第6話

 神力の類でも流れているんだろうね、とナクシャが肩を回す。よほど凝り固まっていたのか、ヴェロニカの耳にまでゴキゴキと音が聞こえてきた。

「三日間ぶっ続けなんて、この歳になってするもんじゃないね。目の前がだんだん霞んでくる」

「無理しちゃダメだわ、少しだけでも寝てください。ただでさえ寝不足なんですから」

「難しいお願いだね」

 シカを捕らえて三日が経過している。広くない工房内の中央にはシカが寝かされ、暴れないよう厳重に縛り上げられている。弟子たちは怯えながらシカの調査を進めており、その周囲には見解を記すための紙やペンが散乱していた。

 ヴェロニカとナクシャは隣の談話室で休憩をとっていた。もちろんキサリもヴェロニカの後ろにいるが、叔父の目には見えていない。ちらりと横目でキサリを見遣ると、彼はちょっとだけ悲しそうに顔をうつむけていた。

「神力の類が流れているっていうのは?」

「幻獣の特性はいくつかあるけど、ヴェロニカ、ここ最近調べていたんだから、答えてごらん」

「えーっと……」

 急に問題を振られたが、悩んだ時間は短かった。

「『〈核〉が破壊、あるいは摘出されない限り半永久的に生きる』と『例えば炎を操る幻獣の場合、己から生じた炎のみ操れる』、あとは……『傷を負っても再生する』よね」

「正解。ずいぶん早く答えられるようになったなあ」

 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。子ども扱いされているようで気恥ずかしさや多少の苛立たしさを感じるが、褒められて悪い気はしない。

「速度に個体差はあるし、仮に首を落としたとすると、新しい首が生える場合と、元通りにくっつく場合とある。これも、ヴェロニカがさっき言ってくれたことも全部、神力が流れているからなせる業だ」

「じゃあ、もしかして」

 がたがたと工房から音が聞こえる。シカが抵抗しているのだ。額に生えている角は太く強靭で、簡単には折れない。人の体などいともたやすく貫かれるだろう。

「あのシカ、どれだけ傷つけても、すぐに治ってしまうんだよ」

「やっぱり幻獣だったの?」

「幻獣と似て非なるもの、かな」

 ナクシャたちはひとまず幻獣の証ともいえる〈核〉の発見を目指しているという。ただ傷口の再生が早すぎるのと、その際に大量の影があふれ出して視界が覆われてしまうため、なかなか思うように進まないそうだ。

 ヴェロニカはナクシャに許可を得て工房を少しだけ覗き込んだ。弟子たちは〈核〉に最も近いと思われる胸に刃物を入れるが、どろりと血のように影がこぼれ、這うように部屋に広がっていく。

「おっと。あまり顔を突っ込み過ぎちゃいけない」

 無意識に身を乗り出していた。ナクシャにぐいっと肩を引かれる。

「影にまとわりつかれても、亡くなったお弟子さんみたいに呪われたりはしないんでしょう?」

「今のところ、シカが生きているうちはね。だけどあり得ないとは言い切れない。言っただろう? 何が起こるか分からないって」

 ふと足元に、シカからあふれた影が漂ってきたのに気付いた。指先で軽く触れてみると、かすかに痺れたような感覚があった。影はヴェロニカにまとわりつこうと、一種の生物のようにうねうねと動いたが、諦めたのか霧散して消える。

 ナクシャの言っていた通り、神力に似ているが明らかに別ものだと思った。たった数秒触れただけなのに、背筋がぞくりと粟立ち、吐き気さえ覚える。昼食を済ませてから時間が経っていて良かったと心の底から思った。

「そういえば薬草の勉強はどうだい?」

「うーん……あんまり。だって一つの草に、いくつも効能があって全部覚えられないんだもの。見た目だってよく似てるものがあるし」

「ははは。本当、そういうところはラジークによく似ているよ」

「ラジーク?」誰だっけと思ったものの、すぐに気付いた。「ああ、お父さんのことね」

「そう。兄貴も勉強が得意じゃなかった。よく俺が夜通し教えたものだよ」

「やっぱり向き不向きがあると思うのよ。神力関係は私、薬草関係はアウグストみたいな。神力が世代を経るごとに薄れているのを考えると、これから先、重宝されるのは薬草の知識じゃないかなあって」

「ヴェラったら、またそんなこと言って。当主になりたくないのが見え見えよ」

 やれやれとキサリが肩をすくめる。ヴェロニカがむうっと頬を膨らませると、「見えないお友だちになにか言われたかな?」とナクシャが笑った。

「キサリ、だったっけ。今もまだそばにいてくれるんだね。いいなあ、一度だけでいいから見てみたいよ」

 ナクシャが羨ましげに言うのに対し、キサリはなぜか困ったように「散々会ってたわよ」と腕を組む。何度か聞いたことがあるが、生前のキサリはナクシャとよく顔を合わせていたらしい。

「ひとまず式典までにすべて済むよう、全力を尽くすよ。不安を抱えたまま、国王陛下の大事な日を迎えたくないからね」

「私になにか出来ることがあったら、いつでも言って。手伝えることがあればするから」

「頼りになるなあ」

 そういえばとナクシャが髭を撫でる。ここ最近はまともに手入れを出来ていないのだろう、普段に比べてだらしない印象があった。衣服にもよごれやしわが目立つ。

「最近のシウバさまの様子はどうかな」

「特に問題なさそう。薬なんかいらないって仰るくらいに元気だわ」

「やっぱり神力の質の差かな。俺が担当していた時に比べて何倍も覇気があるなと思ってたんだ」

 ナクシャには悪いが、彼の感じていることはあながち間違っていないとヴェロニカは思う。

 自分が神力を注ぐようになってからシウバは明らかに笑顔が増えたし、活動的になった。ナクシャが担当していた頃は、アウグストほどではないものの陰気で、無口で愛想笑いすらしないほどだった。

「単純に毎月一回、必ず顔を合わせるのが歳の近い女の子になったから明るくなったんじゃないかしらねえ。髭面のおじさんに手を握られるなんて、年頃の男の子には苦痛でしょう」

 とはキサリの予想である。同調していいものかヴェロニカは悩んだまま、曖昧に笑うしかなかった。

「おじさんと女の子、どっちか選べって言われたら、誰だって女の子を選ぶでしょ」

「分からないじゃない。おじさんが好みの人だっているんだから」

「えっ、ヴェロニカから見ても俺はおじさんなのか。親戚のお兄さんじゃなくて」

「その顔で『お兄さん』は、ちょっとどころかだいぶ無理があると思うよ、僕は」

「シウバさまの言う通り……えっ」

 ヴェロニカとナクシャがそろって振り返る。

 部屋の入り口に、いつの間にかシウバが立っていた。二人が動揺して姿勢を正す前で、キサリは気付いていたのか、ごく普通に挨拶を交わしている。

「い、いつから!」

「僕の様子について聞いてたくらいからかな。『入るよ』って声はかけたけど」

「申し訳ありません。まさかこんなところにいらっしゃると思わず……どうぞこちらにおかけください」

 ナクシャが椅子を勧めたが、シウバは「いや、いいよ」とヴェロニカの手を取った。

「ヴェラに用事があるんだ。一緒に来てくれる?」

「私に、ですか?」

「そう。ナクシャ、ちょっと彼女借りてくけど、いいね」

 拒否権なんてあってないようなものだ。ヴェロニカが分かりましたとうなずくより先に、シウバは手を握ったまま歩き出す。辿り着いたのは彼の部屋だった。

 部屋の有り様を見て、ヴェロニカはしばらく呆けてしまった。

 大小様々ある大量の箱が積み上がっていたのだ。普段は部屋に一人しかいない従者も、今は女中が三人追加されている。ただでさえ異国土産の調度品やら置物やらでいっぱいだったのに、さらに物が溢れかえっている。あまりの様相にしばらく言葉が出て来なかった。

「あの、これは一体」

「ドレスとか装飾品とか、靴とか。色々だね」

「……シウバさまが着るんですか?」

「僕にそんな趣味があるように見えたのなら、相当目が悪くなってるよ」

 じゃあ誰のために用意したのかと聞くより先に、シウバが満面の笑みを浮かべた。

「ヴェラのために」

「――――はい?」

「今着ているのも悪くないけど、ちょっと時代遅れで地味でしょ? さすがにその格好で式典には出られないから、似合いそうなものをいろいろ取り寄せてみた」

 シウバの指摘通り、ヴェロニカが持っているドレスはどれも流行とは程遠い。キサリもしきりにうなずいている。

 戸惑っている間に、シウバは片っ端から箱を開けさせる。これまでヴェロニカが手に取ったことも無いようなドレスが次々に出てきて、見惚れると同時に、値段を想像して青くもなった。多分というか絶対に、本来ならヴェロニカには手の届かない代物のはずだ。それが山のように積み重なっているなど、青くなるなという方が無理だ。

「あらー、これ可愛いわね! 腰の後ろに大きなリボンがあって! 触れないのが残念だわ。ああ、でもすごくスベスベしてそう」

 ヴェロニカよりも先に興奮しだしたのはキサリだ。あれもいい、これも似合うと、少年のように目を輝かせて吟味している。

「あ、あの、私のために用意してくださったのはとても嬉しいですし、感謝してもしきれません。ですが、式典って三日間ですよね? 明らかに量が多すぎませんか!」

「一日一着ですむと思ってるの? それに式典の時だけに着ればいいとは言ってないよ。普段使い出来るやつもあるし、なんなら今日から使えばいい」

「えぇ……」

 それからたっぷり時間をかけて、ヴェロニカは次々に試着させられた。コルセットで腰を締め上げられたときなど、内臓が全て口から飛び出るかと思ったほどだ。用意された靴も、普段のそれより踵が高いものばかりで、二、三歩歩いたところで転びそうになる。

 己を着せ替え人形だと錯覚するくらいにドレスを着たところで、ヴェロニカは一つのドレスが目に留まった。

「これ、まるで――――」


「プルウィアそのものだな」

 庭園の中央にある四阿で、アタラムが驚いたように目を丸くした。

 翌日、ヴェロニカはアタラムに呼ばれ、王宮の裏手にある庭園にいた。中庭以上に色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥のさえずりに顔をあげれば、太い木の枝の上に鳥の巣を見つけた。ちょうど卵がかえった時期なのか、ひな鳥が餌を求めてしきりに鳴いている。

 ヴェロニカが着ているドレスは、昨日シウバに貰った――というか押し付けられたものの一つだ。首元を華やかに魅せるレースは雪よりなお深い白色、七分丈の袖は薄らと肌が透けて見える。パニエでやわらかな膨らみを持たせたスカートは落ち着いた空色で、銀糸で花びらや雫が細かく刺繍されている。

「物語から抜け出してきたのかと思った。よく似合っている」

「ありがとうございます。なんだか照れますね」

「今までの地味で飾り気のないドレスより何倍もいいと思うのよ。アタラムさまだってそう思うでしょ? ……ってそうだ。彼には聞こえないんだった。ヴェラ、伝えて頂戴」

「絶対にいや!」

「? どうした」

「なんでもありません!」

 アタラムはヴェロニカを待つ間、読書をしていたらしい。彼は手のひらほどの大きさの本を懐にしまい、「行こうか」と歩き出した。

「申し訳ありません。お待たせしていたみたいで」

「俺が早く着きすぎたんだ。気にしなくていい。女性とは支度に時間がかかるものだと、母上や妹からも聞いているし」

「まさかこんなに時間がかかるなんて、私も思っていなくて……」

 本当は家から持参したいつものドレスを着るつもりだったのだが、朝早くに昨日の女中たちが現れて、どのドレスが好みか問われて――というか問いつめられて――答えると、止める間もなくこれを着せられた。

 いまだに腰を締められるのも、スカートの膨らみにも慣れない。けれど今のうちに克服しておかないと、当日に痛い目を見る。キサリにも諭されたのでおとなしく従ったが、本音を言えば今すぐにでも脱いでしまいたいくらいだ。

 はあ、とヴェロニカがため息を漏らすと、アタラムが「脱ぐのは少しもったいないな」と笑う。慌てて口を手で覆った。無意識に本音を漏らしていたようだ。

「さっきも言っただろう。似合っていると。しかし、そうか。慣れないか」

「今まで一度も着たことがないわけじゃないんですが、片手で数えられるくらいしか」

「そんな時にすまないな、呼び出してしまって」

「いいえ、お気になさらないでください! そういえば、今日はどうしてここへ」

「ただの花見物じゃないぞ。宮廷薬師たちが使っていた薬草園を案内しようと思って」

 広大な庭園は三分の一が生垣で区切られている。その先が薬草園だという。

「とはいえ、案内するだけというのもいささかつまらないだろう。今の時期だと、あれが咲いているし」

「あれ?」

「見ればわかるさ」

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