少女は星を繋げるか―彼方に集う獣たち―

小野寺かける

プロローグ

  幼いヴェロニカは悩んでいた。お気に入りのワンピースが汚れないよう気を付けながらしゃがみ、ある一点をじっと見つめる。夕焼けの空からこぼれ落ちた雫のごとき深い紅の瞳に、真剣な光が灯って揺れていた。

「よく見るのよ、ヴェラ。右の葉っぱと左の葉っぱ、どちらが毒草でしょう?」

 商人姿の若い男がしなやかな指で地面を示す。そこにはよく似た見た目の草がひょこひょこと生えていた。どちらも色鮮やかな緑色が美しく、ぱっと見ただけでは同じに見えるが、よく観察すると左右で葉の大きさが異なっていたり、手触りもガサついているか否かなど違いがある。

 どっちだろうと首を左右に振るのに合わせて、頬の横で切りそろえた黒髪も揺れる。たっぷり悩んだ後、ヴェロニカは男の顔を見た。

「キサリのいじわる」むう、と頬を膨らませ、両方の葉を指さした。「どっちも毒草だわ」

「あら、本当に?」

「うん。でも、こっちは弱い毒、反対側は強い毒……だよね?」

 二つの草はそれぞれコンフリーとジギタリスだった。知識に明るい者でなければ確実に見間違うだろう。キサリの反応をうかがうと、彼は「まあ、ひとまず正解にしておきましょうか」と腕を組んでまなじりを下げた。

「でもね、コンフリーの毒は弱いわけじゃないわ。ジギタリスがそれよりも強力というだけ。どちらも食べたら命を落とす可能性があるんだから」

「私が食べても?」

「当たり前でしょ、なに言ってるの! むしろなんで自分は大丈夫だと思ったのよ。絶対に食べちゃダメだからね!」

 はーい、と間延びした返事をしながら、改めて二つの毒草を見る。他国ではコンフリーを食用としているらしいが、キサリが何度もダメだというからには体に悪影響があるのだ。もしお腹が空いてどうしようもなくなったとしても、絶対に手を出さないでおこうと決めた。

 ヴェロニカの家の庭には、他にもたくさんの草が生えている。病やけがに効くものが大半だが、いくつか人体に悪影響を及ぼす類の草も植わっている。先代の当主が毒草を食べて命を落としたので、見間違わない目を養うためだ。

「こんなところでなにやってるの、姉ちゃん」

 憂鬱そうな声に振り返ると、双子の弟のアウグストが立っていた。分厚い本を胸に抱え、不審げにこちらを見下ろしている。その瞳はヴェロニカと違い、深い海に似た紺色だ。

「薬草の勉強してたの。この前、間違って調合しそうになったからキサリに色々教えてもらってるの」

「ああ、『目に見えないお友だち』?」

「いるもん! 私の前に、ほら!」

 見えるでしょうと目で訴えても、アウグストはやれやれと胡散臭そうにため息をつくだけだった。

「もうすぐ夕食だから戻ってこいって、お母さんが呼んでる」

 それだけ言って、弟は本を読みながら家に戻っていった。よく転ばないものだと感心して後ろ姿を見送りながら、ヴェロニカは華奢な肩を落とした。

「やっぱり、キサリは私にしか見えないのね」

「いいのよ。あなたに見えているのなら、アタシはそれで充分だから」

 キサリが優しく抱きしめてくれるが、肌の温かさや重みは一切感じない。風にさらさらと撫でられているような感覚があるだけだ。

 彼が自分にしか見えていないと気付いたのはごく最近だ。弟だけでなく、母も叔父もキサリに気付かない。母の弟子たちも皆、キサリを「ヴェロニカの想像上のお友だち」だと思っている。

「私にしか見えていないのって、なんだか寂しい気もする」

「捉え方次第だわ。自分『にしか』って思うから暗くなるのよ。自分『だけが』って思うと、なんだか特別な気がしない?」

「そう……そうね!」

 ヴェロニカだけの特別な友だち。男の人なのに、女の人みたいな喋り方のキサリ。触れようと思うと指先が空を切るのは悲しいが、きっと慣れることだろう。

 もうすぐ夕食だとアウグストは言っていた。昨日は魚料理だったから、今日は肉料理だと嬉しい。母の弟子たちが作る料理はどれも美味しいから楽しみだ。

 立ち上がり、家に戻ろうとした時だった。

 がさ、と目の前の草むらから音がした。

 キサリと目を合わせ、なんだろうと首を傾げる。背の高い草が密集しているのでよく見えない。音と草の揺れはどんどん近づいてきて、ついにヴェロニカの前で止まった。犬か猫か、それともウサギか。

「えっ」

 現れたのは人間だった。体をすっぽり覆い隠す灰色のローブをまとい、身を屈めて動物のように両手足で歩きながら、恐る恐る頭を出してきた。フードを目深に被っていてこちらに気付いていなかったのか、ヴェロニカが「誰?」と問いかけた途端、びくりと震えて立ち止まった。

「あっ、えっ……」

「ここはゼクスト家の庭よ。あなた誰? 泥棒さん?」

「ゼクスト……魔術師の……?」

「うん、そう」

「ああ、良かった……」

 ヴェロニカは再びキサリと目を合わせた。何者かは力が抜けたように座り込んでしまう。影になっていてほとんど見えないが、声色から察するに男の子のようだ。歳はヴェロニカより少し上くらい。

 彼の顔を覗きこもうとしゃがんでみる。不器用に笑いながら何度も「良かった」と呟いていた。

「ねえ、あなたのお名前は? 迷子なの?」

「……名前は、言えない。迷子でもない」

「じゃあ、やっぱり泥棒さん?」

「……違う、とも言えない。君に見つからなかったら、勝手に食べるつもりだったし」

 食べる。何を。庭に生えている草をだろうか。

 ここまでずっと歩いてきたのか、男の子の靴やズボンの裾は泥だらけで、草まみれだった。お腹が空いて食べ物を求めて、ここにやってきてしまったのではないだろうか。「浮浪児じゃないかしら」と訝しんだのはキサリだ。「それにしてはお召し物が上等品に見えるのよね」

 浮浪児の意味が分からなくてヴェロニカが首を傾げていると、男の子は何かに気付いたのか、傷だらけの手でヴェロニカの足元を指さした。

「その草はなに?」

「え、これ? ジギタリスっていって、食べちゃダメな……って、あー!」

 慌てて手を伸ばし、彼の手首を掴んだ。

 食べちゃダメだと言ったそばから、彼がジギタリスの葉を千切って口に運ぼうとしたからだ。

「放してよ、食べちゃダメってことは毒なんだろ。食べさせてくれ!」

「言葉がめちゃくちゃだわ。ダメなものを食べたいってどういうことなの! 食べたら死んじゃうかもしれないのよ!」

「死にたいんだよ! だから食べさせてくれ!」

 自暴自棄に叫んだ男の子と、それを止めようとするヴェロニカの攻防はしばらく続いた。手を貸せないキサリがあたふたと見守る中、先に音をあげたのは男の子の方だった。ここまで歩いてくるのに体力を消耗していたのだろう。やがてジギタリスの葉を手放し、ぐったりと背中から倒れ込んだ。

 彼が落ち着くのを待ってから、ヴェロニカはどうして毒草を食べようとしたのか訊ねた。

 初めは渋っていたものの、泣くまいと必死に堪えている涙声でぽつぽつと事情を話してくれた。誰も俺のことを見てくれないとか、なにをやっても褒めてくれないとか、家に自分の居場所がなくて息苦しいとか、彼は何度も目元を拭って鼻をすすりながら語る。

 ヴェロニカは大人しく最後まで聞いてから、「うーん」と首を傾げる。

「それって死ぬほどのこと?」

「き、君にはそうじゃないかもしれないけど、俺にはそうなんだよ!」

 もういいと男の子は膝を抱え、殻に閉じこもるカメのごとく丸まってしまった。

「ダメよ、ヴェラ。事情も感性も人それぞれなんだから。ここはまず『大変だったね』って言ってあげるのが大事。自分だってそうでしょう? 例えば魔術師のクセにっていじめられて傷ついて、アタシに相談してみたけど『落ち込むほどじゃないわよ』って言われたらイヤじゃない?」

「……すごくイヤ」

「分かったならいいわ」

 ごめんねと謝ると、男の子は長い沈黙のあとこっくりとうなずいた。その際、ほろりと彼のフードから髪がはみ出した。天使が月光をより合わせて紡ぎあげたと言っても信じてしまいそうな、美しい銀色の髪だ。ヴェロニカがあまりにもじっと見つめていたからか、彼はハッと震えて、髪をフードの中にしまいこんでしまう。

 見られたくなかったのか。キレイな髪なのに。残念だなあと白桃のような唇をつんと尖らせていると、男の子はきょとんと顔を上げていた。口元が涙と鼻水とよだれでとんでもないことになっている。手巾を所持していないようなのでヴェロニカのものを手渡すと、彼は遠慮がちに受け取って口周りを丁寧に拭いながら「気持ち悪くないの?」と不安そうに問いかけてきた。

「なにが?」

「髪の色。この国の人は黒髪が多いから」

 確かに多い。ヴェロニカの髪は闇の神の祝福とも謳われるほど滑らかで美しい黒だし、キサリは紫がかった黒髪を左側だけ伸ばし、首の横でゆるく結んでいる。アウグストも母も黒髪で、母の弟子たちの中にはたまに茶髪がいるが、大多数は黒色だ。男の子のような銀髪は見かけたことがない。

「『気持ち悪い』『神さまや父上にも愛されずに生まれた証拠』だって、みんなが言ってた」

「みんなじゃないでしょ。私は言ってないもん」

「……あ」

 一人一人流れる血は違うのだから、髪の違いくらいあって当然だ。尊重や憧憬はしても、気持ち悪がる理由なんてないように思える。

「それにね、みんなが気持ち悪いとか言っても、せめて自分だけは誇りを持たなきゃダメだよ。自分は最後の砦なんだから――って、ちょっと前にキサリに教えてもらった」

「キサリ?」

「私の大事な友だち」

 ここにいるよ、と指さしてみても、キサリが満面の笑みで手を振っても、男の子には見えないらしかった。

「私にしかキサリが見えないのも、あなたの髪が銀色なのも、結局は同じだと思うの。どっちも個性だから」

「個性、なのかな」

「うん。だからね、バカにする人がいたとしても気にしないでおくか、認めさせちゃえばいいのよ」

「認めさせる……」

「あーもう、さすがヴェラ! いい子に育ってくれたわね!」

 我慢できなくなったと言わんばかりにキサリが頭を撫でまわしてくる。ヴェロニカの髪型が勝手にくちゃくちゃになるのを見たからか、男の子は呆然と手巾を取り落したが、「本当にいるんだ」と納得したように小さくうなずいた。

「ヴェロニカー? まだお庭にいるのかい?」

 母の声が聞こえる。いつまでも戻ってこないので心配しているのだ。

 今から戻る、と大声で答えて立ち上がり、ヴェロニカは男の子を見下ろした。

「あなたも一緒にご飯食べる? うちのご飯はおいしいから、元気になれるよ」

「ううん、大丈夫」きっぱりと首を振り、男の子も腰を上げる。心なしか先ほどより声が明るいし、もう泣いていない。「家に帰るよ。みんな俺を馬鹿にしてるけど、勝手に出てきたって気付いて、心配してるみたいだから」

「でも一人で帰れる? もうすぐ暗くなるから危ないよ」

「ここまで来たのも一人だったから、大丈夫」

 その時、草むらの向こうの森、さらにその奥からぼんやりとした声が風に乗って聞こえてきた。何人かいる。なんと言っているかは分からないが、男の子は「俺を探してる人たちだ」と呟いた。

「じゃあ俺は行くよ。ごめんね、勝手に庭に入ったりして」

「もう毒草を食べようとしちゃダメだからね。気を付けて」

 分かったよと言いながら、男の子は草むらに戻っていった。陽が落ち始めていたこともあり、ローブに包まれていた彼の背中はすぐに見えなくなる。無事に彼を探していた人たちの所に辿り着いたらしく、聞こえていた声はやがて溶けるように消えた。

 痺れを切らした母の声が再び呼んでいる。少しお怒りである。慌てて家に戻りながら、ヴェロニカはふふっと微笑んだ。

「あの子、最後にちょっとだけ笑ってくれた」

「良かったじゃない。あなたに元気づけられたってことだから」

「また会えるかな?」

「でも名前も聞かなかったし、顔もちゃんと見なかったから」

「あっ、そうだった」

「でもだいたい、思いがけないところでひょっこり再会したりするのよねえ」

 キサリの言うことだ。きっとそうなのだろう。

 男の子が去った草むらを一度だけ振り返り、見えない背中に「絶対にまた会おうね」と力強く手を振った。

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