一章――③

 冷たい雨が頬を打つ。体を動かそうにも力が入らず、目を開けることすら億劫だった。

 腹の上に重みと温もりを感じた。気力を振り絞ってまぶたを持ち上げると、自分たちを見下ろすように生えた木々と、枝葉の隙間から見え隠れする曇天の夜空、そして愛しい男の顔が目に入る。雷が轟いても目を閉じてぴくりとも動かない姿に、もしかして死んでしまったのではと恐ろしくなるが、蚊の鳴くような細いうめき声が耳に届いて、良かったと泣きたいほどに安堵した。

 何があったんだっけとぼんやり考えて、ああそうだ、転がり落ちたんだと徐々に薄れゆく意識の中で理解する。先ほどまで山道に立っていたはずなのに――ただ、話をしていただけのはずなのに。

 このままここにいてはいけない。愛しいこの人と、自分は遠いところへ逃げなければいけないのだ。だから早く起きなくちゃ。この人を起こさなくちゃ。焦燥感はどんどん募っていくのに、体は意に反してまったく動こうとしてくれなかった。

 どれだけ雨に打たれていただろう。目を閉じてじっとしていると、腹の上から重みと温もりが消えた。寂しさを覚えて間もなく「……おい?」と呼びかけられる。良かった。目を覚ましたのだ。なあに、と答えたくても、唇は縫い合わせられたように微塵も開かなかった。

「おい。なあ、おい。目ぇ覚ませって。なあ、なあ! 起きろよ!」

 起きてるよ、と合図をしたくても、気だるくて腕を動かすことすら叶わない。

「ぐっ……!」痛みを堪えているのか、愛しい人が苦しそうにうめいた。「脚……脚、が……」

 どれだけの時間が流れたのか。それとも全く流れていなかったのか。

 突然、顔の上に雨ではないなにかが当たった。

 感触から察するに落ち葉だろうか。ただ頭上から降ってきただけなのかと思っていたら、ばさばさとかき集める音がして、次にどさっと顔に叩きつけられた。

 ――ねえ。なに。なにを、しているの。

 問いかけようとする間に、落ち葉はどんどん重なっていく。顔のほかにも腕、胴体、足と、まるで存在を隠そうとするように次々と。やがて落ち葉ではない重みが加わった。地面を掘り起こし、その土を乗せられているようだった。

「ごめん、ごめんな。壱花、ごめん」

 懺悔を口にしながら、愛しい人は土と落ち葉を次々に被せてくる。最後の力を振り絞って目を開けると、土と枯れ葉の隙間から右脚を引きずりながら土をかき集める彼の姿がわずかに見えた。その頬には水が伝っている。

 同様に、己の眼からも水がこぼれていた。自分のこれは間違いなく悲しみと困惑の涙だけれど、彼の頬のそれは贖罪の涙なのか、ただの雨なのか、どちらだろう。

 分からないでいる間に、辛うじてあった視界も、ついに土に潰された。

 ごめん、と謝る彼の声も、やがて聞こえなくなった。


「…………眠れへん」

 唸るように呟いて、壮悟は布団から体を起こす。夏の夜ほど暑いわけではないのに、背中にじっとりと汗をかいていて気持ち悪かった。

 何時だろう、と長押に引っかかっている時計に目を凝らしてみるが、暗くてよく分からない。布団に入ったのは十一時ごろで、そこから何度も浅い眠りに落ちては起きることを繰り返している。

 起きたのはこれで三度目だ。働いていたときのストレスの只中にあった頃ならいざ知らず、無職になってからは朝まで眠りこけている日が大半だったのに、どうして今日はこんなに目が覚めてしまうのか。

 普段と環境が違うせいかとも思ったが、すぐに「違うな」と首を振った。

 ――さっきから変な夢を見るせいや、多分。

 雨の夜に山道を転がり落ちて、身動きが取れないでいる間に埋められていく夢。

 ごめんなと謝る男の声が、今も頭の中で響いているような気がする。やめろと叫びたいのに、夢の中の壮悟はなんの抵抗も出来ずにいる。

 ――いや、あれは俺やない……と、思う……。

 映画や漫画で見たことのある場面を、まるで自分が体験したことのように夢見ているだけなのだろうか。

 眠るたびに同じ夢を見る。目覚めて、もう一度目を閉じると、また初めから同じ光景の中にいる。体は眠気を訴えているのに、また同じ夢を見たらと考えると布団に横たわる気分にはなれなかった。

 カチカチと、硬質な音を立てて秒針が進む。その音がいやに大きく聞こえて、壮悟はがしがしと頭をかいた。

 まるで子どもの頃のようだ。真夜中にうなされて飛び起きて、恐怖のあまり隣で眠る母親を起こそうとしたのに、どれだけ揺すっても起きてくれずに泣きそうになったものだ。

 ――お母さん、起きて。

 ――壁に、蝶が。

「…………嫌なもん思い出してしもた」

 ぼんやりと部屋を見まわす。壮悟が泊まっているのは二階の座敷で、叔父が子供の頃に使っていた部屋だという。乙木家に泊まりに来るたびに家族で使っていたのもここだ。

 右手側にある広々とした窓ガラスを覆うカーテンの裾から、白々とした月光が差し込んでいる。反対側にある床の間には黒い石を削ったと思われる亀の置物があり、壁には古ぼけた掛け軸が下がっているが、達筆すぎてなんと書いてあるかは読めなかった。

 ふと床の間のそばにある縦幅十五センチほどの窓から光を感じた。立った時は足元にあるそこから見えるのは、台所からもうかがえた離れだ。そちらの窓に明かりがともっている。

 ――ハル兄、起きとんのか。

 母屋に泊まる壮悟と違い、榛弥は離れに泊まることを希望したという。その方がゆっくり資料を読めるから、との理由らしい。今も睡眠などお構いなしに資料を読んでいるに違いない。

 どこからか視線を感じた気がして、はっと振り返る。だがそこにはなんの変哲もない亜麻色の土壁があるだけで、当然、誰かがいるはずもなかった。

「なんやろ。緊張してんのかな、俺」

 結局、そう結論付けるしかなかった。

 眠れなくとも眠るしかない。明日も倉庫の整理をしなければいけないのだ。寝不足のままでは頭も働かない。

 もぞもぞと布団に潜り込んで、目を閉じたときだった。

 ぎし、と廊下から音が聞こえた。

 初めは気にしていなかった。温度や湿度の変化が原因で家がきしむことはままある。

 だが音は続いた。ぎし、ぎし、と絶え間なく聞こえてくる。

 まるで足音のようだ。

「……ばあちゃん……?」

 返事はない。ならば榛弥かと思って同様に呼んでみるが、やはり答えはなかった。

 そろそろと体を起こし、壮悟は無意識に掛け布団を力強く握りしめながら座敷と次の間とを隔てる襖をじっと見つめた。そして、気づく。

 ――……あれ……?

 開けっ放しだと寒いから、と隙間なく閉めたはずのそれが、わずかに開いている。

 壮悟の違和感など知ったことではないとばかりに、廊下の音は続いていた。けれど次の間まできたあたりで、ぎし、とひときわ大きく音が鳴ったのを最後に、それはぴたりと止んだ。

 月が雲に隠れたのか、豆電球すらつけていなかった部屋はしんとした闇に包まれる。壮悟はいぜん体を起こしたまま、なぜ襖が開いているのかと首を傾げていた。壮悟が眠ったかどうか祖母が確認しに来て、閉めるのを忘れたまま戻ってしまったのだろうか。それに気付いてもう一度、座敷に来たという可能性もなくはない。

 家出をしていた雨織がひっそりと帰ってきたのかも知れない、とあれこれと考えていたところで、なにかが襖の間からこちらを見た。

「…………!」

 人影だ、と思った。暗くて分かりにくいが、壮悟を覗き見ているのは確かに人だ。

 ばあちゃんか、と聞くより先に、声がした。

「アキちゃん」

「は……?」

 祖母ではない、そして雨織のものでもない、女の声だった。少女と思われるあどけなく軽やかな声だ。だが同時に暗闇から聞こえるのにふさわしい密やかな声でもある。

「アキちゃん。アキちゃん」

 少女は繰り返し呼びかけてくる。襖を今以上に開けることはせず、ただただ同じ調子で呼んでくる。

 ――アキちゃんって、俺のことか?

 壮悟の苗字は「暁戸」だし、そこからとって友人たちは「アキ」だの「アキくん」とあだ名をつけてきた。

 けれど壮悟の身の回りにいる女性陣から「アキちゃん」と呼ばれたことはない。

 ならば、くり返し壮悟を呼ぶ少女は誰なのだろう。

 ――いや、そもそも。

 今の乙木家には壮悟と榛弥、祖母の三人がいるだけで、少女はいない。客人の可能性も捨てきれないが、こんな夜更けに来訪してくるのは非常識だろう。第一、人の訪いがあれば玄関近くにある一階の和室で寝ている祖母が気付く。

 だとすると、過去の経験も踏まえて考えられるのは。

 ――まさか。

 ――幽霊、とか。

「アキちゃん。アキちゃん……アキちゃん?」

「…………」

「アキちゃん。アキちゃん」

「俺のこと呼んでんのか?」

 壮悟がいぶかるように尋ねたとたん、少女は呼ぶのをぴたりと止めた。

 じわりと掌に汗がにじむ。居心地の悪い静けさがまとわりついてくる。

 もう一度聞いてみようと、壮悟が口を開きかけた刹那。

「アキちゃん、アキちゃん!」

「っ……!」

 それまでの密やかさから一転して、少女は慟哭にも似た荒々しさで壮悟を呼んだ。あまりの絶叫に思わず耳をふさいだが、目は襖からそらせない。視界から追いやることも出来るけれど、一瞬の隙に襲われそうで恐ろしかった。

 これだけ大きな声なのに、祖母や榛弥が駆けつける気配はない。彼女の声は自分にしか聞こえていないのか。もしそうならば、いよいよ少女はこの世のものではない存在だと認めてしまうことになる。

 ――それとも俺は、まだ夢を見てんのか。

 キンキンと耳に響く大音声から感情はうかがえない。壮悟が反応したことに喜んでいるのか、はたまた嘆いているのか。

 しばらく耳をふさいで耐えていた壮悟だったが、やがて恐れとは別にいら立ちが募っていった。呼ぶには理由があるのかもしれないが、それならそうとさっさと訴えろと腹が立つ。

「ああ、もう。やかましい!」

 ばすんっと勢いよく布団を殴りつけると、驚いたように少女は叫ぶのをやめて体を震わせた。

 このまま何事もなく消えてくれればいい。ダメ押しとばかりに睨みつけると、影がゆらりと左右に振れた。

 かと思うと、

「なっ――――」

 少女の姿が、音もなく弾け飛んだ。

 突然空気を送り込まれた風船のように体の中心からむくっと膨らみ、一切の音を立てずに弾けた。夏の夜空に散る花火に似ているけれど、色彩も轟音もなく散るさまはおぞましく感じる。

 あまりの衝撃に壮悟は瞬きをくり返した。破裂した少女の影はちりぢりになって埃のように漂っていたが、やがて一つ、二つと集まりはじめて人影とは違う別の形を取り始めた。

 ぞくり、と壮悟の背中に冷たい汗が伝う。

 襖の隙間からこちらに流れ込み、座敷のあちこちに浮いているのは、間違いなく黒い蝶だった。もとは少女の姿を象っていたはずのそれは、壮悟を観察するようにひらひらと舞う。

 次の瞬間、蝶は壮悟を覆いつくように、どうっと襲いかかってきた。

 自分のものとは思えない絶叫が、壮悟の喉から発された。

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