一章――②
祖父の遺品はおおまかに二か所に分けられているという。季節ごとの洋服や旅行先で購入した土産物、そのほか趣味で集めた様々な小物は階段わきの倉庫に。書籍や新聞、アルバムなどは書庫にあるのだと、榛弥が車中で説明してくれた。
彼は三日ほど前から乙木家に滞在しているそうなので、書庫の整理はどの程度進んでいるのかと覗いてみた。が、お世辞にも片付いているとは言えない。天井近くまである数多の本棚には祖父が集めたであろう大量の本が詰め込まれており、納まりきらなかったぶんは板張りの床の上に積みあがっている。
「全然片付いてへんやん」
「面白そうな内容だったりするとつい読んでしまうからな。当然、進まない」
「自慢げに言うこと違うぞ」
昔は白熱電球が一つぶら下がっているだけだったが、今はLED電球に代わっている。書庫の奥には祖父愛用の安楽椅子がぽつんと残っていた。恐らく榛弥はそこに腰かけて、整理というよりも読書を楽しんでいるのだろう。
「売れそうなもんと要らんもん分けて、要らんもんはひもで縛るだけの話やろ」
「阿呆。意外と興味深いものがあったりするんだぞ。僕にとっては資料の山だ。やみくもに分別できないし、必要か否かしっかり判断するには中もしっかり読まないと」
「あ、そ。ほんで、俺は倉庫のほうやったな」
くどくどと尤もらしい理由を重ねる榛弥をさえぎり、壮悟は倉庫の扉を開けた。こちらも書庫同様に床は板張りで、広さは居間より少し狭い程度だろう。窓がないので昼間でも明かりをつけるしかなく、スイッチを入れると蛍光灯が明滅をくり返したあと、ぱっと白い光を放った。
「なんか……箱がようけあるな……色んなサイズのが……」
「どれになにが入ってるのか、ばあさんなら分かるだろ」
別の部屋の掃除をしていた祖母の説明によると、一応、箱の側面に「夏の服」「冬の服」「おみやげ(関西)」といったように、区分が書かれているそうだ。
箱の種類も様々で、木製でやたら重そうなものであったり、紙製で今にも崩れそうなもののほか、半透明のプラスチック製のものもあった。様々な箱に埋もれていてよく見えないが、壁際には箪笥もあるようだ。
「確かにこれは、ばあちゃん一人でどうにかなる量と違うな。俺一人でどうにかなるとも思えへんけど」
「まあ、頑張れ。こっちの整理が終わったら手伝ってやらんこともないから」
「ハル兄は本読むのに集中しすぎて、絶対俺より終わるの遅いと思うけど」
なんにせよ、どちらの整理も一、二日で済むような量ではない。
ひとまずどの箱になにが入っているのか把握するところから始めなくては。書庫に戻っていく榛弥に「読書ばっかりすんなよ」とくぎを刺し、壮悟は手近なところにあった木製の箱に目を向けた。
箱の側面に分類を書いたのは、どうやら祖父らしい。流れるような字の運びを見て、なんだか無性に懐かしくなる。
中身の確認のためにいくつかふたを開けてみたが、どれも保存状態は悪くない。カビや虫食いが発生している気配もなさそうだ。
整理が進んだのだか進んでいないのだか分からないうちに、祖母が「そろそろ夕飯にしましょうか」と呼びに来た。壮悟は鶏肉が好きだと知っていたからか、夕食はぷりぷりのチキンステーキだった。
「そういえばお前、仕事は?」
少し硬めに炊かれた白米を口に運びつつ、斜め左に座る榛弥が問いかけてくる。
「ガソリンスタンドに勤めているんじゃなかったか。僕と一緒で、ここから通うのか?」
「あー、仕事な。辞めてん」
「あら、そうだったの」と祖母が驚く。「高校卒業してからずっと勤めてたところだったんじゃないの?」
「パワハラでもあったか」
「違うよ。上司とか同僚に不満はなかったんやけど……多分、俺、接客業が向いてへん。もちろんお客さんも悪い人ばっかと違うんやけど、ちょっと疲れたっていうか……日々のストレスが重なって爆発したっていうか、ためこみ過ぎたっていうか」
言葉を濁す壮悟に、榛弥も祖母もなにかしら察したらしい。
子供のころから、壮悟はストレスに弱い。すぐに腹を下すし、頭痛もひどくなるし、ひどい時は精神までおかしくなる。今回はその段階まで悩んでしまった。
だから思い切って職を変えようと、数年勤めてきた会社を辞めたのだ。
「まあでも、やから整理も思うぞんぶん手伝えるし。この日までに急がなーって焦ることもないし」
「だけど疲れたならすぐに言って、ちゃんと休みなさいよ。無理して片付けろとは言わないから」
「うん、ありがと」
「ということは、壮悟。お前しばらくここに滞在するんだな?」
「そやけど、なんで」
「大学のある日は駅まで送迎をしてくれ。毎朝バスと電車の時間を気にして行動するのが面倒くさい」
えー、と壮悟があからさまに眉間にしわを寄せても、榛弥に気にした様子はない。
「面倒くさいんやったら、なんでここから大学通うねん。ハル兄って大学の近くのアパートで同棲しとったんと違うん?」
「さっき少し言っただろ。書庫には興味深いものがあるし、資料の山だって。整理の時だけいちいち来るより、ここで過ごした方が目を通しやすいんだよ」
「あ、そう……」
「どうせ倉庫の整理をする以外は、スマホでゲームするほかにやることないんだろ。送迎くらいやれ」
「なんで命令口調やねん。腹立つわ」
図星であるがゆえに全く言い返せないのが余計に腹立たしい。
食器の片づけと皿洗いは榛弥とじゃんけんをして、負けた方が担うと決めた。今日の担当は壮悟である。
台所は坪庭を望める廊下と、六畳の和室を通り抜けた先にある。どうして居間とこんなに距離が離れているのだろう、といつも不思議だったので祖母に聞いてみると、「昔の造りのままだからねえ」と言われた。
「さっき通り抜けてきた部屋あるでしょ。あそこは〝女中部屋〟って言ってね、お手伝いさんたちが待っている部屋というか、休憩室みたいなところなのよ。ほら、台所の隣にもあるでしょ。あの部屋もそう」
「ってことは、昔はここにお手伝いさんたちがいっぱい居ったってこと?」
「あなたたちのお母さんが生まれるよりも前だから、実感はないでしょうけど。おばあちゃんがお嫁に来た頃は、そういう人たちがいつもお食事を作ったり掃除をしてくれたりしてたの。お手伝いさん以外にもいたのよ。警備員とか」
「警備員?」
「ここの窓から見える離れがあるでしょう。元は警備員室なのよ」
へえ、と壮悟は流し台に食器を丁寧に置きながら相槌を打つ。流し台の右隣にはガスコンロが三つ並んでいるが、リフォームする前はかまどがあったそうだ。振り返れば勝手口があり、祖母の言う離れはそこの窓から少し見えている。
「警備員って、えらい物騒やな。しょっちゅう泥棒が来とったとか?」
「おばあちゃんも詳しくは知らないのよ。舅――あなたたちのとってはひいお祖父さんね――の意向だったみたいで。だから亡くなったのを機に雇わなくなったことは覚えてるんだけど、結局それまでどうして雇っていたのかとか聞けずじまい。舅も、あまり口数の多いほうじゃなかったから」
「ふうん……」
お手伝いさんが何人もいて、警備員も雇っていたと聞くと、もしかして乙木家はかなり裕福な家庭だったのではないか。
今でもそうなのかどうか、壮悟はよく知らないが。
祖父は隣町にある車の部品の小さな工場を経営していたし、そこを継いだのは叔父だ。いずれはこの家も、叔父が継ぐことになるのだろうか。いくつもある部屋の管理や、庭の景観維持など大変そうだなあ、と他人事のように思った。
実際、他人事ではあるのだけれど。
食器を洗い終わり、風呂が沸くまでの間に倉庫の整理を進めることにした。手のひらサイズのリングノートとボールペンを持って、売れそうなもの、要らないもの、祖母に聞いてみるものと枠を作り、とりあえず真っ先に目についた箱から少しずつ分別していく。
「几帳面だなあ」
「ハル兄」
声がして振り返ると、倉庫の扉にもたれるようにして榛弥が立っていた。
「書庫の整理は?」
「進んでいるわけがないだろう」
「だからなんで自慢げやねん。おかしいやろ」
よく見ると片手にビール缶を携えている。夕食の時には日本酒を飲んでいたはずだ。下戸の壮悟と違い、榛弥はいくら飲んでも酔わない性質だという。
「とりあえず気になるものはいくつかあったから、寝るまで部屋でじっくり確認する予定ではある。あとで運びたいから手伝えよ」
「しゃあないな。そういえば資料やなんやって言うてたけど、なんの?」
「僕の専門は民俗学だって、前に教えたはずだろ」
大学で准教授をしていると初めて聞いたときに、教えてもらったような気はする。
「じいさんの書庫にそういう系統の本が山ほどあったんだよ。もともと僕が民俗学に興味を持ったのもじいさんの影響だから、当然と言えば当然なんだが」
「へえ」
「今では絶版になっている本とか、じいさんが独自にまとめたファイルとかあったからな。今日はそのあたりを読んでみようかと」
「何でもええけど、整理はちゃんと進めてくれよ」
返事の代わりに、ビールでのどを潤す音が聞こえてきた。
手伝う気がさらさらなさそうな従兄に背を向けて、壮悟は整理を再開する。今開けているのは、「雑貨その壱」と書かれた、祖父の思い出の品を詰めたと思しき箱だ。
生前は祖母と二人で旅行によく行っていたし、壮悟がついていったことも何度かある。いくつか見覚えのある品もあって、懐かしいなあと感じるたびに手が止まり、つい思い出を振り返ってしまった。
動物園で買ったポストカードやご当地キャラのキーホルダー。サケをくわえた木彫りの熊も収められている。気に入ったものは何でも買ってしまう人だったため、居間や寝室はあっという間に物であふれかえってしまい、そのたびに祖母が半ばうんざりしながら片付けていた。
「ああ、そういえば」
まだ倉庫の入り口にいた榛弥が、なにやら思い出したようにズボンのポケットをあさる。壮悟が振り返ると、「適当にしまっておいてくれ」となにか放り投げられた。
「うわっ、わ!」なんの前触れもなしに投げられたが、とりあえず受け止めることはできた。「危ないやん! 投げやんとちゃんと手で渡せや!」
「書庫に置いてあったんだが、あそこだと本に埋もれて失くしかねない」壮悟の抗議をさらりと受け流し、榛弥はまたビールをあおる。「それじゃ、僕は書庫にいるから。キリのいいところで資料運ぶの手伝いに来いよ」
言うだけ言って、彼は去っていった。
なんやねん、と半ば呆然としつつ、壮悟は己の手に目を落とした。自分は何を受け取らされたのだろう。ゆっくりと指を開いてみると、金色のなにかが蛍光灯に照らされた。
「……なんやろ、これ」
思わず首を傾げて独り言つ。
金細工だろうか。右側は流れるような波のかたちが美しいが、左側は壊れでもしたのかいびつに欠けている。なにかに似ているなと考えて、扇子が一番近いとひらめく。紙のような薄さのそれは軽い。先ほど放り投げられてよく壊れなかったものだと思うほど、植物をかたどったであろう繊細な透かし彫りが施されていた。
様々な方向から眺めてみるが、これがなんなのかいまいち分からない。欠けてしまった部分には何があったのだろう。壊れたのなら捨ててしまえばいいのに、書庫に置いてあったというなら大事なものなのか。
「…………ん?」
よく見ると、左側の上部からひょこっとなにか飛び出している。糸よりも細いのではないかと疑いたくなるほど細いし、光を反射していたために気が付かなかった。
金の線は真っすぐではなく、風になびくように湾曲している。先端はふっくらと膨らんでいた。
――なんか、触角みたいな……。
そう感じてみると、これは扇ではなくて翅なのでは、と。
思い至った瞬間、壮悟の体にぞっと悪寒がはしった。
「っ……!」
とっさに投げかけて、寸前のところで働いた理性が壮悟の手を止める。
はー、と長い息をついて自分を落ち着かせ、改めて手の中のそれを見た。
「これ、蝶やろか……」
欠けているのでそれと断定はできないが、推測に違和感もない。
はっきり言って、蝶にいい思い出はない。子どもの頃は虫取りが大好きだったし、今でも嫌いではないのだが、蝶だけはある時から苦手になった。ゴキブリや蜂にそれほど抵抗はないのに、蝶だけは背を向けて逃げ出したくなる。
がしがしと頭をかき、壮悟は「書庫にあった金細工。蝶?」と手元のノートに書き込み、壊れてはいけないとハンカチで包んでから箱にしまい込んだ。
――ていうかハル兄、俺が蝶を嫌いなん知っとるはずやけどな。
知っていたところで気遣ってくれるかと言われると、そうでもない気がする。またため息が漏れた。
「壮悟、お風呂沸いたわよ」
祖母の声に「分かった、今行く」と返事をして立ち上がる。倉庫から出る直前に振り返って、金細工を収めた箱に目を向けた。
気温の低さによるものではない寒さが肌を撫でていく。先ほどからずっと立ったままの鳥肌を抑えるように腕を何度も撫でさすり、壮悟は倉庫の電気を消した。
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