第8話

 眠りから覚め、ヴェロニカは大きく伸びをした。談話室の机に突っ伏して眠っていたため、尻と腰、ついでに腕も悲鳴を上げている。顔にもなにか張り付いていると思ったら、すみれ色の四角い布がひらりと舞った。落ちたそばには同色の紐と、乾燥した薬草が何種類か束ねて置かれている。

 ――そうだ。練習してたんだった。

 疲れて寝落ちしたのだと理解したところで軽く体を動かし、いまだ物音が止まない工房を覗き込んだ。

 部屋の中央には先日のシカ同様、一頭のイノシシが転がされている。一昨日、町中に突然現れた獣のうちの一頭だ。禍々しい影をまとい、額から生える捻じれた角を闇雲に振り回して抵抗している。

「よし、こいつは再生が遅い! 幻獣の証拠は……〈核〉はあるか?」

「ダメです、心臓付近にはありません!」

「腹は捌いたのか! 他に可能性があるのはどこだ、頭は見たか!」

「うわあっ! 影、影がぁっ」

「バカ野郎っ、心臓を傷つけるなと言ったはずだ! ああっくそ、ダメだ!」

 ナクシャたちは懸命にイノシシを調べているが、誤って弟子の一人が殺してしまったようだ。工房全体を覆い尽くすほどの影が溢れ、間もなく弟子の断末魔が轟いた。見ちゃダメだとキサリがヴェロニカの目を隠したが、遅かった。

 うえ、と身を屈めて嘔吐する。ヴェロニカだけではない。ナクシャの弟子たちも何人か同じようにえずいていた。

 ヴェロニカたちゼクスト家の面々は、獣たちの全容解明を急かされている。

 町中に現れた獣の大半は、ナクシャの弟子に起こったことをアタラムやシウバが兵たちに伝えていたため生け捕りにされている。だが事情を知らなかった者たちが殺してしまった個体もいて、その分の犠牲者も確認されている。

「ああ、ヴェロニカ。起きていたのか」

「ついさっき。叔父さま、調査はどう?」

「微妙だな。全く、国王陛下も無茶を言うよ」

 きっと食事をとっていないはずだ。獣の死体が撤去される間に、ヴェロニカは談話室の机に置かれていたパンをナクシャに手渡し、自分も力なくかじりついた。作られて時間が経っていたせいで、表面にまぶされていた砂糖がべたついている。それでも甘いことに変わりはなく、疲れた体にじんわりと沁みるようだった。

 国王の即位二十五周年の式典は一週間後に迫っている。確認できた獣はすべて捕らえたものの、まだ残っている可能性もあるし、これ以上、民が襲われてはならないと王妃や臣下たちから開催の見送りをすすめる声は上がった。だが国王は日程変更に応じなかった。

『遠方の招待客が、すでに王都入りしているそうだ。今さら延期なんて言えないらしい。で、陛下は俺たちゼクスト家には式典までに獣たちの正体の解明を言いつけた。町中はいつ獣が現れてもいいように、警備を増やすんだと』

 昨日の朝、国王から届いた書面を読み上げたナクシャは、今にも倒れそうなほど青い顔をしていた。

「国王陛下は『未知の脅威にも屈しない強い王』と『民や臣下を想う慈悲深い王』に分けるとしたら、確実に前者だわ」

 キサリの言葉をナクシャに伝えると、彼は「そうだね。笑えてくるくらいだ」と肩を揺らした。

「ヴェロニカの方はどうかな。薬草園からいくつか採ってきたんだろう?」

「ええ。あとは家から持ってきた薬草も混ぜた」

 この三日間、ヴェロニカは主に叔父たちの飲食の面倒や紙とインクを用意したりと手伝いをしてきた。その合間に、ナクシャから薬の調合を言いつけられたのだ。毎月シウバに渡しているもので、叔父は薬の調合もヴェロニカに引き継ごうと考えているらしい。

 とはいえ完全に引き継ぐのはしばらく先だ。今はまだ練習で、言われたぶんをきっちり調合して感覚を掴もうとしている段階だ。ナクシャは自宅から干した薬草を持ってきていたし、王宮には先日案内された薬草園もある。準備には困らなかった。

「最後はちゃんと容量を守って一か月ぶん袋に入れるんだよ。袋のどこかに自分のサインを記入するのも忘れずに。責任者の証明になるからね。そこまで出来たら俺が確認するから」

「分かった。そういえば、最初に捕まえたシカは?」

「解剖したいっていうから学者たちに渡したよ」

 もはやゼクスト家だけでの究明は難しい。ナクシャは初め、珍しく「意地でも俺たちで突き止めるぞ」と息巻いていたが、さすがにそうも言っていられなくなっている。一昨日捕えた獣の一部も、シカを連れて行ったのと同じ学者たちが確保し、独自に調査しているという。

 運び出されていくイノシシを横目で見送りつつ、ヴェロニカはふと不思議に感じて問いかけた。

「死体から〈核〉は探さないの?」

「もちろん探すよ。でも今じゃない。まだ体内に影が残っている可能性があるし、それに絡めとられて呪われたら困るからね。しばらく様子を見て、改めて解剖するんだ」

 外から物音と激しい鳴き声が聞こえてくる。新しい獣を連れてきたようだ。体格のいい牡鹿で、やはり禍々しい影をまとい、額から生えた角を一心不乱に振り回している。ヴェロニカはナクシャの背中に庇われながら様子をうかがい、おや、と思った。

 獣の体は靄とも霧ともいえる黒い影に覆われている。だが一か所だけ、はっきりと見えている部分があった。

 額の角だ。

「叔父さま。さっき殺してしまったイノシシはどこに連れて行ったの?」

「ここの裏にある檻に入れてあるはずだよ。見たいのかい?」

「暴れている状態の動物には近づけないけど、死体なら私にでも調べられると思って」

「構わないけど、十分気を付けるんだよ。触ったりしないように」

「影が残っているかも知れないからよね。分かってる」

 新たなシカの調査に取りかかった叔父と別れ、ヴェロニカは工房の裏にあるという檻に向かった。

 ふあ、とあくびが漏れる。熟睡できていないのだ。ナクシャほどではないが、ヴェロニカの目元にもうっすらと隈が見てとれる。

「アタラムさま、様子を見に来てくださったけど、ちゃんとお話出来なかったなあ」

「向こうも獣の残りがいないか探すのに忙しいって言ってたものねえ」

「なんとなく王子ってずっと王宮にいて指示を出すだけだと思ってたけど、アタラムさまは自分から動くのね」

「世の中にはいろんな類の人がいるもの。シウバさまはどちらかっていうと、ヴェラの予想に近い感じじゃない?」

「シウバさまは体の事情があるじゃない。アタラムさまと同じように生活したら、神力の補給なんか一カ月に一回じゃ足りないわ」

 初めこそ異様なシカを見つけたのはシウバだが、あれは視察先で、なかば偶然のようなものだ。今回のように町中で出現し、しかもそれをしらみつぶしに探すとなると、彼はいつも以上に動かなければならなくなる。そのぶん神力が消費され、最終的にシウバは死体のように動けなくなってしまうのだ。

「……この間のこと、いつ聞けるかしら」

「庭園で訊ねられたこと? うーん、事態が落ち着くまでは難しいんじゃないかしら」

 アタラムの問いに対する答えを、ヴェロニカはまだ見つけられていない。

 ただ。

「なにか引っかかるような気はするんだけど」

「あら、なに?」

「それが分からないから困ってるのよ」

 手伝いや薬草の調合を休憩している時に息抜きがてら考えてみたものの、余計に疲れるだけだった。複雑なことが同時に起こると、自分の処理能力があっという間に限界に達してしまうと分かった。

 がしゃがしゃ、がんがんと物々しい音に近づいていく。獣たちを捕らえている檻が、工房の裏にずらりと並んでいた。大きさも形もさまざまで、一番小さな檻にはウサギが入れられている。

 檻の見張り番をしていたナクシャの弟子に、先ほど死んだイノシシのところに案内してもらう。ヴェロニカの身長と同じくらいの高さの檻の中に、どっしりとした巨体が横たわっていた。

「中に入るのは、さすがにダメ?」

「お嬢さまの身になにかあっては大変です。ご覧になりたいのであれば、檻の外からお願いします」

 幸い確かめたい部分は近かった。光の失せたイノシシの目が空を見つめている。

 つんと鼻をつく獣臭さに顔を顰めたのは初めだけだった。ヴェロニカはしゃがみこみ、イノシシの顔を注視した。

 ナクシャは体内に影が残っている可能性があると言っていたが、その見立ては正しそうだ。鼻や耳、目、口や傷あとなどから血とともに影が流れ出している。指を伸ばすと絡みついてきたが、先日と同じように痺れる感覚を残して霧散した。

「うーん……やっぱり神力に似ているけど違う力って感じがする……。キサリはこれ、触れる?」

「ちょっと待ってね。――ごめんなさい。一、二秒が限界だわ。なんだか自分が自分じゃなくなるような感覚がしたの」

「どういうこと?」

「汚染みたいな感じね。どろどろにされるというか。不思議ねえ。他のものはだいたいすり抜けるんだけれど、この影、アタシにまとわりつこうとしたわ」

 よほど気持ち悪かったのか、キサリは眉間に皺を寄せて、影を払うように何度も手を振っていた。

 神力は神に由来しているため、温柔な清らかさがある。また神力を利用して作り上げられた幻獣も、どんなに凶暴な種類であれ、漂う空気は清雅な場合が多い。シウバが言っていたように、神々しさを感じるのだ。

 だがイノシシから溢れる影も、イノシシ自体も、そのどちらとも正反対といえる。

 例えるなら神力は白い力。影は黒い力だ。

「ちょっとヴェラ!」

 意を決し、ヴェロニカは角に手を伸ばした。心配そうに声を上げたキサリに大丈夫だと視線で伝える。檻が多少邪魔だったが、なんとか掴めた。

「触らないようにって言われたじゃない!」

「ちょっとだけだから」

 見張りの弟子は別の檻に目を向けているし、もし咎められても謝れば問題ないだろう。

 角の表面はザラザラとしている。先端は鋭くとがり、試しに近くに落ちていた木の枝を突き刺すと、さくりと音を立てて簡単に貫かれた。骨が変化したものかとも思ったが、皮膚を突き破って生えているというより、明らかに異質なものが癒着したと見た方が良さそうだ。角の下部からは木の根に似た管が伸び、そちらが体内に食い込んでいる。

「この角、一体なんなのかな」

「他の動物もざっと見てみたけれど、二本以上生えているのはいないわね。みんな一本だけだわ」

「それに……」ヴェロニカは角の感触を確かめながら首を回し、他の檻にいる獣を順に見遣った。「どれも体から影を放ってるけど、角だけ違うのよ。ほら、あそこ」

 イノシシの檻から離れた場所に、キツネが二頭いる。一頭ずつ違う檻に入れられているのは、お互いを傷つけて殺し合いをしてしまうからだろう。ヴェロニカはそのうちの片方を指さした。

「あっちのキツネから影が出るじゃない? しばらく漂ったあと……」

「……隣のキツネの角に吸い込まれていったわね」

「うん。つまり、この角は影を吸収する器官なんじゃないかしら」

 幻獣が神力で活動するように、角が生えた彼らは影を源に活動するのではないか。

「影を吸収するのなら、神力はどうなのかしら」

「試してみる」

 ヴェロニカは角に触れた手に意識を集中させた。シウバに神力を注ぐように、自分の体に巡る神力を角に流し込む。

 神力は不可視だ。ごく稀に、神力の集合体を自称するキサリみたく目に見える例外はあるが、基本的に見えないけれど、確かに存在する。空気が目に見えないのと同じだ。神力を注ぐというのは、己の想像力が非常に重要になってくる。ヴェロニカは自分に流れるそれを水として思い浮かべ、水差しから少しずつ流す風に考えている。

 角に神力が吸収される感覚があった。一方的に注ぐのとは異なり、まるで無理やり奪われているようだ。考えていた通り、やはり角は力の吸収器官らしい。

「え?」

 ばき、と音がした。亀裂が入ったのだと気付いた直後、角に無数のひびが走り、瞬く間に崩れてしまう。

 なにが起こったのか分からず、ヴェロニカはキサリと目を合わせた。角が崩壊したからか、イノシシからあふれ出していた影が幻のように散逸する。

「な、なんで?」

「触っただけで崩れるほど、もろそうに見えなかったわよ。ヴェラも強く握ったようにも見えなかった」

「崩れるほど力は込めてないわ。無理やり折ったわけでもないし」

 角だったものは灰色に変化し、ヴェロニカとイノシシの間にぼろぼろと落ちている。一見するとただの砂だ。風に吹かれ、角だった痕跡も残さずに消えていくだろう。

「お嬢さま、今の音はなんです?」

「あっ」

 しまった。音の説明をするには角に触っていたことも白状しなければいけない。ヴェロニカは素直に謝ってから、自分の見解と結果を伝えた。そんな現象は初めてだと驚かれ、ナクシャにも報告したほうがいいと促されて戻ったものの、忙しそうで声をかけられなかった。どうしたものかと考えあぐねていると、「失礼する」と何者かが談話室に顔を出した。

「アタラムさま!」

 思いがけない顔の登場に、ヴェロニカの声が上ずった。忙しいと言っていたはずだが、ここにいるということは一旦落ち着いたのだろうか。彼は久しぶりだなと軽く微笑み、

「ヴェロニカ、悪いがついてきてくれないか」

「? 構いませんが、どこに?」

「シウバの部屋だ」

 アタラムの口調には焦りがあった。雑談を交わす余裕もないらしい。素早く身を翻したアタラムについていく途中で事情を聞くと、「部屋から出てこない」と言われた。

「体調が思わしくなくて臥せっているようだ。従者は風邪かと思っているらしいが、俺は神力が不足してきたのではないかと感じた」

「もうですか? 補給して一カ月もたっていないのに」

「俺ほどではないが、シウバも獣が潜んでいないか確認に駆り出されていたからな。普段よりも早く神力を消費したのかも知れない」

 小走りになりながらシウバの部屋に行くと、従者がおろおろと室内を右往左往していた。アタラムが戻ってくるなり、従者はほっとしたように顔のこわばりを緩める。ヴェロニカは彼の肩越しにシウバを探して、ぎょっとした。

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