第1話

「私を当主にって、冗談よね?」

 清潔感のある広い部屋に、ヴェロニカの戸惑いに満ちた叫びが反響した。

 カーテンの隙間から爽やかに注ぐ昼の陽光は温かく、白を基調とした壁やまろやかな臙脂色の絨毯を照らしている。しかし窓のすぐそばにあるにもかかわらず、天蓋つきの重厚なベッドには一段暗い光と緊張感が漂っていた。

「冗談なものか」

 そこに寝ていた母が真面目な声音で言い返してきた。つい最近までとは違う、弱々しくて覇気のない声だ。苦しそうに咳きこむ姿は痛々しい。

「お前ももう十七歳だ。ゼクスト家当主を継ぐに問題ない年齢だろう」

「それを言ったら、アウグストだって十七歳じゃない」

 寝込む母のそばに椅子を置き、ヴェロニカと並んで腰かけている弟を横目で見やる。まともに手入れされていないぼさぼさの髪と厚い眼鏡のせいで、昔より陰気な気配が増している。

「残念だけど、僕は当主になる気なんてないし、そもそもなれないよ」

「なんでよ」

「だって神力イラ がないもん」

 そうだったとため息をつきながら頭を抱える。分かっただろう、と母の紅色の目がヴェロニカを見据えた。

「お前は他の誰と比べても、体に流れる神力の量も質もケタ違いだ。当主になれる条件の一つが何か、ヴェロニカ、言ってごらん」

「……神力が誰よりも多いこと」

 だけど、とヴェロニカは母とアウグストを交互に見た。

「私が当主なんて絶対向いてないって、二人も知ってるくせに」

「でもさあ、僕が他のどんな条件を満たしていても『神力が全くない』だけはどうしようもないし。その点、姉ちゃんはそれ以外の条件がダメでも、努力でなんとかなるじゃん」

「あんた、絶対に面倒くさいだけでしょ!」

「どうしようもないのは事実だから」

 大昔、神が人を作った名残と言われる不可思議な力――神力イラ は、本人が持って生まれたものだ。後天的にどうにかなるものではない。アウグストは魔術師の家系に生まれながら、魔術師に必須と言われる神力が皆無だった。

「アウグストの言う通り、他の条件はお前の努力次第で満たすことが出来る。それが分からないほど馬鹿なのか、ヴェロニカ」

「……ちゃんと分かってます」

「ならいい」

 母が繰り返し咳きこみ、ヴェロニカは粉末の薬を渡した。それを飲みこむ前に、母がヴェロニカとアウグストに目を向ける。

「この薬はどっちが調合した?」

「僕だよ」

「そんなことだろうと思った」

 家の庭で採れた複数の薬草を乾燥させ、すり潰した薬だ。苦いそれを水で流し込んでから、母はぎらりとヴェロニカを睨みつける。

「私に渡す薬はお前が調合しろと言っただろう」

「うっかり違う草も混ぜちゃったら危ないじゃない! 危険なものを混ぜちゃって、この前みたいに死の縁を彷徨うより、確実に回復できる薬を調合するアウグストの方が適任なのはお母さんも分かってるでしょ!」

 母が風邪で寝込んだのは一週間前だ。その際、日ごろの成果を見せてみろと母に薬を調合するよう言われ、なんとか薬草を選んですり潰したり煮たりして渡したあとで、うっかり毒性のあるものを混ぜていたことに気付いた。時すでに遅く、結果、母は一時意識不明に陥り、現在は回復したものの、体力が低下したために風邪が長引いてしまっている。

 危うく母を殺しかけたとあって、ヴェロニカは母に処方する薬の作成をアウグストに丸投げしていた。

「何事も経験だろう。怖いからと手を出さないままでいては成長も何もない!」

「分かってるけど……」

 口から泡を吹き、青い顔で倒れた母を思い出すと血の気が引く。身内だったのが唯一、不幸中の幸いだ。一般人に処方して同じことが起こっていたら、「やっぱり魔術師は」と白い目を向けられていたことだろう。

 とにかく、と母は枕に頭を預け、

「次期当主の話、よく考えておくように」

 言葉から滲む強い期待に、ヴェロニカは力なくうなずくしかなかった。


 自室に戻ると、暇そうに待機していたキサリが「どうだった?」とそばに寄ってきた。

 茶色く飾り気のない、よく言えば落ち着いた、悪く言えば地味で殺風景なヴェロニカの部屋には、ベッドや机、クローゼットといった最低限の家具のほか、本がぎっしりと詰まった本棚が置いてある。だがキサリは触れようとしても透けてしまうため、暇つぶしの本を前にしながら、ぼーっとしているしかないのだ。

 ヴェロニカは「少しずつ良くなってるけど、まだ万全じゃないみたい」と経過を報告しながら、馬の尾のように結んでいた長い黒髪をほどいた。このあと出かけなければならない。のんびり話している暇などないので、身支度も同時進行だ。

「そう……レティシアったら、昔から元気だけが取り柄だったのに。こんな長い間寝込むなんて、珍しいこともあるのね」

「そんなに心配なら部屋まで一緒に来たらよかったのに」

「元気な一面しか見たことの無かった人が寝込んだ姿って、どうにも苦手なの。自分の記憶の姿と違ってしまうのって、けっこう悲しいのよ」

 クローゼットを全開にし、一番手前にあったドレスを引っ掴む。ほのかに色づいた可憐な花を思わせる浅紅色の地に、白や黄色で刺繍されたフリージアが映えている。深い襟ぐりには繊細なレースが施され、ゆったりとした袖は窮屈さが無くていい。着替えている間、キサリは空気を読んでこちらを一切見てこない。

「レティシアの子どもの頃の話はしたかしら。本当にやんちゃでね。木の上から降りられなくなったり、服を着たまま川に飛び込んでずぶ濡れになったり……」

「時々思うんだけど、キサリはなんでお母さんの子どもの頃を知ってるの? いまだに何者なのかはっきり知らないし。ゼクスト家の守護霊的な?」

「内緒って何度も言ったでしょ。それにこの家の守護霊だとしたら、どうして他所から嫁いできたレティシアの昔を知ってるのよ」

 言われてみればそうだ。さらに追及してみようと思ったが、「やっぱりあとで様子を見に行ってみようかしら」とまた心配し始めたので諦めた。

 心の底から母を気遣ってくれるキサリに、その原因が主に自分にあるとは言い出せない。

 薬の調合をする際、キサリはいつものように助言をしようかと言ってくれた。だがヴェロニカは「いつまでも甘えていられない」とそれを断ったのだ。結果が母の現在である。

 自分の未熟さと浅慮がじくじくと精神を蝕む。勉強が苦手、というか嫌いになってからというもの、薬草の効果や毒草の注意点の学習を怠っていた。幼少期の知識が残っていないわけではないが、年月の経過と共に記憶とは薄れていくもので。

 凹んでばかりもいられない。ヴェロニカは気を引き締めるべく頬をばちんと叩いた。

 失敗はしたものの、次からは間違えないようにすればいいのだ。死んでいたら挽回する機会すら与えられないが、母は無事生きている。ここは恥を承知でアウグストや、キサリに教えを乞うしかない。

「本格的に勉強もし直さないといけないしなあ」

「あら、勉強嫌いなヴェラがそう言うなんて珍しい。レティシアと何を話したの?」

「次期当主にならないかって」

 ドレスを整えたら次はアクセサリー選びだ。フリージアのドレスを着るときはいつもガーネットのネックレスをつけているので、今回もそれにした。赤子の涙に似たしずく型の石が可愛らしい。これだけじゃ味気ないかなあと思いながら他の装飾品をあさっている間に、着替えが済んだと思ったのかキサリが振り向いた。その途端に「えー」と不満を訴えられる。

「最近の流行りは腰をキュッと締めたものなんでしょう? あなた腰細いんだから、そんな寸胴みたいなドレス着なくても」

「あんなの着たら息が詰まって苦しいだけよ。この前だって、どれだけ細くできるか競った女の子が何人か倒れたらしいし。私は一昔前のこれでいいの」

「もったいないわ……それより、次期当主にってどういうこと?」

 母が言っていたそのままのことを伝えてから、ヴェロニカは深いため息をついた。

「風邪で弱気になってるだけなのよ、お母さんは」

「そうかも知れないけど、後継ぎくらいはそろそろ決めてもいい頃じゃない。当主としての振る舞い方とか作法とか、きっちり学ぶ機会も必要だもの」

「だからって私を選ぶのは間違いだと思う」

 ずっとヴェロニカのそばにいたのだ。キサリはヴェロニカがここ数年でどれだけ勉強が苦手になったかを知っている。読書は好きなのだが、学習的な方向になると一気に頭が受け付けなくなって投げ出してしまう。ゆえに「まあ、それはそうかも」と渋い顔をしているのだ。

「でも勉強をし直さなきゃって思う程度には、ちょっとだけやる気があるんじゃない」

「念のためにって感じ。だって神力以外はアウグストが圧倒的に上回ってるんだし、今の時代、神力の有無が絶対条件ってわけでもないんだから、次期当主ならアウグストの方が絶対に良い」

「どうせあなたたち姉弟二人とも、本当は面倒くさいだけなんでしょうに。ああヴェラ、イヤリングもつけた方がいいわ。ネックレスがガーネットだし、それに揃えましょう」

 キサリの助言に従い、派手すぎないイヤリングを耳にぶら下げた。顔周りの髪の隙間から、ちらちらと星のように丸い宝石が覗く。

 最後にレース地の白い手袋を手に取ったところで、ノックの音が三度聞こえた。

 しまった。話をしているうちにだいぶ時間が経っていたようだ。髪やドレスに乱れがないか最終確認を済ませ、ヴェロニカは扉を開けた。

「やあ、準備は出来てるかな」

「ええ。お待たせ、叔父さま」

 こちらを見下ろす男は、父方の叔父のナクシャだ。若い頃は大層かっこよかったのだろうと思わせる凛々しい目鼻立ちと、口元に蓄えられた髭。清潔感のある上着はすみれ色で、白髪交じりの髪は丁寧に撫でつけられている。本来は男前で若々しいのだが、ここ数年は目元に隈が残りだしたからか、実年齢より老けて見える。もったいない。

「叔父さま、昨晩はちゃんと眠れた?」

「微妙なところだな」

 歩き出したナクシャについて、ヴェロニカも足を踏み出した。裾の長いドレスではないから歩きやすい。もちろんヴェロニカの後ろからはキサリもついてくる。

「幻獣の新しい資料が見つかったって聞いてね。読んでいたら、いつの間にか朝になっていた」

「それはほぼ眠っていないというのでは……?」

 そうとも言う、とナクシャはからからと笑う。

 歳を重ねるごとに疲労が抜けにくくなっていると以前もらしていたが、眠らなければ癒されるものも癒されないだろう。

「大丈夫。馬車の中や宿でぐっすり眠る予定だから」

 そんなつもりがないことに、ヴェロニカはとっくに気付いていた。

 ナクシャは小脇に、朝までに読破出来なかったであろう分厚い書物を携えていた。

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