二章――④
「なるほど。壱花がいなくなったことで稼ぎ口を失った姉石家はひと息に
二階の座敷にはベランダがある。そこに座り、手すりの隙間から出した脚をぶらぶらと揺らしながら榛弥が紫煙を吐いた。東の空にはこっくりとした色合いの満月が浮かび、ちらほらと星も瞬いて見える。穏やかな風の中にはかすかに草花の芳香が混じり、春も間近なことをうかがわせた。
すう、と榛弥がたばこを吸う隣で、同じように座りこむ壮悟はがっくりと項垂れていた。いつもならたばこを吸うなと怒るところだが、今はそんな気力がない。口数の少ない壮悟に構う様子もなく、榛弥は頭の中の考えを整理するようにぺらぺらと喋り続けている。
「洋館じたい壱花が有名になってから建てられたんだろう? 急いで造っただろうし、どこかしらに欠陥があって取り壊したって可能性もあるのか。実物がないから調べようもないのが惜しいな」
「……せやな……」
「あとは、あれだ。きゑさんだったか、蝶を気味悪がってたのって。それは僕も不思議に感じたな。今では祭りで吉凶を占うくらい神聖視されているのに。壱花が〝蠱毒の巫女〟と呼ばれていたことに関連していそうだな。祭りに関する資料をあさってみるのも面白そうだ」
「………………」
「あのなあ壮悟。落ち込むのは分かるが、そろそろ気を取り直したらどうだ」
「取り直せるか!」
がばっと顔を上げて榛弥を睨むと、彼は鬱陶しそうに目をすがめていた。
「俺の……俺の大事な愛車があんなことになってんやぞ! そんな簡単に元気ようなるかっちゅうの!」
泣き出したいのを堪えて訴えたものの、榛弥は「うるさい」と耳をふさいでいた。
ことはきゑから話を聞いた後にさかのぼる。
倉庫の整理も終わっていないし、聞いた話をまとめるためにメモも書きたい。いったん家に帰るか、と車に戻った壮悟は、あまりの衝撃にしばらく茫然自失した。
寺に停めておいた車が――壮悟が給料をためて買った愛車が、無残な姿をさらしていたのだ。
白いボディにはなにかで引っかいたような跡が無数につき、泥のような汚れも各所にあった。我に返ったのは近くの電線で一休みしているカラスが鳴いたころで、現状を理解したとたん、壮悟はその場にうずくまった。
それからのことはよく覚えていない。出かけようとしていた住職が通りかかり、心配そうに声をかけてくれたことすらぼんやりとした印象だ。ショックを引きずったまま乙木家に戻ってきたものの、そんな状態で整理が進むはずもなく、榛弥から迎えを希望する連絡が来るまでずっと座敷に寝転んで天井を眺めていた。
「とりあえず窓が割れてたり、タイヤがパンクしたりはしていなかったんだろう」
「それだけは幸運やったと思てるけどな……! 誰やねん、俺の車あんなにした奴……!」
「車上荒らしが目的だったにしては不自然だし、鬱憤を晴らすための通り魔的な犯行か」
残念ながら寺の駐車場には防犯カメラなどなく、誰がいたずらをしたのかは分からないままだ。姿の見えない犯人に怒りを燃やしたり、悲しみに俯いたりをずっとくり返している。
まあこれでも飲んで落ち着け、と榛弥が差し出してきた缶ビールを押し返して、壮悟はずびっと洟はなをすすった。
「全部片付いて実家戻ったら、そっこうで傷なんとかしよ……しばらくはあのまま我慢するわ……」
「そうしろ。それで、まだ気になることがあるんだが続けてもいいか」
壮悟がうなずくと、榛弥は口にくわえていたたばこを灰皿に押しつけた。煙の名残がわずかに月を隠す。
「〝蠱毒の巫女〟って最初に言い始めたのは誰なんだろうな」
「壱花ちゃんのお父さんらしいで。きゑさんが言うとった。なんでも『うちの娘には特別な力がある』とか言いふらしとったらしいわ。継母が
「継母とやらはどうやって死んだんだ?」
「家の裏で泡吹いて倒れとったんやと。病院に運ばれた時にはもう死んどったみたいや」
その後、壱花の父は突然、近所の住民に喧伝し始めたらしい。
――俺の嫁は壱花が殺したんだ。壱花をいじめていたから罰が当たったんだ。
――壱花は蝶を育てているだろう。あの蝶は毒を持っていて、それで嫁を殺したんだ。そうに違いない。
だから気持ち悪いとか、恐ろしいとか、普通ならそう反応するところだろう。実際、話を聞いた当時の人々も「俺の娘は恐ろしい」と言い出すものだと思っていたそうだ。だが壱花の父は違った。
――壱花は人を呪えるんだ。特別な力があるんだ。
――虫に人を襲わせるから、自分が手を出したって証拠も残らない。素晴らしいと思わないか?
「で、もちろん話を聞いた人たちは気味悪がった。ただでさえ薄気味悪かったのに、そんな話まで聞いたら、遠ざけたくなるやろ」
「同時に、その噂を他の人にも広めたくなるのが人間ってものだな」
「そういうこと」
壱花の継母殺しは人から人へと伝えられ、面白おかしな尾ひれもついて回った。やがて噂を聞いた中から「本当に呪い殺せるのか試してもらおうじゃないか」と言う者が数人現れ、壱花のもとを訪れたという。
ある依頼人は当時器量のいい女性を娶ろうとしていたが、志を同じくする目の上のたんこぶがいた。性格や家柄としてはあちらの方に分があるのは承知していたが、どうしても諦めきれない。そこで壱花の噂を聞き、面白半分にそいつを呪い殺してくれと頼んだそうだ。
その結果。
「呪われた奴は家の二階から転落したんやと。幸い死にはせんかったけど、ずいぶん長いこと気ぃ失ったままやったみたいで、起きたあとも後遺症が残って、最終的に将来を悲観して首吊ったらしい」
「こうして依頼人は無事に女性を娶った、と」
「全部きゑさんから聞いた話やし、そのきゑさんも人から聞いたて言うとったから、どこまで本当か分からんけどな」
この件をきっかけに、壱花の力は本物だと広まった。言いふらしたのはもちろん依頼人である。彼女の噂はどんどん広まり、自分も呪ってほしい奴がいる、殺してほしい奴がいると希望する者たちが村の内外から次々に壱花のもとに集うようになった。
やがて彼女は父が付けた肩書きである〝蠱毒の巫女〟の名で呼ばれ、恐れられながらも慕われ、粛々と依頼をこなしていったそうだ。
一通り話を聞いた榛弥が、ふ、とおかしそうに笑う。
「世の中にはずいぶん自分の手を汚したくない奴がいるんだな」
「まあ、そら居るやろ。ハル兄はどっちかっていうと自分で潰しに行くタイプやもんな」
「人聞きの悪いことを言うな。――まあ、とりあえず。壱花が育てていたのは蝶で、毒があって、それで〝蠱毒〟か……蝶で人を呪っていたということかもしれないが、ありえないと僕は思う」
「なんで?」
「そもそもお前、蠱毒がなにか知ってるか?」
ゲームや漫画で目にしたことはあるが、詳しくは知らない。素直に首を横に振ると、榛弥は胸元のポケットに手を伸ばした。たばこを吸うつもりだろう。吸わないでくれという代わりに手の甲をぺちっと叩いてやった。榛弥は不満そうに唇を尖らせ、火をつけていない状態で口にくわえるにとどめてくれる。
「ざっくり言うと古代中国には呪禁じゅごんっていうのがあってな、やがて日本にも伝わってきたものの一つが蠱毒。ムカデとか蛇とか、蜘蛛や蛙とか、トカゲとか他にもいろんな虫や生き物を壷の中に入れて共食いさせて、最後に生き残ったやつを呪いとして使役する」
「……え、なにそれ。気持ち悪いな……」
壷の中にうじゃうじゃと虫やらが詰まっているさまを想像して、危うく先ほど胃に収めたばかりの夕食が逆流してくるところだった。
「昔はそういうのがよう使われとったん?」
「使われたからこそ禁止されたし、中国でも日本でも厳しく罰せられた。けど蠱毒をはじめとする呪禁は陰陽道と結びついて継承されたわけだ。さて壮悟、ここで一つ違和感はないか」
「…………は? いや、別にないけど」
「冷静に考えてみろ。さっき言った生き物の中に蝶を放り込んで、生き残ると思うか?」
答えは否だ。
蛇や蜘蛛といった生き物を相手に生き残れるほど、蝶は強いと思えない。むしろ強者の糧として捕食される以外に道はないだろう。
壱花は〝蠱毒の巫女〟として蝶を使役していた、と噂では語られている。しかし榛弥の説明を聞いた今、それはいちじるしく現実味を欠いていた。
「けどさ、壱花ちゃんが育てとった蝶には毒があるって……あれか、親父さんの妄想か?」
「蝶に毒があったのは本当だと思う。今日大学で昆虫類に詳しい教授に聞いてきた」
榛弥は昨晩、例の写真をスマホで撮影していた。そこに写っていた蝶について調べていたそうだ。
写真自体が白黒で、かつ蝶もそれほど大きく写っているわけではない。ゆえに確実にこれという種類は断言できなかった代わりに、教授はいくつか候補をあげてくれたという。そのなかで毒を持つ黒っぽい蝶は一つしかいない、と榛弥は言った。
「ジャコウアゲハ。彼女の周りを飛んでいるのは、多分その蝶だ」
「蝶って毒持っとるもんなん?」
「ジャコウアゲハは幼虫の時に食べる草の影響で、成虫になっても毒を持つ。だからジャコウアゲハを食べた相手は中毒を起こすそうだ。人間が触る分には特に影響はないらしい」
「……人間が食べても中毒起こすんやろか」
「食べたいのか?」
「そんなわけないやろ」
目にするだけでもトラウマがよみがえるのに、食べるなど死んでもごめんだ。
「まあ、蠱毒でもなんでもなく、毒を持つ蝶はいる。それを知らなかったのか、知ったうえで利用したのか、壱花の父親はこうして娘を〝蠱毒の巫女〟と喧伝するようになったと」
「でも実際、呪いは成功したわけやし、本当に蠱毒を使てたってことは……」
「お前がさっき自分で言ったんだろ。『どこまで本当か分からない』って」
「けど成功したからこそ人がいっぱい詰めかけるようになったんやろ?」
「本当に蠱毒の力を使っていたのか疑わしいけどな。偶然が重なった可能性も否定はできないし、裏で偽装工作をしていた輩がいないとも言い切れない」
「……それは、つまり」
壱花の名を上げようとして、父親がすべてを仕組んでいたのではないか。
〝蠱毒の巫女〟は美しく妖しく、肩書きも相まってミステリアスに人目を惹く。初めは疑う人々も周囲を舞う蝶に勝手に真実味を感じ、依頼が成功すればそれなりの金額を支払ったことだろう。その金で姉石家は急成長していき、やがて壱花の失踪とともに名声を失って凋落した。
少なくとも榛弥はそう考えているようだ。
でも、と壮悟はさらに食い下がる。
「ハル兄に話したことあったよな。子どもの頃に蝶を踏んづけてしもて、そん時に怖い夢見たて。あの時に俺が殺してしもた蝶が、実は壱花ちゃんの遺した蠱毒の蝶やったってことはあらへんやろか」
「ない」と榛弥は言い切った。「何度も言わせるな。蠱毒を作る壷の中で蝶が生き残る可能性は限りなく低い。肉食の蝶もいるにはいるが、壱花が育てていたと思われるジャコウアゲハは草食だ」
「……ってことは」
「お前が踏みつぶした蝶とは無関係。それにな、ものすごく今さらだが、お前が蝶に呪われた云々じたいが気のせいって可能性もある」
「は?」
「当時のお前は蝶を殺してしまったことで、少なからず罪悪感があったんだろ。性格から察するに、もし恨まれたらどうしようと考えなかったはずはない」
壮悟は想像していたものを夢に見ただけで、それが現実に起こったことなのだと錯覚しただけ。榛弥はそう言うが、あれをきっかけに蝶が恐ろしくなった壮悟としては簡単に納得できなかった。
「けど俺、あの夜から幽霊とか見るようになったんやぞ。これが呪いやないならなんやねん」
「じいさんには霊感があった。その血を引くお前も元から霊感が強かったんじゃないのか? 蝶を踏みつけるまでも幽霊は目にしていたけど、はっきりと意識するようになったのはその日から、とかな」
「ほんならなんでハル兄は幽霊見えへんねん」
「それは知らん。同じ血を引いていても素質というのがあるだろうから、僕はそういう素質がなかったってだけの話だろ」
「けどっ……」
「けど、なんだ?」
ゆるりと榛弥の目が壮悟を捉える。「けど」とは言ったものの、壮悟はそれに次ぐ言葉を絞り出せなかった。従兄の仮説に納得する部分が多かったからだ。
幼少期の記憶はおぼろげだが、蝶を踏みつけた日のことははっきりと覚えている。だから幽霊もあの日から見るようになったのだと勘違いしているのではないか。それまでも見えていたが、以前の記憶が曖昧なだけで。
もごもごと口を閉ざす壮悟から視線をそらし、榛弥はライターを取り出して今度こそたばこに火をつける。風の流れのおかげで煙はこちらに流れてこない。すう、と美味そうにたばこを味わう従兄がなんだか憎らしかった。
「住職はほかにもひいじいさんや壱花について知ってる人を教えてくれたんだろ? 明日からはそういう人にも話を聞きに行こう。都合が合えば僕も一緒に行く」
「……それはまあ、ありがたいけど。俺一人やと聞き逃す部分とかあるやろし」
「ああ、そういえば。一人、ひいじいさんについてじいさん以外に一番詳しく知ってそうな人に心当たりがある。問題は生きてるかどうかだが」
「そんな人居るっけ。誰?」
「ひいじいさんの――――」
榛弥がなにか言いかけるのと、階下からすさまじい音が聞こえてくるのは同時だった。
なにごとかと二人そろって座敷を飛び出し、音が聞こえた方に走る。
音は倉庫から聞こえてきたはずだ。今の時間、祖母は入浴中で、壮悟たち以外にそこにいる人物は一人しか考えられない。
倉庫の扉は半開きなっており、中の明かりが漏れ出ている。壮悟は走ってきた勢いのままに扉を開けると、もうもうと立ちのぼる埃が真っ先に流れてきて思わず咽た。どうやら積み上げてあった箱が一気に倒れたようだ。
「おまっ――――なにしてんねん!」
咳が落ち着くよりも先に壮悟は叫ぶ。
倉庫の中では、箱の下敷きになった雨織が激憤に満ちた表情を浮かべていた。
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