一章――④

「最近やたら顔色悪いな」

 朝食の席で不思議そうに「どうした?」と尋ねてくる榛弥に、壮悟は「まあ、うん」と気のない返事しか出来なかった。

 乙木家に滞在して五日が経過している。その間、壮悟は毎日おかしな夢を見たり、謎の少女におとなわれたりしていた。寝不足にならないはずがなく、夜に眠れないぶん昼寝を頻繁にとるせいで、倉庫の整理も思うように進んでいない。

 榛弥や祖母に相談しようかとも思ったが、気のせいじゃないか、気にし過ぎじゃないかと言われればそれまでだ。そう言われるのがなんとなく怖くて、結局は一人で抱え込むしかなく、ストレスはどんどん募っていく。

「もしかして風邪でもひいちゃった?」

 サクサクと食パンを頬張りつつ、祖母が心配そうに顔を覗き込んできた。

「まだ夜は冷えるんだし、ちゃんと布団被って寝てるの?」

「うん、まあ、それなりに」

「あんまり気分が悪いようならお医者さんのところに行かなきゃだめよ。内科なら歩いて十分くらいのところにあるから」

「病院行くほどと違うから、大丈夫。薬飲んで寝とれば治ると思うし」

 なおも心配そうな祖母に笑いかけて安心させようとしたが、無理をしていると分かるほど笑みがぎこちない自覚はあった。

 朝食の洗い物を榛弥と祖母に任せて、壮悟はふらつかないよう慎重な足取りで倉庫に向かう。初日との違いは箱の位置が変わっているかくらいで、中の整理は二割も進んでいないだろう。

 情けないなあと呟いて、壮悟は力なくしゃがみこんだ。そろそろと顔を上げると、なにかをくるんだハンカチが真っ先に目に入る。

 榛弥が書庫で見つけてこちらに押し付けてきた、壊れた蝶の金細工だ。昨日改めて箱から取り出して、一通り眺めたあと元に戻すのを忘れていたようだ。

「なんで、こう……俺は蝶に嫌な思い出ばっか増えていくんやろな……」

 きっかけは子どもの頃、乙木家に遊びに来て、先日見かけた神社での祭りに参加した日にさかのぼる。

 この地域では毎年三月の終わりごろ、神社でその年の吉凶を占う行事が開催される。

 それに欠かせないのが蝶だ。神社の裏にある森では黒い蝶が羽化し、その数が多ければ吉、少なければ凶と判断される。ゆえに地域一帯では蝶は神聖な生き物として扱われているそうなのだが、当時の壮悟はそんなことを知る由はなく、大人たちが真剣な顔をして占いを見守っているのを祖父と手をつないで眺めていた。

 占いの後は子ども相撲の大会が行われるのが常だったが、自分の番を待っているときに、それは起きた。

 近所の子どもたちと喋るのに夢中になって、地面で休んでいる蝶に気が付かないまま足を踏み出してしまって。

 くちゃり、と黒い翅を無残な形にゆがませて息絶えた姿は、今も色あせることなく記憶に残っている。

「……あん時もおかしな夢見たんやったなあ……」

 悪夢としか言いようのない光景だったことをぼんやりと思い返しつつハンカチを手に取って、そっと開いて中を見る。祖父がしっかりと手入れをしていたのか、傷や汚れは見受けられない。左側が欠けていなければ、さぞ美しい出来だったに違いない。

 ――毎晩出てくる女の子が消えた後の蝶も、綺麗やとちょっと思うけどな。怖いことに変わりはないけど。

 壮悟を「アキちゃん」と呼び続ける少女には、初日以降ろくに反応を示さずにいる。そのおかげか激しく呼ばれることはなくなったが、最終的にはいつも無数の蝶に化身して襲いかかってくる。慣れてきた影響かひらひらと舞っているのを眺める余裕はあるけれど、襲われるなら話は別だ。あまりの恐怖に目を閉じ、次にまぶたを上げるといつの間にか横たわって朝を迎えている。

 山で埋められるところから蝶の少女に襲われるまでが一つの夢なのだろうか。埋められる夢も、毎晩二回以上は見ている。

「埋められるよりも蝶の方が怖いんやもんなあ……」

「埋められる? どこに?」

「うおっ」

 ぎょっとして思わず立ち上がると、ごんっと鈍い音とともに頭頂部がじわじわと痛んで再びしゃがんでしまう。肩越しに振り返ると、顎を何度もさすりながら不満そうに壮悟をにらむ榛弥がいた。

「居おったんかよ」

「今来たところだ。それよりも謝罪はないのか」

「気配消して覗きこんどったハル兄が悪い。俺も頭痛いんやぞ」

「自業自得だろ」

「それ言うたらハル兄やって自業自得や」

 不毛な喧嘩は長く続かなかった。榛弥は「悪かったな」とぞんざいに謝ると、壮悟の正面に回りこんで蝶の金細工を見下ろした。

「なあ、ハル兄はこれ、なんやと思う?」

「なにって、じいさんがどこかで買った蝶の飾りじゃないかと思うが」

「でも壊れとるよ。そんなんいつまでも残しとくかな」

「僕たちから見たらがらくたでも、じいさんからすれば大切な思い出の品かもしれないだろう。それを判別する作業をお前はしているんじゃなかったのか?」

「まあ、そやけどさ」

「けどまあ、見たところブローチか髪飾りかってところだろう」

 なぜ分かるのかと問うと、榛弥は金細工を手に取って裏返した。

「ほら、ここ。胴体の後ろ部分になにかついてる」

「……あ、ほんまや」

 指摘された通り、胴に隠れるようにして細長い針と思しきものがついている。ここも壊れてしまったのか、途中でぽきりと折れている。

「髪飾りだと仮定するなら、かんざしの要領で髪にさして使う代物だったんだろう。少なくとも男物ではないな」

「デザインも可愛らしい感じやしな。けど男物と違うんなら、なんでじいちゃんがこんなん持っててん。ただの置物でもないんやし、使わへんやろ」

「書庫にあったからと言って祖父さんのものでもないのかもな」

 となると祖母の品だろうか。二人で聞きに行くと、庭の手入れをしていた祖母は自分のものではないし、見覚えもないと首を横に振った。祖父がブローチやら髪飾りを収集していた様子もないようだ。

 ひとまず蝶の金細工のことは後回しでいい。今は倉庫の整理を進めなければ。書庫の前で榛弥と別れようとすると、肩を叩かれた。

「なに?」

「最近おかしなことはないか」

「は?」

 あるといえばあるが、答えたところで信じてくれるだろうか。

 いや、それよりも。

「なんで急にそんなこと聞くん」

「いいから」

 特にないと嘘を言うのは簡単だ。

 けれど榛弥からからかうような雰囲気は感じないし、なにより、濃色の瞳でじっと見つめられると、不思議と悩みや苦しみを吐き出したくなってくる。

 しばらく逡巡したのち「……信じてもらえるかは分からへんけど……」と前置きしてから、壮悟は乙木家に来てから毎晩見ている夢と、目覚めてから現れる少女の幽霊についてかいつまんで説明した。

 一通り話したところで、壮悟は軽く首を傾げた。やっぱり笑われたりするのかと思いきや、榛弥はやけに真剣な表情で考え込むように腕を組んでいる。

「ハル兄?」

「まだ幽霊は見えるんだな」

「え? あ、ああ。ここ来てからはその女の子だけ、やけど」

 友人どころか両親や妹にも言っていないが、壮悟は幼いころ――蝶を踏み殺したあの日から、この世ならざるものを見る機会が増えた。

 くっきりと見えるときもあれば、蜃気楼にゆらゆらと見えるときもある。どちらにせよそれは亡くなった人の姿をしている。成長するにつれて見ることは少なくなったし、仮に見たとしても今では死者かそうでないかの区別くらいはつくため受け流すことが多いが、子どもの時分にどうしても耐えられず、榛弥にだけは打ち明けたのだ。

 ――そういえばあの時も「どうかしたのか」ってハル兄が声かけてくれたんやったなあ。

 回想にふけりかけ、慌ててかぶりを振る。話がまだ途中だった。

「その女の子、いつも俺を呼びまくって最終的には蝶になって消えるんや。黒い蝶で……あれや、祭りの時にいっぱい飛んでるのと同じようなやつやと思う。暗いからあやふややけど」

「蝶と化して消える少女か……僕は見てないな」

「ん?」

「僕も見るんだ。夢を」

「……なんの?」

「男に殺される夢」

 じっとりと粘つくような沈黙が二人の間に流れる。

 唐突な告白にどう反応すべきか分からず、壮悟は眉間にしわを寄せて従兄を見つめることしかできなかった。

 先に沈黙を破ったのは榛弥だった。

「お前は毎晩、男に殺される夢を見ると言っただろ。僕も同じだ」

「え……は? ちょっと待て、どういう意味?」

「どういう意味もなにも、そういう意味だ」

 改めて言われても分かるわけがない。重ねて問いかける壮悟に、榛弥は書庫の扉にもたれかかって胸ポケットからたばこを取り出した。壮悟がたばこ嫌いなことを承知しているからか、火をつけようとしていない。

「僕も毎晩見るんだよ。蝶の髪飾りを触ってしまったその日から、ずっと」

「なんでこれを触ったからって分かんねん」

「それを書庫で見つけたのはお前が来る前日だ。それまではそんな夢を見てなかった、布団に入ったとたん熟睡だ。朝まで夢なんて見たことない」

 一瞬だけ自慢げに言ってから、榛弥はすぐに訝しむような声音で続けた。

「髪飾りを見つけた晩から今日までずっと、同じ夢を見続けてる。再放送みたいに、毎日寸分の狂いもない。何回見ても同じ光景」

「……俺と同じや」

「だろう? まあここ二、三日は慣れてきたから、あまり気にしてないんだが」

 気にしないでいられる神経が羨ましい。壮悟は夢のおかげで寝不足だというのに。

「ってか『変な夢を見るのは蝶の髪飾りを触ったから』って分かっとんのなら、なんで俺に触らせてん」

「確証が欲しかったんだよ。本当に蝶の髪飾りが原因なのか別の要因があるのか。かといってばあさんに触らせるのも悪いし、雨織がいれば雨織でも良かったんだが家出してるし。となると、適任はお前しかいない」

 どうやら推測は正しかったようだな、と榛弥は満足げにうなずいているが、巻き込まれたこちらの身にもなってほしいものだ。頃合いを見計らって一発ぶん殴ってやる必要があるだろう。

「毎晩毎晩殺されるってのに、よう我慢できるな。俺は毎日寝不足やぞ」

「さすがに初めは辛かった。起きるたびに自分が焦げ臭くないかとか、皮ふが爛れてないかとか心配で、どこも異変がないと確認してやっと夢だったんだなと安心できて」

「…………ん?」

「どうした」

「焦げ臭いとか爛れるとか、なにそれ? 埋められて息苦しいなら分かるけど」

「は? なんだそれは」

 互いの顔に困惑が浮かぶ。

 先ほど説明したとき、壮悟は「男に殺される」としか言わなかった。改めて「山道を転がり落ちて、雨が降る中で埋められる」と詳細に話すと、榛弥がどんどん顔をしかめていく。

「僕が見ている夢と違う」

「そうなん?」

「僕は土から掘り起こされて、身動きができないでいる間に火をつけられて燃やされる。そのあと冷たくて暗いところに閉じ込められるところで終わる」

「なんやそれ」

 こちらの夢よりもいくらか壮絶な内容ではないか。そんなものを毎晩見ていたら、壮悟なら高確率で頭がおかしくなっている。最近は気にしていないという榛弥の神経の図太さがうかがえた。

「共通点と言えば、どちらにも男が登場しているということか」

「言われてみたらそうやな。埋めてくるくせにずーっと『ごめん、ごめん』って謝ってくんねん。意味分からんわ。謝るくらいならやらんときゃいいのに」

「僕の夢でも『ごめんな』ってくり返してる。いい加減鬱陶しくなってきた」

 男のほかにも、場面は夜という共通点があった。ただ壮悟の夢と違い、榛弥の夢は星月がまばゆく輝いていて、さらに炎の明かりもあって男の容姿が鮮やかに映し出されているそうだ。

 榛弥の説明によると、男の年齢は十代後半から二十代前半。やや痩せていて、顔の輪郭に沿うように整えられた黒髪と、唇の右側にほくろが二つ並んでいるのが印象深いという。身に着けているのは青っぽい着流しで、帯と羽織は黒いらしい。

「ようそんなとこまで分かったな」

「どうせ一通り見るまで目が覚めないなら、暇つぶしに観察してやろうと思っただけだ。……それにしても、女の子か。もしかすると僕のところにも現れたのかもな。ただ僕はそういう類の存在を見たことがないから、分からなかっただけか」

「かも知れへん。あの子、いっつも俺のこと呼ぶねん。『アキちゃん、アキちゃん』って」

 今のところ少女が現れるのは夢を何度か見終わった頃で、たいてい深夜だ。榛弥に時間帯は丑三つ時かと尋ねられたが、ちゃんと確認したことがなかったために首を横に振る。ひとまず昼間に現れたことはない。

 と、思っていたのだが。

「っ!」

 反射的に逃げ出しかけたところを「おい待て、急にどうした」と榛弥に腕をつかまれた。

「放してくれハル兄!」

「話はまだ終わってないから断る。急になんなんだ」

「夜中に出てくる女の子がそこに居んの!」

 何気なく俯いた先に、少女はいたのだ。壮悟のかたわらに寄りそい、夜のように呼ぶことなくひっそりと立ち尽くしていた。おかげで気づかなかった。

 じたばたと暴れてでも榛弥の手を振り払いたいのに、華奢な見た目からは想像もつかない強い力で引き止められている。そういえば柔道だか空手だか忘れたが、彼は全国大会に出場経験があるのだった。

「怖いねんて、こんな急に現れられると!」

「逃げたところで追いかけられるかもしれないだろう。だったら大人しくしていた方が良くないか? それに僕が一緒にいれば襲ってこないかも」

「そんな保障あらへんやろ!」

「二人ともどうしたの?」

 言いあっているのが聞こえたのか、祖母が廊下の先からひょこっと顔を出す。壮悟は少女の幽霊についてとっさに訴えようとしたのだが、それよりも先に榛弥が「なんでもない」と声を上げた。

「喧嘩してたわけじゃないから気にしなくていい」

「そう? あ、お昼ご飯はなにがいいかしら。今朝の広告においしそうなピザが載ってたのよ。久しぶりに出前でも取ろうかなと思ったんだけど、どう?」

「僕もそれでいい。明太子のやつがあれば頼んでおいて。壮悟は」

「お、俺もピザでえぇよ。嫌いなもん特にないし、適当に」

 よほどピザを食べたかったのか、祖母は二人から了承を得られたと嬉しそうに去っていく。それを見届けてから、壮悟はがっくりと項垂れた。恐る恐る横目で見やると、少女は相変わらずそこにいた。

「お前が気付かなかっただけで、昼間にも現れていたのかもな。お前の身長だと見えないだけで」

「……そうかな……」

「で、どうする。まだ逃げようとするのか」

「いや、えぇわ。なんか騒いどったら落ち着いてきたし……幽霊が目の前に居んのに、ハル兄は怖ないの」

「目に見えないのに怖がるのは合理的じゃない」

 一応このあたりにいる、と壮悟は胸の下あたりにある少女の頭を指さした。榛弥は前かがみになってじっと目を凝らしているが、やがて「さっぱり分からん」と再び書庫の扉にもたれかかる。

「どういう風だ」

「どういう風って、なにが」

「見た目だよ。夢を見た後に現れるなら、もしかしたら女の子も何かしら関係してる可能性があるだろ」

 早く教えろと急かされて、壮悟はじっくりと少女を見下ろした。そういえば明るいところで見るのは初めてだと、今さら思い至る。彼女は二人を見ることもなく、ただじっとどことも知れない一点を見つめて黙っていた。

 声の雰囲気から察していたが、年は十四、五歳だろうか。豊かでつやのある黒髪は結われることなく背中に流れ、尻のあたりにまで達していた。真っすぐに切りそろえられた前髪の下で物憂げに伏せられた瞳は黒曜石に似ていて、頬と唇が色づいているのは化粧によるものだろうか、血の気のない白い肌に楚々とした彩りを添えている。

「着ているのは?」

「白い着物やな。あ、でも死に装束とは違うっぽい。袖のとことか、ちょいちょい模様が入っとる。植物かなんかやと思うけど、詳しくは分からん」

「夢で見た記憶はないな。お前は?」

「俺も夢の中では見てへんかな。……あ、消えた」

「消えた?」

「こう、煙みたいにふわって。見えんようになった」

 昼間にも現れたということは、今後も同じように突然現れ、また消えるかもしれない。深夜のように名前を連呼されないぶん害はないが、視界に入れば気になってしまうのは間違いないだろう。

「とりあえず」と榛弥は書庫の扉を開け、小さくため息をついた。「今日の夜もお互い、例の夢を見るはずだ。ちゃんと観察しておけよ」

「なにを?」

「お前を埋めてくる男の姿だよ。慣れてきたとはいえ、ここまでくり返し同じ夢を見るとなんでこんな夢を見るのかって理由が知りたくなる。お前だってそうだろ」

「まあ、気にならんわけとは違うけどさ。けど知るにしても、どうやって」

「夢から手がかりを得る以外に方法が?」

 じゃあよろしく、と手を振って、榛弥は書庫に消えた。

 ぽつんと廊下に取り残されて、壮悟はしばらく立ち尽くしたのちに頭をかいた。まさか夢に関して疑問がこんなに増えるとは、予想外もいいところだ。榛弥が髪飾りさえ渡してこなければ、こんな目にあうこともなかっただろうに。

「……俺も倉庫戻ろかな……」

 文句を言ったところで従兄には響かない。抵抗も無意味だ。

 壮悟はすでに眠ることが億劫になりながら、とぼとぼと己の区域である倉庫に向かう。今のところの楽しみといえば、祖母が頼むであろうピザくらいだ。

 なんとなく振り返ってみるが、あの少女はどこにもいなかった。

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