一章――⑤

 カチカチと時計の音だけが響く二階の座敷で、夢から覚めた壮悟はもぞもぞと体を起こした。枕元に置いていたスマホをタップして時間を確認すると、深夜一時二十分。布団に入ってから二時間も経っていない。

「あー、しんどい……」

 就寝して間もなく、壮悟は例の夢を見た。いつもならば目が覚めるまでひたすら耐えるところだが、今回は榛弥に観察しておけと言われている。簡単だろうと思っていたのだが、意外と難しかった。疲労感で全身がだるく、なんとなく肩を回した。

 夢を見ている最中、壮悟は壮悟ではない。何者かに成り代わっているような心地で、思考も行動も自由はほぼないと言っていい。そんな状況で観察など容易に出来るはずがなく、今度こそはと奇妙な意気込みとともにもう一度眠ってみた。が、三十分後に目覚めたときも結果はたいして変わらない。

 ――こうなると、思い出すしかないよなあ……。

 いつ少女が現れても恐ろしくないように座敷の明かりをつけ、壮悟は布団の上であぐらをかく。スマホの横には倉庫の整理の際にも使っているリングノートとボールペンを置いておいた。二つともたぐり寄せて、先ほどまで見ていた夢について順番に思い出していく。

「……男の顔、どんなやったっけ……」

 壮悟の夢は基本的に暗闇だし、明かりと言えば数秒おきに轟音を鳴らす雷の光くらいで、しかも大半は自分が目を閉じているためにしっかりと見られる機会は限りなく少ない。

 榛弥から顔や衣装の特徴を聞いておいて良かった。うんうんと唸りながら記憶をたどり、どうやら壮悟の夢と榛弥の夢に出てくる男は同一人物らしいと分かった。輪郭に沿うような黒髪は雨に濡れているため判然としないものの、唇の右側にほくろが二つ並んでいるという点は一致している。

「けど着物は違うような気がするな……」

 思考を整理するためにも独り言をくり返し、そのたびにボールペンを走らせる。

 榛弥の話では青っぽい着流しに黒い帯と羽織を身に着けているということだったが、壮悟の夢では着流しは柄のない琥珀色、帯は波のような模様が入った藍色で、羽織はない。着ているものと天候から考えて、二人が見ている夢はそれぞれ別の日の光景なのだろうと予想できた。

 ――俺のは埋められる夢。ハル兄は掘り起こされて火をつけられる夢。時系列的には俺の方が先なんやろか。

 秒針の音に誘われるようにして時計を見やる。深夜二時十分。そのまま視線を座敷と次の間を隔てる襖に向けると、しっかり閉じたはずのそこはいつの間にか開いていて、やがてぎしぎしと廊下がきしむ音が近づいてきた。間もなく襖の隙間から少女が顔をのぞかせることだろう。

 慌てることなく静かに音を聞いて、気づいたことがある。

 夢と同じで、少女の足音はいつも同じリズムで聞こえてくるのだ。足音が消えてから壮悟を覗き見るまでの秒数も、毎日変わることはない。

 ――足音は一拍だいたい二秒ってとこか……それが消えてから俺を見るまでは三十秒くらい。

 ノートに書き込んでから顔を上げて、思わず肩がびくりと跳ねる。メモを取るのに夢中になっていて少女がもう目の前にいたことに気を向ける暇がなかった。黙り込んで見つめていると、いつものように「アキちゃん」と呼び始める。

「君は『アキちゃん』とかいう奴に、なにを言いたいんや」

 こんなに毎晩現れては呼んでくるのだ。それなりに執着心があるのだろうし、だからこそ幽霊としてこの世にとどまっているのだろう。だが過去を振り返ってみても、家族でここに泊まった時に少女を見た記憶はない。蝶を踏み殺した晩に見たのも、少女ではなく別のものだ。

 ――今も掛け軸の裏から出てきそうで、正直怖いもんな。

 あの時見たものは恐らく〝蝶の幽霊〟だったのだろうと壮悟は思う。やっと羽化して飛び立つはずが壮悟に踏みつぶされ、恨みを果たさんと現れた異形。なにかに呼ばれた気がして夜中に起きると、掛け軸の後ろからぼんやりと輝く蝶が何匹も現れたのだ。恐怖から目をそらすと、今度は耳に怨念ともとれる言葉にならない声が絶え間なく響いてきて、最終的に気を失った。

 あれが現実だったのか夢だったのか定かではないが、幼い壮悟にトラウマを植え付けるには十分な出来事だった。

「……まさかあん時の蝶が、女の子やったりして」

 そんなわけはないか、と一人で結論付ける間にも、少女は「アキちゃん」を呼び続けている。秒針の音を頼りに時間を数えていると、二分ほど経ったところで少女は諦めたように目を伏せて、無数の蝶に変わって飛び回った。

 それを最後に壮悟はいつもと同じように気絶を挟んで朝を迎え、眠った気が一切しないまま一階に下りた。肉の焼ける香ばしいかおりに引き寄せられて台所へ行くと、祖母がウインナーを焼いていた。今日のエプロンは芝生の上で腹を見せて転がる柴犬柄だ。

「あら壮悟、おはよう。ウインナー何本欲しい?」

「おはよ。三本くらい欲しいかも。なんか手伝うことある?」

「それじゃあ目玉焼きでも作ってもらおうかしら」

「楽勝」

 祖父が死んで、雨織も家に帰ってこなくて、話し相手がいないのがよほどつまらなかったのだろう。祖母は壮悟たちと居るときは基本的にずっと喋り続けている。祖母と話すのは嫌いではないし、夜中の悪夢など一時的に忘れることができるので最近は進んで会話をもちかけるが、話題が「彼女はいるのか、いないのか」に及ぶと、とたんに口を閉ざしたくなる。

 残念なことに壮悟は彼女いない歴イコール年齢である。榛弥と違って色恋沙汰には無縁なのだ。壮悟は適当な相槌を打ちながら油をひいたフライパンに卵を落とした。

「本当にいないの? 高校とかでいい人はいなかったの?」

「好きな子くらいはったよ。けど別に、カップルになりたかったかって言われたら、そうでもあらへんだし。遠くから眺めとるだけでぇっていうか」

「単純に告白する勇気が出なかっただけだろ」

 後ろから声を挟んできたのは榛弥だ。洗顔を済ませてきたところなのか、長い髪はポニーテールに結われている。

 従兄の一言に「やかましいわ」と反抗しつつ、ウインナーが乗せられた皿に目玉焼きを盛りつける。壮悟は黄身が半熟状態なのが好きだが、榛弥は完全に火を通してある方が好きらしい。他にも味付けに一家言あるようだったので、じゃあ自分で作れとフライパンを押し付けた。

「で、ちゃんと見たのか? 夢は」

 祖母に聞こえないようにか、榛弥はささめくように訊ねてくる。

「問題なくな。ちょっと苦労したけど男の特徴も分かった。多分っていうか間違いなく、ハル兄の夢に出てくる奴と同じやわ」

 あとは少女が現れる前の床がきしむリズムだとか、顔を覗かせるまでの秒数も教えると、榛弥は感心したように目を丸くしている。

「よく正確に分かったな」

「子どもの頃はピアノ習っとったし、高校の時は吹奏楽部やったからな。リズム感は自信あんねん」

「ああ、なるほど」

「まあそれは置いといて、次の問題はあの男は誰なんやってところか?」

「とりあえず僕の知り合いではなさそうだ」

「俺もあんな人知らんわ」

 早くも手詰まりではないか。名前が呼ばれていたわけではなかったし、外見以外に分かっていることは一つもない。似顔絵でも書いて知り合いに片っ端から心当たりはないかと聞いて回るしかないだろうか。

「……そういえば……」

「どうした」

「いや、男の名前は分からへんけど、そいつが誰かの名前呼んどった気はするなあって……なんて名前やったかな」

 思い出そうとしたところで、炊飯器がご飯の炊きあがりを知らせる音を奏でた。仏壇に供えてきてほしいと祖母に頼まれ、壮悟は炊き立ての白米を仏器に山型に盛り付け、居間の斜め向かいにある仏間に向かった。

「何回見てもデカいよなあ……」

 仏像の前に仏器を置きつつ、威厳を放つ仏壇をぶしつけに眺めてしまう。

 父の実家や友人の家に遊びに行ったときに様々な仏壇を目にしてきたが、乙木家のそれは今まで見てきたものに比べてはるかに立派だ。高さは百五十センチほどあるだろうし、音楽を奏でる天女と思われる彫刻が欄間で踊っている。壮悟には名前の分からない小物も山ほど置かれていて、いつ見ても明らかに金がかかっていると分かった。

 南無阿弥陀仏、と心の内で唱えながら手を合わせ、台所に戻ろうと身をひるがえす。ふと視線を上げると鴨居に飾られている祖父の遺影と目が合った。旅行先で撮ったものなのか、眼鏡の奥の目を細めて少しだけ歯を見せて笑っている。

「ほんま、なんで自殺したんやろ」

 生きることに悩んでいたとは聞いたことがないし、むしろ探求心旺盛でなにげない日常にも楽しみを見出すほどの人だったのに。遺書だって見つからなかった。

 そのままなんとなく隣に並ぶほかの遺影にも目を向ける。祖父の遺影より前は白黒で、お世辞にも画質がいいとは言えないものがほとんどだ。

 そのうちの一つを見て、壮悟は「ん?」と首を傾げた。

 ――なんか、どっかで見たことあるような……。

「壮悟、ご飯の用意出来たわよ。居間まで運んでくれる?」

「ああ、うん。待って、今行く」

 既視感の正体が気になったが、朝食後に確認することにしていったん台所に戻った。

 居間で三人そろって朝食を終え――その間も何度か祖母から色恋沙汰に関する話題を持ちかけられた――、じゃんけんで負けたために洗い物をさっさと済ませて、壮悟は再び仏間で遺影を見上げる。

 予想が確信に変わりつつある中、壮悟は榛弥を呼んだ。

「どうした」

「じいちゃんから二つ隣にある写真なんやけどさ。ほら、これ」

 件の写真を指さすと、榛弥がじっと目を凝らし始めた。

 白黒の中で沈むように視線を投げているのは中年の男だ。頬は余計な肉がなくほっそりとしていて、頭部は清々しいまでに禿げている。体もそれほど肉付きが良くないのか、家紋の入った黒い羽織がずいぶん重たそうだ。

「……ん?」

 壮悟が抱いた既視感に榛弥もたどり着いたのだろう。より近くで見ようと背伸びをしていた。

「夢に出てくる男ってさ、唇の右側にほくろが二つあったやん? この人も同じ位置にあるなって思てん」

「確かにそうだな」

「ほくろの位置と数なんて、赤の他人やのに全く同じ人なんてそうそう居らへんやろ? そやから『もしかして』って」

 二人の夢に出てくるのは、この男なのではないか。

 夢では十代か二十代といった風体で、髪もしっかり生えている。写真とは雰囲気もずいぶん異なっているが、あながち予想は間違っていないような気もした。

「問題はこれが誰なのか、だ」

「ここにある以上、確実に俺らの身内やろ」

「だとしたら僕らの先祖は人殺しだったかもしれない、ということにもなるな」

「……とりあえず、ちょっとばあちゃん呼んでくる」

 祖母は居間の隣にあるサンルームで窓を拭いていた。ちょっと来てほしい、と理由の説明もそこそこに仏間まで来てもらい、壮悟は遺影の人物について聞いてみた。

「これって誰なん?」

「ああ、この人? 舅よ。あなたたちから見たらひいおじいさん。おじいさんによく似てるでしょう?」

「そうかぁ? どっちかって言うたら横の女の人の方がじいちゃんに似とる気ぃするけど」

「そりゃそうよ。そっちはひいおばあさんだもの」

 曾祖母は榛弥が生まれて間もないころに亡くなったそうだ。ふくふくしい顔立ちと微笑み方が祖父によく似ている。

「ひいじいさんは若くして亡くなったんだな」と問いかけたのは榛弥だ。

「若くしてっていうほどでもないけど、もう五十年前かしら。四十八歳の時に亡くなったのよ」

「事故とか病気で?」

「いいえ、おじいさんと一緒」

「……それって」

 自殺した、ということだ。

 祖母の話によると、首を吊った祖父と違って、曽祖父は池に身を投げて溺死したらしい。

 乙木家からもよく見える、広大なため池に。

「でも、なんで?」

「さあ」と祖母は頬に手を当てて首を傾げる。「おばあちゃんも理由はよく知らないのよ。急にいなくなったと思ったら次の日の朝に池で浮いてるって連絡が来てね。写真は亡くなる少し前に撮ったものだったかしら。まるで死ぬつもりで撮ったみたいねってみんなで話したものだわ」

「遺書はなかったのか?」

「あったみたいよ。見たことはないけど」

 見たことはないのにあったことは知っているのかと聞くと、どうやら祖父から遺書の存在を聞かされたらしい。しかし書かれていたのは相続だとか、死を選んだ理由だとか、そういった方向ではなかったようだ。

「脚が悪い人でね。出歩くときはいつも付き添いの人がいたから、亡くなった時もそうだったんじゃないか、止めることができたんじゃないかって、お葬式の時にずいぶん責められてた思い出があるわ」

 しみじみと呟いてから、「それにしても」と祖母は孫二人を交互に見つめる。

「どうしたの急に。今までひいおじいさんのことなんて気にしたことなかったでしょ」

「たまたま目に入って、そういえば誰なんやろなって思ただけやねん。遺影なんてそんなじっくり見たことあらへんだし」

「そうよねぇ。毎日眺めるかって言われたら、私もそうじゃないし」

「名前は?」

 いまだに遺影に視線を注いだまま、榛弥が祖母に訊ねる。

 祖母は不思議そうにしながらも「秋麗あきよりよ」と答えた。

「……なんて?」

「だから、アキヨリよ。〝麗しい秋〟って書いて、秋麗」

 弟妹や仲のいい友人からは〝アキちゃん〟と呼ばれていたらしい、と話してくれた祖母の声が、薄ら寒く壮悟の耳を撫でていく。

 遺影の中の曽祖父は、己の前で衝撃に打たれる壮悟を厳かに見下ろしていた。

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