第4話

「女性一人に寄ってたかって、なにをしている」

 涼やかながら重みのある声が聞こえた。住居から足音とともに近づいてくる。突然割って入った声に、ヴェロニカに掴みかかろうとしていた男たちが動きを止めた。

 長身の若い男だ。キサリと同じ年ごろだろうか。衣服は深緋色に統一され、上着の袖口や襟は金糸で縁どられている。首元を彩るジャボは薄い桃色で、ブローチの中心では紫苑色の宝石が光りを受けて淡く輝いていた。

「あ、アタラムさま……」

 男の一人が呆然と名を呼ぶ。アタラム、とヴェロニカは頭の中で復唱して、すぐにハッとした。

 高い鼻や薄い唇など、黙ってじっとしていれば彫刻と見紛う美しい顔立ちはシウバによく似ているが、瞳と髪の色は違う。鷹に似た鋭い瞳はブローチと同じ紫苑色。やや粗野な印象を与える短い髪は、月光を帯びたかのような銀髪だ。

 兄殿下だと気付いた。エストレージャ王国の、一番目の王子。

「聞こえなかったか。なにをしている、と訊ねた」

 眉間に皺を寄せ、アタラムが低い声で再び問う。

「で、殿下。いえ、我々はなにも」

「そうです。ただ世間話を、少ししていただけで」

「怯える女性を取り囲んで、詰め寄って? とても和やかな雰囲気には見えなかったが」

「そ、それは……」

 もごもごと言い淀んだ末、男たちは逃げるように去っていった。

 彼らの背中が見えなくなり、場にはヴェロニカとキサリ、アタラムが残される。我に返り、ヴェロニカは狼狽えながら彼に礼を言った。

「申し訳ありません、助けていただいて」

「気にするな。当然のことをしたまでだ」

 男たちに向けていた厳しい表情と変わり、アタラムはふっと春の日差しのような柔らかな笑みを浮かべた。その周囲でキラキラと星が輝く幻が見える。

「あなたは、ゼクスト家の」

「は、はい。ヴェロニカ・リジーナ・ゼクストと申します」

 ドレスをつまみ、軽く膝を引いて礼をする。国王に謁見したときに顔を合わせたことはあるが、直接話すのはこれが初めてだ。踵の高い靴を履いているヴェロニカよりも、アタラムは頭半分ほど高い。わずかに首を上げなければしっかり目線が合わない。

「今日はシウバに神力を?」

「はい。先ほど終わったので、今からあちらの図書館に向かおうと思っておりました」

「図書館に? だが王族の許可が無ければ、あそこに入れない」

「あ、それでしたら」

 シウバに許可証をもらっていると話すより先に、「そうだ」とアタラムが歩き出した。

「俺が一緒に行こう」

「えっ? で、ですが、お忙しいのでは」

「今日はもう特に用事はないし、暇をしていたところだ。俺も一緒にいれば、衛兵とひと悶着することも無いだろう」

「確かに、そうなんですが、でも」

「いいじゃない、一緒に来てもらえば」

 キサリがヴェロニカの耳元で彼の提案に乗るよう囁いた。

「一人になったと気付いたら、さっきの下賤な男どもが戻ってくるかもしれないわよ? アタシじゃヴェラを守れないし、その点、王子さまがいるなら安心じゃない」

「……そうだけど」

「どうした?」

 なかなかついてこないヴェロニカに振り返り、アタラムは眉を下げて苦笑する。

「俺と一緒はイヤか?」

「いえっ、そういう訳では」

 慌てて後を追いかけると、彼は愁眉を開き「よかった」と呟くように言った。

 先ほどと全く違う雰囲気に、ヴェロニカの緊張も少しずつ緩まっていった。


 想像通り、図書館は見たことも無いくらい広かった。ゼクスト家の図書室とは天井の高さも本の量も、なにもかも天と地ほどの差がある。入ってすぐの辺りは一階から三階まで吹き抜けになっており、どの階にも天井に接するほど高い本棚が奥までずらりと並んでいた。

 あまりの迫力にしばらく呆然としてしまう。顔がだらしないわよといつもなら注意してくるはずのキサリも、ヴェロニカと同じように口をぽかんと開けて固まっていた。

「読みたい本はどれだ?」

「えっと、幻獣について詳しく書かれたものがあれば、それを見てみたいのですが……」

「なるほど。こっちだ。案内しよう」

 アタラムは迷う素振りもなく進んでいく。ヴェロニカはあちこちの本棚に目を奪われながらもついていった。

「ここにある書物を全て把握しておられるのですか」

「子どもの頃は毎日のように入り浸っていたから、自然に覚えた。ああ、階段は少し急だから気を付けてくれ」

 先に上がっていったアタラムが手を差し伸べてくれる。シウバの細い手と違い、男らしい分厚い手だ。彼に導かれて二階に上がり、いくつか棚の間を進んでいく。

 この辺りだな、とアタラムが立ち止まる。古ぼけてはいるものの、装丁のしっかりした本がずらりと並んでいた。背表紙の文字を読んでみると、そのどれもに「幻獣」の二文字が見て取れる。

 まずはどれから見るべきか。幻獣関連の書物は魔術師が手掛けたものが多い。特に現役で幻獣調査に携わるエアスト家は「魔術師の始祖」の異名をとるだけあり、大昔からその手の書物を手がけている。

「あれなんてどうかしら。『いにしえの幻獣~動物型~』ですって。隣には植物型もあるわね。人型がないのは、これを書いた当時はまだいなかったってことかしら」

「かもね。『幻獣辞典』とか『知っておきたい幻獣の生態』とか……このあたりの本は全部エアスト家が書いたものみたい」

 詳しい数は分からないが、少なくとも百冊はある。目ぼしいものを引き抜いて胸に抱えていると、隣にいたアタラムが「持とう」と丸ごと取っていった。

「そんな、お持ちいただかなくても」

「一冊一冊は重くなくても、数が増えれば重量も増す。このまま抱えていたら、あなたが潰れるほど重くなってしまうぞ」

 彼はさほど重く感じていないのか、ヴェロニカが両腕で支えていたものを、片腕で軽々と抱えている。図書館についてきてもらったり、案内してもらったりと手を煩わせっぱなしだ。

 ありがとうございますと繰り返し礼を言っていると、アタラムはヴェロニカが選んだ本をざっと見て、「動物系の幻獣を調べたいんだな。あれなんてどうだ」と棚の上を指さした。

「『幻獣百科』ですか?」

「エアスト家が執筆した幻獣最盛期の資料だ。姿絵も交えて説明が書かれているから、初めてでも読みやすいし分かりやすい」

 ヴェロニカが幻獣初心者だと見抜いてしまったようだ。なんだか恥ずかしいとか、照れくさいと思うより先に、彼の洞察力の凄さに気を取られてしまう。

「ご助言ありがとうございます! 読んでみます」

 つま先立ちになってアタラムの示した本を取ろうと手を伸ばす。が、微妙に届かない。背表紙の下に指は触れるのだが、うまく引き抜くことが出来ない。見かねたのか、最終的にアタラムが取ってくれた。

 ずっしりと重みのある本だ。焦げ茶色の表紙は色褪せているが、そのぶん重厚感がある。

「気になる本は選べたか。じゃあ、次はこっちに」

「あっ、本! これ以上お手を煩わせるわけにはいきません。自分で持ちます」

「俺が好きで手伝っているんだ。気にせず任せておけばいい」

 アタラムが次に向かったのは、穏やかな日差しが差し込む窓際だった。そばには一目で高級だと分かる、落ち着いた檜皮ひわだ 色の楕円形の机が一つと、向かい合うように椅子が一脚ずつ置かれている。彼はそこに抱えていた本を乗せ、椅子の一つを引いた。

 彼が座るのかと思って待っていると、「座りなさい」と手招きされた。

「えっ、そんな」

 王族に従者のような真似をさせるわけにはいかないと戸惑っていたら、「いいから」とアタラムは背もたれを叩く。おずおずと腰かけると、緩やかに湾曲した座面がヴェロニカを受け止めた。

「ここはめったに人が来ないから、ゆっくり集中して読める。気が済むまで堪能してくれ」

 そう言ってアタラムは本棚の群れに消えていく。彼の背中が見えなくなったころ、ヴェロニカは深く深呼吸をして机に額を押し付けた。

「親切にされ過ぎて逆に怖い……」

「初めてちゃんとお会いしたけど、アタラムさまってとっても紳士的なのね。生きている時にお話ししたかったわー」

 キサリは彼に魅了されたのか、名残惜しそうにアタラムが去った先を見つめている。

「それにしても銀髪って珍しいわね。王子さま――シウバさまとは全然違う」

「お母さまが違うんだって聞いたことある。髪の色から考えて、アタラムさまのお母さまは隣国出身だったんじゃないかな」

 エストレージャ王国には黒髪が多いが、山を越えて隣国に入ると、銀髪や金髪の人が多い。ヴェロニカの予想に、そうかもねえとキサリもうなずく。

「あら、でも王妃さまの髪って黒いわよね? ということは、シウバさまのお母さまは王妃さまで……」

「ちゃんと聞いたわけじゃないから、私も詳しくはないけど、その……アタラムさまのお母さまは、陛下の愛人だったらしいわ」

 けれど王妃は夫の愛人の子であるアタラムも、我が子のシウバと変わらず愛して育てたと聞く。愛人の子は王の血を引くと声高に言えない場合もあると聞くし、その点、アタラムは恵まれているのかも知れない。でなければ、あんな紳士然とした男性に育っていないと思う。

 そういえば、とヴェロニカは体を起こした。銀髪で思い出したことがあったのだ。

「子どもの頃、庭に迷い込んできた子がいたの、覚えてる?」

「ええ。食べちゃダメよって言ったそばから、ジギタリスを食べようとした子でしょ」

「あの子も銀髪だったなあと思って」

 フードの影になっていたのと、涙やら鼻水まみれでぐちゃぐちゃだったために顔は覚えていないが、そこからこぼれ落ちた髪は記憶に残っている。とても綺麗で思わず見惚れてしまったのだ。注意する際に指摘したからか、薬草の知識が薄くなった今でもジギタリスとコンフリーの見分けはつくし、危険性も覚えている。

「……まさかあの時の子ども、アタラムさまだったりして」

「まさか。それはないわよ」ヴェロニカの呟きを、キサリがすぐに否定した。「だって王都とうちの家って、馬車で三日もかかるくらい離れてるのよ? そんなところまで、あんな小さな子どもが一人で来れるかしら」

「確かに……」

「どちらかっていうと隣国の方が近いし、あっちから知らぬ間に国境を越えて迷い込んできたって考えた方がまだ分かるわ」

 結局あれ以降、庭に誰かが迷い込んできたということはなく、ヴェロニカがあの男の子に再会することも無かった。

 気を取り直し、ヴェロニカは机に積み上げられた本の中から、一番上に乗っていたものを手に取った。「幻獣百科」だ。アタラムの言った通り、読みやすくて分かりやすい。特に絵があるというのがありがたい。文字だけだと想像がつきにくくて、その時点で投げ出したくなってしまうのだ。

 サラマンダーやグリフォン、ペガサスなどは幻獣に疎いヴェロニカでも知っている。脚が八本もある馬や天空を駆ける巨大な狼は初耳で、シウバの言っていた「額から角が生えたシカ」と明らかに違うと分かっていても、面白くてついつい読んでしまった。

 ページをめくっているうち、一番近い外見をしているのはこれではないかというのを見つけた。額から角が生えた馬の幻獣――ユニコーンだ。

「でもシウバさまが言ってたのはシカだしなあ」

「分からないわよ。馬が捕まらなくて、シカでもユニコーンを作れないかって試して、成功したのが今も生きてるのかも知れないじゃない」

「でも変な影をまとってるとは書いてない。一応、他にも似た幻獣がいないか探してみて、」

「先ほどから気になっていたんだが、あなたは誰と話しているんだ?」

 突然アタラムの声が聞こえて、情けないほど肩が跳ねた。恐る恐る顔を上げると、本を何冊か携えたアタラムが机のそばに立っていた。彼は訝しげな顔のまま、ヴェロニカの正面に腰を下ろす。

「お帰りになったわけではなかったんですか」

 心臓がばくばくと早鐘をうつ。なかなか落ち着いてくれない。短い問いかけのなかで何度か舌を噛んだ。

「図書館に来たついでに、大人になって読めるようになった本を取りに行っていた」

「読めるようになった本、ですか」

「幼少期はまだ外国語が理解できなかったからな。今なら他国の物語を読める」

 アタラムが机に置いたのは、ヴェロニカには全く分からない字で書かれた本ばかりだ。

「あとはあなたに危害を加えようと思っているあの薬師たちがここを見張っていないとも言えない。俺だけ先に出ていくのは危ないと考えた」

 邪魔なら出ていくがと続けたアタラムに、ヴェロニカは「とんでもない!」と手を振った。

「お心遣い痛み入ります」

「なにからなにまでお世話になっちゃって、申し訳ないわね」

「ほんと、」本当ね、と言いかけて慌てて口をつぐむ。誰と話しているんだと不審がられた直後にこれだ。

 てっきり図書館から出ていったと思っていたから油断していた。アタラムにはキサリが見えないのだ。つまり声も聞こえないし、はたから見ればヴェロニカが大声で独り言を喋っているように見える。

 黙っているわけにもいかず、ヴェロニカはキサリがいる場所に目を向け、

「アタラムさまには見えないのですが、ここに私の長年の友だちがいるんです」

 輪郭を縁どるように指を動かし、キサリがどれくらいの背丈かを伝える。しかし大抵の場合はなかなか信じてもらえないか、空想上の存在だと思われるかのどちらかだ。アタラムはそのどちらだろうと身構えていると、彼はあっさり「そうなのか」と信じてくれた。

 他の誰とも違う反応に拍子抜けしていると、興味がわいたのか「友だちの名前は?」と訊ねられた。

「キサリです」

「俺には見えないということは、いわゆる幽霊みたいなものか。光の神の楽園にも、闇の神の庭にも行けずに彷徨う死者の魂」

「『行けない』んじゃないわ、『行かない』の!」

 キサリがすぐさま訂正を入れたが、当然アタラムには聞こえない。

「あなたには見えているし、会話をしていたのだから声も聞こえるんだな」

「私の神力が流れているシウバさまにも見えるし聞こえます。それ以外の人には、まったく」

「なるほど……」

「あとね、幽霊は幽霊でも普通の幽霊じゃないの! 触ってごらんなさいよ」

 言葉をそのまま伝えると、ついっとアタラムが手を伸ばす。ちょうどキサリの腰に触れる位置だが、アタラムはかすかに風が当たったようにしか感じていないはずだ。

 幽霊には実体がないものだが、キサリは違う。本人曰く「今のアタシは幽霊っていうより、神力の集合体みたいなものね」とのことで、ごくわずかに触れた感覚がある。

「あなたの神力が流れれば、俺にも見えるのか」

「いえ。シウバさまには〈核〉がありますし、神力はそこに全て吸収されます。でもアタラムさまのような普通の人は難しいです。どれだけ注いでも、すぐに通り抜けてしまうんです」

 例えるなら水蒸気だ。〈核〉を持たない人間や動物にいくら神力を注いでも、霧が肌を撫でるかのごとく通り抜けてしまう。

「時々神力が通り抜けて『気分が良くなった』とか『擦り傷が治った』とか言う人もいるんですけど」

「浄化作用みたいなものか」

「ええ。なので、全く効果がないわけではないんですが、体内に残ることはないんです」

 ヴェロニカが説明すると、アタラムはなにやらぱちぱちと目を瞬いていた。

「アタラムさま?」

「そうだ、思い出した。大事なお友だちか……そういえばあの時も……」

「あの……?」

「ああ、すまない。なんでもない」

 それだけ言って、アタラムは持ってきた本に目を落としてしまった。

 どうしたのだろうと思ったものの、ヴェロニカも幻獣百科に改めて意識を向けた。時間はまだあるとはいえ、無限ではない。薬草のことも調べたいし、ぼーっとしている暇なんてない。

 ねえ、とキサリが窓の外を指さす。目を向けると、図書館のそばにある茂みに隠れて、例の薬師の男たちがいた。アタラムの言った通り、ヴェロニカが一人になる隙を探っていたようだ。

 だがヴェロニカと目が合い、その正面にアタラムがいると気付いて、諦めたように去って行った。一緒にいると示すために同じ机についたのだと、今さら分かった。

 どうしてここまでしてヴェロニカの世話を焼いてくれるのだろう。ありがたさと申し訳なさに加え、不思議さと陽だまりのような温かさも胸のうちに芽生えていった。


 八年ぶりに話した魔術師の少女は、闇の神かと思うほど秀麗な女性に成長を遂げていた。

 アタラムは視線を上げ、熱心に書物を読み進めるヴェロニカを見やる。どうやら彼女は、過去に自宅の庭に入ってきたローブ姿の男の子がアタラムだったとは気付いていないようだ。

 ――あの時の俺はだいぶ自棄になっていたし、今とは見た目も違う。気づけという方が難しい。

 八年前、アタラムは王宮を歩いていて、兵士たちの心無い言葉に傷つき、衝撃を受けた。

 アタラムの母は王妃ではない。異国の血を引いているし、髪の色も違う。それに比べ、一つ年下の異母弟であるシウバは王妃の子で正当な血を引いている。

『シウバさまが死にかけたのは、立場を羨んだアタラムさまが弟に毒を盛ったからではないか?』

 シウバが復活して一年が経とうとしていた頃だった。弟の生還は讃えられると同時に、様々な噂話を伴って王宮内に流布していた。アタラムが偶然耳にしてしまったのはそのうちの一つだ。

 違う、自分はなにもしていない。それでも自分が疑われていることと、母が違うという事実は、幼いアタラムを混乱させるに十分な要素だった。

 ――「俺たち、異国人の女中の血を引く王子も守らなきゃならないんだぜ」だったか。

 今でも鮮明に思い出せる。アタラムを陰で嘲る兵士たちの顔も、声も。

 おかしいと感じることはままあった。国王である父はシウバばかり気に掛けるし、大臣たちもアタラムには冷たかった。なぜなら本来、王宮はアタラムの居る場所ではなかったからだ。

 けれど生みの母は産褥熱で死んでしまった。それを哀れみ、育てると言ってくれたのはシウバの母――王妃だった。のちに彼女はシウバを出産するが、実の息子と分け隔てなく愛を注いでくれた。だから自分だけ母が違うなんて思いもしなかったのだが。

 ここにはいられないと逃げ出したのはすぐだった。今にして思うと、荷馬車に隠れて移動したり雑草を食べて食いつないだり、なかなかに無茶苦茶なことをしている。浮浪者が多い危険な区域に迷い込むこともあったが、日ごろの鍛錬のおかげもあって大事に至ることはなかった。

 ――結局、生きていても意味がない、死んだ方がマシだと考えて……。

 そこで思い出したのが、シウバを治療したゼクスト家だ。あそこの庭には色々な薬草が生えているが、なかには危険な草もあると聞いたことがある。

 数日間まともな食事をしていないし眠ってもいない。自分を捜しに来たと思しき兵士から隠れて過ごすのにも疲れた。アタラムは必死にゼクスト家を目指し、庭に入り込み、出会った。

 自分の運命を変えてくれた、可愛らしい魔術師に。

「アタラムさま?」

 ヴェロニカがこてんと首を傾げる。

 しまった。あまりにもじっと見つめすぎていたか。怪しまれたに違いないと冷や冷やしながら「どうした」と訊ねると、深い紅色の瞳が外を向いた。

「もうすぐ日が沈みそうなので、そろそろお暇しようかと思ったんです」

「日没? もうそんなに時間が過ぎていたのか」

「夢中になると時間の流れを早く感じますものね」

 くすくすと笑う仕草が愛らしい。成長しても笑顔の可憐さとカナリアの歌声に似た声は変わらない。それどころか見るものを癒す輝きが増しているように思う。

「一つお伺いしたいのですが、図書館の本を貸していただくことは可能ですか?」

「すまない。魔術師や幻獣が関連したものは、知識の悪用や本の劣化を防ぐために館外に持ち出すのは禁止されている」

「そうなんですか……」

「ああ、勘違いしないでほしい。悪用だなんて、あなたがそんなことをするとは微塵も思っていない」

 ヴェロニカには苦労を掛けるが、幻獣の本を読みたければ通ってもらうしかない。

 自分とヴェロニカの持ってきた本をそれぞれ元の棚に戻し、アタラムは彼女と連れ立って図書館を出た。ヴェロニカにちょっかいをかける薬師たちが気になるし、秘密の通路を使うなどして宿屋まで送って行こうかと思ったのだが、「そこまでお世話になるわけにはいきません」とヴェロニカに断られた。

「それに馬車は用意してありますから」

「叔父君は先に帰ったようだが、それとは別のものを?」

「……あ」

「その様子だと、ないんだな。用意するから使うといい。明日も王宮に来る予定なんだろう? 朝に迎えに行かせる」

「あの、アタラムさま。ずっと気になっていたのですが、どうしてそこまでしてくださるんですか?」

 不思議そうに見上げられ、正直に答えたものか悩んだ。

 ――あなたは俺の恩人だからだ。

 結局「シウバが世話になっている礼だ」とはぐらかした。おかしな理由ではないし、ヴェロニカも不自然には感じなかったようだ。ひとまず納得してくれたようで、何度も礼を言いながら、アタラムが用意した馬車に乗って去っていった。

「……さて」

 アタラムは次の目的を果たすことにした。

 王宮の片隅には、宮廷楽師や庭師、鍛冶師や学者など専門分野で活躍する者たちが暮らす居住区がある。そこには当然、ヴェロニカたちゼクスト家を目の敵にする例の薬師たちも住んでいる。

「不穏分子にはご退場願おう」

 唇が、シウバによく似た意地の悪い笑みの形に歪んだ。

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