第7話
庭園にはただ花が咲いているだけでなく、アタラムが待機していた四阿のほか、細長い池もある。ひらひらとたゆたう尾びれが愛らしい小さな魚たちが悠々と泳ぎ、ヴェロニカたちが覗き込むと、敵が来たと思ったのかぱしゃりと水面を叩いて逃げていった。
小さな花が銀河のように密集して咲いたウイキョウ、光沢のある花弁が美しい大輪のラナンキュラス。甘い香りが魅力的なライラックなど、ここに咲く花の多くは王妃が集めたものだという。ヴェロニカが花の名前を訊ねると、アタラムは迷うことなく教えてくれた。
「アタラムさまは花についてもよくご存知なんですね」
「子どもの頃に図鑑で読んだり、母上に直接教えてもらったりしたからな。あなたはどちらかというと、花より薬草の方が詳しいか」
「あー、えっと……」
どう答えたものか悩んだ。素直にそんなに詳しくないというべきかと思ったが、なんだか恥ずかしい。ゼクスト家の娘なのに、と幻滅させてしまったらどうしよう。
しばらく言い淀んで、決めた。誤魔化してのちのち困ることになるのは自分だ。だったら正直に伝えた方がいい。
「全く分からないわけではないのですが、成長するにつれて勉強があまり得意ではなくなって、詳しいというわけではなくなって……あ、でもここ最近は図書室を使わせていただきましたし、また改めて少しずつ勉強し直しています」
「そうなのか?」
アタラムは意外そうに目を瞬いたが、すぐに感心したようにうなずいた。
「自分には無理だと諦めきっているわけではないんだな」
「言った方がいいんじゃなぁい? 現在進行形で諦めかけてるって」
おかしそうにキサリが笑うが、ムキになって反論しても面白がられるだけだろう。ヴェロニカは無言で、通り抜けることを分かっていながら彼の腹に拳を叩きこみ、アタラムに「ええ、まあ」と答えた。
「何度も面倒くさいって投げ出しそうになりましたけど、知っているのと知らないのとでは大違いだって、最近考え直したんです。無知のまま薬を作って、大事な人を殺すわけにはいきませんから」
「良い心がけだな」
薬草園が近づいてくる。このまま直進すれば着くなと思っていると、アタラムが生垣の手前で右に曲がった。ヴェロニカが首を傾げると、「見せたいものがある」と彼は楽しそうに言う。
「じゃあまず、目をつぶってもらえるか」
「え?」
「びっくりさせたいんだ」
言われるがまま目蓋を下ろす。失礼、と声がしてから、ヴェロニカの手が優しく包みこまれた。一瞬なにか分からなかったが、すぐにアタラムの手だと気付いた。
ヴェロニカが今日のドレスに慣れていないと言ったからか、通路の先へ導くアタラムの歩みは気遣うようにゆったりとしていて、腰を支えられているので転ぶ心配もない。時おりちゃんと目をつぶっているか確認されるのが、なんだか面白かった。
――水の流れる音と、鳥のさえずり、ミツバチの羽音。
――キサリの冷やかす声と、遠くから聞こえてくるのは鍛錬中の兵士の声かな。
視界が閉ざされたぶん、聴覚が、そして触覚がりんと研ぎ澄まされている。
アタラムの手を取ったのは二度目だ。前回、図書館の階段を上った時にはシウバと違う分厚い手だとしか思わなかったが、
――とても温かい。
シウバの手はまるで氷かと思うほど冷たいのに対し、アタラムのそれは力強く生きているのだと実感させられる。暖炉の火のような、心地よい温かさだ。このまま身を委ねていたいとすら思う。
彼はどんな顔をしているだろう。なぜか無性に気になって、目を開けそうになった。けれど「まだだぞ」と痛くない程度に手を強く握って制される。ヴェロニカがうずうずしていることも、こっそりアタラムを見ようとしていたこともお見通しだったらしい。頬が火照ったのは恥ずかしさだけが原因ではないと思う。
「もう少しだ。ああ、キサリ。何を見せようとしているのか、ヴェロニカに言ってはいけないぞ。黙っていてくれ」
「分かってるわよ。心配しないで」
「……って言ってます」
「ありがとう。助かる」
重なり合った手や声色から、アタラムがホッとした気配が伝わってきた。
どれだけ歩いただろう。やがて彼が立ち止まった。
まあーとキサリの驚く声がする。ヴェロニカの前に、一体なにが広がっているのだろう。好奇心と期待が限界まで膨らんだ。
「開けてもいいですか?」
「さあ、どうぞ」
ゆっくりと目を開ける。日差しにくらみながら何度か瞬きをして、
「これって……!」
ヴェロニカの喉から驚きの声が漏れる。
とても美しい花が、そこにあった。
蝶の羽と見まごう花弁は八重咲きで、夜明けの空に似た白と朱鷺色のグラデーションが美しい。若々しい緑色の茎にとげはなく、互い違いになるように生えた葉の色は一層深くて滑らかだ。甘ったるすぎない香りに誘われたのか、かわいらしいハチが何匹も寄ってきていた。
一輪だけではない。同じ色合いの、しかし濃度が異なる花が、そばにいくつも咲いている。
「プルウィアを知っているのだから、きっと気付くと思っていた。驚いてくれてよかった」
アタラムが満足げに微笑む。キサリはこの花がなんなのか分からないようで、ねえねえとヴェロニカの肩をつついてきた。
「すっごく立派な花で見事だと思うけれど、ヴェラは知ってるの、これ? バラの仲間かなにか?」
「私も、こんな風に咲いているのは絵でしか見たことないわ」花にかじりつくように見入りながら、だってと言葉を続ける。「この花、存在しないはずの花だもの!」
「えぇ?」
キサリの頭上に疑問符が浮かんでいるように見えた。ヴェロニカの言ったことが理解できなかったのだろう。
「何年も前に絶滅したとか、そういうこと?」
「違うわ。一緒に何回も読んだじゃない。キサリは覚えてない?」
「覚えて……? なにを?」
「『雨姫プルウィアと夏の花』よ!」
「覚えてるわ。覚えてるけど……あ!」
ようやく気付いたようだ。ヴェロニカとキサリはそろってアタラムに目を向けた。
「プルウィアと恋に落ちる少年は、頭や衣服に花を咲かせているだろう。あれは彼が花の精であることを示している。その花というのがこれ――『ベラアーダ』だ」
彼は腰を落とし、水晶に触れるかのような繊細な手つきで花弁に指を伸ばす。今にも蝶となって羽ばたいていきそうなそれを、己のもとに留まらせるようにアタラムがぷつりと手折った。
「ヴェロニカの言った通り、これは存在しない花だ。なぜなら作者が作り上げた、空想の花だからな」
「それがどうして、ここに?」
「品種改良だ」
手折った花を手渡される。高貴すぎず、かといって素朴すぎるわけでもない、ふくよかな香りがした。胸いっぱいに吸い込んでもむせ返らないし、いつまでも香りを堪能していたくなる。
「もっとも俺自ら手掛けたわけじゃない。研究者たちの長年の成果の賜物だ。今のところ、王宮の庭園以外では見かけられない貴重な花だぞ」
「空想が現実になるなんて……すごいです」
研究はアタラムが幼少の頃に始められたという。プルウィアを熱心に読んでいた様子を見て、王妃が「ぜひあの花を現実に」と依頼したそうだ。初めて開花しているのを見た時、アタラムは数年ぶりに涙を流したと語った。
「恥ずかしかったよ。母上の前で号泣してしまってな。シウバもいたんだが、奴は腹が痛いと言いながら笑っていたよ」
「アタラムさまも泣くのねえ。意外だわ」
「ちょっと失礼よ」
キサリに注意したものの、ヴェロニカも意外に感じていたのは確かだ。
泣きそうもない人が号泣するなんて、よほど感動したのだろう。
「俺はプルウィアも好きだが、それ以上に好きなのは少年なんだ」
物語の中で、少年は雨を――癒しを欲している。太陽が尊ばれる世界で雨を求める彼は異端とされ、誰からも愛されず、爪はじきにされていたのだ。どうしてと疑問に思いながらも、少年はこれも運命だと諦めていた。
「だけど雨姫と出会って、彼は大きく変わる。太陽という大きな力に立ち向かい、雨の必要性を切に訴える。その姿があまりにも眩しくて、まさしく俺の目指すものだと感じた」
「アタラムさまは少年に憧れを?」
「ああ」少し重い話になるが構わないかと訊ねられ、ヴェロニカはこくりとうなずいた。
「俺の生みの母親は、母上の――王妃の友だった」
「えっ」
思わず驚きが口をついて出た。アタラムの母は国王の愛人だと聞いてはいたが、まさか王妃とも親しい仲だとは知らなかった。いや、王妃と親しかったからこそ、国王ともお近づきになり、アタラムが生まれたと考えるべきか。
「母が俺を身ごもったと知った時、王妃は荒れたらしい。きっと憎くて堪らなかっただろうな。もちろん、自分より友を寵愛した父上のことも」
「でも王妃さまはアタラムさまを愛しておられると……」
「ありがたいことにな。もし母が生きていれば、俺は母と共に王宮を追放されるか、最悪は処刑されていただろう。王の血を引くことも知らなかったはずだ。だが母が死んで、王妃は『生まれた子に罪はないから』とシウバと同じように育ててくれた」
けれど王妃の子ではない証は顕著だった。髪色が違う。しばらくは疑問に感じなかったが、成長するにつれて生まれを揶揄する言葉や、兵たちの世間話が耳に入ることが多くなり、己の居場所はここにないとアタラムは絶望した。
「それで、アタラムさまはどうなさったんですか」
「一度は王宮から逃げた。生からも逃げようとしたが、引き止めてくれた人がいた。同時に思い出したのが、プルウィアに恋をした少年だ」
周囲の声に惑わされることなく、己はなにをすべきかと少年は奔走する。その姿は次第に彼を異端視していた者たちを変え、少しずつ受け入れられていく。時には間違いや愚かさに気付き、物語が終わるころには、少年は膝を抱えてうずくまっていた頃とは大きく変わり、胸を張ってプルウィアと笑いあうまでに成長を遂げている。
俺が憧れ、目指したのはまさしくそれだとアタラムはヴェロニカの手から花をとる。とろける手触りの花弁を撫でたあと、彼は花をヴェロニカの髪に差し込んだ。うっとりしたように目を細めたのはキサリだ。
「言われたんだ。『認めさせてやればいい』と。評価を覆してやればいいんだと。髪が他の誰とも違うのも、母がシウバと違うのも、俺の実力が誰よりも劣るという証明にはならない。そうだろう?」
「お強いんですね、アタラムさまは」
「ありがとう。それを機に――自分で言うのもなんだが――俺は著しい成長を遂げたわけだが、さて、誰のおかげだと思う」
急に問いかけられ、ヴェロニカはきょとんと首を傾げた。
「さっき仰っていたじゃないですか。引き止めてくれた人がいたって。その方のおかげではないんですか?」
「その通りだが、それは誰だと思う、と聞いている」
「難しい質問ですね……」
アタラムがこれまで出会った人なんてヴェロニカは知らないし、交友関係も分からない。なのに「誰だと思う」なんて、悩むなという方が無理だ。キサリにも視線で訴えてみたが、彼も分かるわけないと困惑顔をしている。
しばらく悩んで、ヴェロニカは降参の合図に両手を上げた。
「申し訳ありません。誰なのか全く……」
「本当に?」
「王妃さまやシウバさまではないんですか?」
ううんと唸っていると、アタラムの手が頬に触れた。熱いと感じたのは、彼の手のひらか、それとも自分の顔か。ヴェロニカの頬を滑った手は、先ほど差し込まれた花に触れ、次いで髪を撫でる。
どうしたのかと訊ねるべく顔を上げて、どきりと胸が跳ねた。
アタラムの目つきが、ただ優しいだけではないように見えたからだ。
恐ろしさとも、不安とも異なる。慈しみと緊張が漂う、不思議な眼差しだ。
「アタラムさま……?」
「本当に分からないのか」
するりと彼の手から髪が流れ落ちる。
――どうして。
なぜかヴェロニカは泣きそうになった。
――どうしてそんな、悲しそうなお顔をするの。
恐らくアタラムは傷ついている。そんな顔をさせてしまったのは、他ならぬ自分に違いない。でも自分のなにが悪かったのか分からない。
「あの、アタラムさま、私……」
「いや、すまない」ヴェロニカの声を遮り、アタラムが申し訳なさそうに苦笑した。「覚えていないのなら仕方がない。薬草園の案内がまだだったな。行こう、こっちだ」
「待っ……!」
無礼だと考える間もなく、ヴェロニカは歩き出したアタラムの腕を掴んで引き止める。振り向いた彼の目には、苦しげな光が浮かんでいた。
「もう少しベラアーダを見ていたいか?」
「そうじゃなくて……いえ、確かにもっとじっくり見たいとは思いますけど、そういう理由じゃなくて……!」
どうしよう。うまく言葉が見つからない。
キサリに助けを求めようとして、それではだめだと思い直す。あたふたと顔を真っ赤にしながら、なんとか声を絞り出そうとした時だった。
「大変です、アタラムさま!」
緊迫した呼び声が庭園に響いた。はっと顔を上げると、額に汗を浮かべた兵が、こちらに向かって駆けてくるところだった。彼はアタラムの手前で立ち止まると、膝をついて息を落ち着かせる間もなく、叫ぶように言った。
「近隣の町に、角の生えた禍々しい獣が何頭も出没しています!」
「なんだと!」
「それって、もしかして」
例のシカと同じく、幻獣と似て非なる獣だとすぐに気付いた。険しい顔つきで何頭いるかと問うアタラムに、兵は「数えきれません」とうなだれる。
「分かった。すぐに行こう。ヴェロニカ、薬草園は自由に入って構わない。案内が出来なくてすまない!」
「あっ……!」
今度ばかりは止めてはならない。アタラムは兵とともに去ってしまった。場に取り残され、ヴェロニカは行き場を失くした手をだらりと下げる。
「大丈夫、ヴェラ? アタラムさまよりも泣きそうな顔をしてるわよ」
「えっ、嘘」
まだ涙は溢れていないはずだが、キサリが目元を指で拭ってくれた。さわさわと風の触れる感覚が心地いい。
「アタラムさまはなにを伝えたかったのかしら……」
「さあ、アタシにも分からないわ。王子さまもちゃんと仰ってくれたらいいのにねえ。なにかしら気付いてほしかったみたいだけれど、口に出さなきゃ伝わらないこともあるわよね。声が聞こえるのならそう怒ってやれるのに」
ヴェロニカは耳の上で揺れる花に触れた。同時にアタラムの手を思い出して、恥ずかしいような、苦しいような感覚に襲われる。
しばらく立ちすくんだあと、ヴェロニカは「あっ」と顔を上げた。
「あの動物がたくさん出たって、さっき言ってたわよね。私にもなにか出来ることはないかしら」
「シカくらい大きいのがいたら危ないだろうし、一人で行くのは止めた方がいいはずよ。一度ナクシャのところに戻った方がいいわ」
「そうと決まったのなら行かなくちゃ」いつもの感覚で走り出そうとして、危うく転びかけた。「ああもう、このドレス動きにくい!」
「工房に行く前に、部屋でお着換えでもする?」
やれやれと言いたげに唇を曲げるキサリに、そんな場合ではない、とヴェロニカは仏頂面で首を横に振った。
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