられた。

「声が響いて隠し通路が知られては困るからな」とぶっきらぼうを装っているが、照れているのが丸分かりな声がなんだかおかしい。あやされているみたいで不満だったのも吹き飛んでしまった。

 ヴェロニカが落ち着いた頃、アタラムは手を引いて歩き出した。空いた片手を壁に伸ばすと、人一人が通れるほどの広さしかないのが分かる。

「シウバの部屋やあなたたちの工房から押収された荷物を学者のところから持ってきた。本当にあなたのものか確認してほしかったが、明かりのない通路では難しい」

「いえ、アタラムさまがお持ちのカバンは間違いなく私のものです」

「レティシアがこの子たちの誕生日に贈ったものだもの。間違えるはずがないわよね」

「ひとまず今は急がなければ。転ばないようにな」

「どこに行くんですか? 私が牢にいないと分かれば捜索されると思いますし、表を歩けるとは思えないのですが」

「安心しろ。隠し通路は俺たちの住居まで続いている。入り口は蹴とばしたまま放置してきたが、暗いし入り組んでいるし、早々に居場所を知られることはないだろう。大きな物音さえ立てなければ問題ない」

 アタラムの部屋に出るのかと思っていたが、どうやら向かう先は別のようだ。彼は彼で勝手に証拠品を持ってきたため、自室に人が押し寄せていないとは思えないという。そんな場所に突然ヴェロニカたちが現れれば、騒動はより大きくなってしまうし、アタラムも共犯として捕らわれかねない。

 では一体どこへ。暗闇の中で、不安を拭い去るように彼が力強く手を握りしめてくれた。


 隠し通路の出入り口はたいてい壁に似せて作ってあり、一目でそれと分かる場合は少なく、大半は開閉されずに長い年月が経っているために簡単には開かない。アタラムが目指していた出口は何度か使われていたのか、牢の時と同じように蹴り飛ばすと簡単に開いた。

 恐る恐る外に出る。どこかの部屋だ。明るさに目が慣れた頃、ようやくどこか気付いた。

「シウバさまの部屋、ですか?」

「ああ。この前までクローゼットで通路の出入り口は塞がれていたんだが……簡単に開いたと思えば、なるほど」

 アタラムが指差したのは廊下に通じる扉だ。その前には椅子や机ほか調度品が山と積まれており、誰の出入りも許さないことがうかがえる。鍵もかかっているらしく、扉の向こうから激しいノックの音と何人かの呼び声も聞こえた。

 室内はやけに静かだ。シウバの姿が見えないが、恐らく隣の寝室にいるのだろう。

 扉を開けようとすると、アタラムに待てと制された。

「なにか聞こえる」

「……本当ですね。唸り声みたい」

「俺が開ける。なにがあるか分からない。気を付けた方がいい」

 ヴェロニカがうなずくのを確認し、アタラムがドアノブを回す。こちらに鍵はかかっていなかった。彼の肩越しに寝室を覗くと、先日と同じようにカーテンが閉め切られているのか、薄暗くていまいち様子が分からない。

 いや――薄暗いのではない。もぞもぞとうごめき、絶えず形状を変えるそれは、

「っ!」

 突然なにかが飛び出してきた。咄嗟に身を屈めたヴェロニカの前で、アタラムの剣が正面から受け止める。無理やり寝室に押し返すと、獣の咆哮に似た絶叫が部屋中に轟いた。

「い、今のは……!」

「分からん。だが声なら分かる」

 あれは、シウバの声だ。

 先ほど寝室から飛び出してきたなにかは、全身を黒い影に覆われていた。だが背格好にひどく見覚えがある。ヴェロニカだけでなく、キサリとアタラムも同様らしい。誰もが困惑に口ごもり、眉をひそめていた。

 寝室でうごめいていた大量の影がこちら側に流れ込んでくる。それらを引き連れ、全身にまとわりつかせて、アタラムが押し返したなにかが再び姿を現した。ぐるぐると喉の奥底から唸り、一歩足を踏み出すごとに床にどろりと泥のように影が広がっていく。アタラムに庇われながら後ずさり、ヴェロニカは震える声でそれの名を呼んだ。

「シウバさま、ですよね?」

 反応はない。だが影がうごめいた隙間から覗く血色の悪い顔と、健康的とはいえない細い体は間違いなくシウバだ。結ばれていない髪は影と同化し、雲がうねるように逆巻いている。だらりと下ろした手の先には、クマに似た鋭い爪が凶暴に輝いていた。

 曇天の空のような暗さでありながら、それでいて獲物を狙う狩人のようにぎらつく瞳がヴェロニカを捉える。その色は普段の美しい瑠璃色と異なり、獰猛さを湛える気高い金色に変化していた。

 ヴェラ、と唸り声に紛れてかすかに名を呼ばれた。聞き間違いではない、シウバの声だ。苦しげに助けを求めるような響きだった。突然影に襲われ、誰かが来たと感じて助けを呼ぶために飛び出してきただけなのかも知れない。駆け寄ろうとして、

「ヴェラ危ない!」

 キサリの叫びに振り返るやいなや、アタラムに腕を強く引かれた。直後、床が抉れる轟音が耳を叩く。なにが起きたのか分からずに戸惑いながら目を向けると、肥大化した腕のような影が、先ほどまでヴェロニカがいた場所に叩きこまれていた。

 嘘であってほしいと思いながら腕の主を見る。床に拳を叩きこんだのは、他でもないシウバだった。

 うぅ、と血に飢えた獣のごとき呻きを上げ、シウバが床を蹴った。ヴェロニカを狙っているのか、天井近くまで跳ね上がった彼はヴェロニカ目がけ、爪をむき出しにして落下してくる。逃げようにも足が竦んで動けず、頭を伏せるしか出来ない。耳を劈く金属音に顔を上げると、アタラムの剣が異母弟を弾き飛ばしていた。

 手足の爪を喰いこませ、シウバは器用に壁面に着地する。荒々しく吐かれる息に混じり、彼の中から影が溢れているのをヴェロニカは見た。

「まさか……シウバさま、あの獣たちみたいな状態ってことなんじゃ」

「確かに角が生えた獣たちも体内から影を出していたが……」

「でもヴェラ、シウバさまに角なんて生えてないわよ」

「それはそうさ。彼の〈核〉は体内にあるんだから、わざわざ外付けする必要なんてない」

 寝室の奥から悠揚とした声が聞こえる。ヴェロニカに代わり、シウバに神力を注ぐために入室を許可されていた人物は一人しかいない。

「叔父さま!」

 影をさき悠々と現れたのはナクシャだった。彼ならシウバが変貌した理由を知っているかも知れない。他の誰も部屋に入れなかったのも、自分だけで対処するつもりだったのだろう。神力を注いでいたのか、表情は疲れ切っている。けれど妙な清々しさも漂っていた。

「叔父さま。シウバさまになにがあったんですか? 獣たちと同じ状態なら、角――〈核〉に神力を注げば影を消せます!」

「困ったな」ナクシャは眉を下げて苦笑し、なぜか憤激に満ちた眼差しでヴェロニカを睨みつけた。「気付かれると面倒だから遠ざけていたのに。檻自体に近づかせるんじゃなかったよ」

「え……?」

「俺からも聞かせてもらおう。ナクシャ、外付けする必要なんてない、とはどういう意味だ。〈核〉をか?」

「答える必要性を感じません」

 面倒くさそうに首を振り、ナクシャは人差し指を伸ばした。つるを巻いて成長していく植物のように、彼の指を伝って影が上へと伸びていく。叔父が指をヴェロニカたちに向けた途端、壁で待機していたシウバが跳躍した。

 今度はヴェロニカではなく、アタラムを直接狙う。怪我をさせまいとアタラムは防御をとるしかなく、もはや理性など残っていそうもないシウバが闇雲に爪や牙を立てていた。勢いに押されてじりじりとアタラムは後ずさるが、なんとか押し返す。しかしまたすぐに気圧される。

「シウバさま止めてください!」

「聞かないよ。今のシウバに言葉なんて届かない。アタラムに邪魔されると困るから、しばらく兄弟で仲良く殺し合ってもらおう」

「ナクシャ、あなたさっきからなにを言ってるの? シウバさまに神力を注いで、毒の治癒で消費してしまったそれを補給していたんじゃないの?」

 キサリの声は聞こえていないはずだが、ヴェロニカが黙っていたからなにかを言われている、そしてその問いが何なのかもナクシャは察したようだった。くは、と乾いた笑いが髭の下からこぼれ落ちる。

「長かった。本当に長かった。計画からおよそ九年だ」

「計画……九年?」

 九年前といえば、シウバが〈核〉を埋め込まれた頃だ。

「正確には十六年前だ。そのあと一度計画は潰えたけど、あの一件で再び軌道に乗った。本当に長かった……」

「十六年前って」

「……アタシが死んだ時ね」

 ぼそりとキサリが呟く。想像以上に彼は昔の人物ではなかったらしい。意外ではあったが、今はそれどころではない。

 アタラムを助けに行きたいが、加勢したところで足手まといになるのが目に見えた。ヴェロニカに出来るのは、先ほどからなにを言っているかよく分からないナクシャから話を聞くことだけだ。

 ヴェロニカは足元に漂っていた影を掬い上げた。初めは手のひらで澱のようにこごり、次第に憑りつこうとしているのか腕を伝ってきたが、やがて相性が悪いと感じたのか霧散して消える。先ほどナクシャは指に影を絡めていた。

 まるで操るように。

「叔父さまがシウバさまに注いでいたのは、神力イラ じゃないのね?」

「神力なんか注いだら全てが無意味になる。シウバに補給していたのは、お前が影と呼ぶこれさ」

 これは神が人間に残した神秘の力などではないと笑い、ナクシャは両手を広げた。その手のひらに影が球状に密集していく。叔父が踊るように腕を動かすと、影も同様にうごめく。まるで子どもが球遊びをしているかのような無邪気さだが、ナクシャの瞳は無邪気さとは程遠い鬱憤で濁っていた。

「これは俺が……魔術師が新たに見つけた力――魔力マナ だ」

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