第9話

 部屋は盗賊が入ったのかと思うほど荒らされていた。クッションは引き裂かれて綿や羽毛が飛び出し、花瓶は床にたたきつけられて粉々になり、カーテンも無残に引きちぎられている。クローゼットや机も横倒しのまま放置されている。

 ヴェロニカだけでなく、アタラムも驚いているようだ。彼は室内の状況まで知らなかったのだろう。

「なにがあったんですか? シウバさまもいませんし……」

「シウバは恐らく隣の寝室だろう。しかし、これは一体」

「わ、分かりません」従者の声は震えていた。戸惑いか、それとも恐怖か。「急にシウバさまが暴れられたのです。止めても振り払われて、今はアタラムさまが仰った通り寝室にこもっておられます」

 従者自身も殴られたりしたのだろう。唇のはしが切れて血が滲んでいた。

 寝室の扉は閉ざされている。耳を当ててみたが、特に物音はしていない。いたって静かだ。鍵がかけられていたが、非常事態だからと従者に開けさせた。

 寝室の扉をノックすると、「入って」とくぐもった声がした。従者は入室を許可されていないというので、ヴェロニカとキサリ、アタラムの三人でシウバに近づいた。

 昼間だというのに暗いのは、カーテンがぴっちりと閉め切られているからだ。部屋の中央には天蓋付きのベッドがあり、シウバはそこで体を起こしている。薄暗くて分かりにくいが、彼は両手で顔を覆っているようだった。

「遅くなって申し訳ありません、ヴェロニカです。体調がすぐれないと伺いました。お加減はいかがですか?」

「ああ、ヴェラ……」

 ゆるりとシウバが顔を上げる。ドレスを贈ってくれた時に比べ、声にあまり覇気がない。

 こっち来て、と手招きされ、彼の顔が分かるくらいまで近づく。顔色を確認するべく、断りを入れてから手を伸ばした。

 ――あれ?

 なにかしら違和感が頭をかすめた。気のせいかと思ってもう一度よく見ようとしたが、

「うわっ!」

 ぐいっと腕を引かれ、ヴェロニカはベッドに倒れ込んだ。シウバの腰に乗りかかるような形になり、慌てて体を起こそうとするが、「なんで?」と彼の苦しげな声が降ってくる。

「僕、ドレス贈ったよね? どうして今日は着てないの」

 ヴェロニカが今日着ているのは、王宮に来た初日と同じ、地味で飾り気のないドレスだ。

「叔父さまたちのお手伝いや練習をするには、こちらの方が動きやすくて」

「本当に? 迷惑だったから着てないわけじゃないの」

「ええ! 作業中に汚れてしまわないように、今はこれを着ているんです」

「ふうん……」

 ひやりと冷たい手がヴェロニカの顎をなぞる。一体なにをしているのか分からずに顔を上げると、シウバの目が悲憤に揺れていた。

「僕はまだ、ヴェラが綺麗なドレスを着た姿を見ていないのに」

「え? でも試着した時にご覧になったじゃ……」

「着てもすぐに別のものに替えてた。だからじっくり眺めたわけじゃない。なのにアタラムには見せたんでしょ」

「えっと……」

 この前アタラムと庭園で会った時のことか。シウバには言っていなかったはずだが、きっと人伝に聞いたのだろう。

 もちろん何事も無ければ、慣れるためにも贈られたドレスを着てシウバの様子を見に行ったりするつもりだった。だが例の獣たちの騒動が起こってからは、ヴェロニカは談話室に引きこもりっぱなしだったし、そもそもシウバと顔を合わせる機会が無かった。

 正直に事情を話したが、シウバが納得したかは怪しい。

「庭園とか薬草園だってさ、僕が案内したかった。どうしてアタラムと行ったの」

「お誘いを断るわけにはいかないじゃないですか」

「じゃあ次から断ってよ。僕と一緒に行くからって言えば、あいつだって無理やり誘ったりしないだろうし」

 もしかしてアタラムが今ここにいることに気付いていないのだろうか。シウバの声には面と向かって相対している時よりも鋭い棘を感じる。迂闊に声を出すとまた荒れると理解しているからか、アタラムは寝室に入ってから無言を貫いていた。

 仲が悪そうだとは思っていたが、ヴェロニカの想像以上に二人の溝は深いらしい。

 ――これは図書館も一緒に行っていたとか言わない方が良さそうだわ。

 幸いそちらはシウバの耳には入っていないようだ。内心で安堵の息をつき、ヴェロニカはなんとか話題を変えた。

「体調は大丈夫なんですか? 神力は?」

「獣の特徴を知ってるからって、僕も引っ張り出されたからね。いつもより動いたからかな、動くのに問題はないけど、気分は良くない」

 どうやら神力が不足していると考えて間違いなさそうだ。ヴェロニカはシウバの手を取り、すぐさま神力を注いだ。

「ねえヴェラ。聞きたいことがあるんだけど」

「なんでしょう」

「僕ってさ、死ねるのかな」

「……はい?」

 突然なにを言い出すのか。ヴェロニカの眉間に皺が寄る。

「幻獣は〈核〉がある限り半永久的に死なないじゃない。じゃあ、僕はどうなの?」

「……分かりません。前例がありませんから」

 人を材料にした幻獣は数多くいるが、シウバのように生きている人間に直接〈核〉を埋め込み、延命させたのはナクシャの試みが初めてだ。叔父の作ったそれが不完全だったせいなのか、シウバは老いない幻獣と違い、歳をとっている。だが半永久的に生き続けるのだから、恐らく老衰は考えられない。

「怪我だってすぐに治るし、元から体が弱いから病気はするけど、神力で完全に癒える。そう考えたらさ、僕って死ねるのかな?」

「私には分かりません」

「キサリなら分かる?」

「……どうかしら。けれど多分、普通に死ぬのは難しいと思うわ。神力を補給しなければ動かなくなるとは言っても、それは死じゃないもの。ただの停止。シウバさまにとっての死は、〈核〉を完全に破壊されることだと思う」

 それまでは神力を補給される限り、どれだけ老いて枯れ木のような見た目になろうと、シウバは生きているだろう。

「それはイヤだなあ……」

 はは、と彼は乾いた声で笑う。

 体内に〈核〉がある限り、恐らくシウバは、ヴェロニカやアタラムよりもずっと長く生きるはずだ。

「ヴェロニカがいなくなったら、誰が僕に神力をくれるんだろうね」

「そんなに先のことは、私にもキサリにも分かりません。いいじゃないですか、今は私がいるんですから」

「そうよ。何年も先も未来のことを今から考えて暗くなるなんて、疲れちゃうでしょ。その時になったら考えたらいいじゃない」

 神力がシウバの中に満ちたあたりで手を放す。が、今度は彼の方から手を握ってきた。

「足りませんでしたか?」

「違う。けど、ごめん。もう少しだけ握っていてくれないかな」

 特に断る理由もない。ヴェロニカは二つ返事で了承し、許可を得てベッドに腰掛けた。

 外の日差しが強くなったのか、カーテンから光が透けている。わずかな明かりに照らされたシウバの顔は、入室した時に比べていくらか朗らかさを取り戻しているように見えた。

「神力を補給したからかな。だいぶ気分がよくなった。ごめんね、変なこと言ったりして」

「お気になさらず。体調が悪い時って、考えることも後ろ向きになってしまいますから仕方ありません」

「さっきシウバさまが言ったことだって、きっとずーっと考えてたけど、表立っては言えずに抱えてたんでしょう? いいのよ、こういう時くらい弱音を吐いたって」

 キサリに頭を撫でられ、シウバは照れくさそうに笑った。すると彼は、ヴェロニカの手を自分の頬に触れさせた。陶器で出来たと言われても信じてしまいそうなほど滑らかなそこは、氷水に浸けられていたのかと思うくらいひんやりとしている。

「あ、あの、シウバさま」

「ヴェラも撫でてよ」

「でも不敬じゃ……」

「命令」

 そう言われれば逆らえない。アタラムやキサリに見られている恥ずかしさはあるが、失礼します、と一言告げてから、おずおずとシウバの頭に手のひらを置いた。

 乱れていた黒髪は、見た目通りさらさらとしていて触り心地がいい。いつもは下の方でゆるく結んでいるが、今はまとめられておらず、背中や胸の前に長い髪が流れていた。ヴェロニカがそっと撫でるのに合わせ、毛先もふらふらと踊る。

「うん、気持ちいい。キサリにされるよりも、ずっと」

「ちょっと。どういうことよ。聞き捨てならないわね」

「生身の人間にされた方が気持ちいいのは当たり前でしょ。ねえ、ヴェラ?」

「私はキサリに撫でられるの、結構好きですよ」

 そのうちシウバはヴェロニカの肩に頭を預け、緊張がほどけたように笑ってくれた。

 なんだかわがままな猫を撫でているようだな、とは言わないでおいた。

 どれだけそうしていただろう。彼が満足するまで、ヴェロニカは頭を撫で続けた。よくよく考えてみれば、誰かに頭を撫でられることはあっても撫でたことはない。なんだか新鮮さのほかにくすぐったさもある。

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