壮悟と榛弥~コドクの巫女と蝶の呪い~

小野寺かける

一章――①

〝リンゴン〟とも〝ディンドン〟ともつかない音色のインターフォンを鳴らし、暁戸あきど壮悟そうごは数日分の着替えと生活必需品を詰め込んだボストンバッグを地面に置いた。しばらく待ってみても反応がない。もう一度音を鳴らしたところで、玄関のすりガラスの向こうからばたばたと慌ただしい音が聞こえてきた。ついでに「はいはい、今行きます」とも。

「あら、壮悟」と扉を横に引いて顔をのぞかせたのは祖母だった。料理か掃除をしていたのか、大きな花柄が目立つエプロンを身に着けて灰色の長い髪をシニヨンにまとめていた。「ごめんね、待たせちゃって」

「ええよ、気にせんといて」

 朗らかに応じると、祖母は安心したようにほっと息をついて笑う。

 壮悟の身長だと立ったままの場合、祖母の頭頂部が真っ先に目について表情はよく見えない。それが分かっているからか、祖母は少しだけ距離を取ったうえでこちらを見上げてくれている。しわの多い顔には少しばかり困惑したような色が浮かんでいた。

「なぁに、また髪染めたの? ついこの前会ったときは金髪だったじゃない」

「この前言うても、もう三か月も前やろ。ええと思わん? この色。赤茶色っていうか、まだらでかっこええと思てんねんけど」

「最近の流行なのかもしれないけど、若者のおしゃれはおばあちゃんには分からないわ」

 ひゅう、と風が吹き抜ける。暦の上では春とはいえ、コートが手放せない時期が続いている。壮悟のくしゃみをきっかけに「ごめんね、立ち話させちゃって。中に入って」と祖母は中に引っ込んでいった。ボストンバッグを持とうとしてくれたが、重いから自分で持つと制して壮悟も家の中に入った。

 懐かしいにおいが鼻をくすぐる。母方の実家である乙木おとぎ家には幼少期から何度も訪れているが、いつ来ても家中に漂う香りは変わらない。靴箱の上に置かれた季節の花の甘やかな、あるいは清々しい芳香と、家屋全体に使われている木や竹の深みのあるにおい。台所の方向からは醤油の甘辛いかおりが漂ってきている。

「『壮悟なら朝の八時くらいに着くと思うから』って万梨子から聞いてたんだけど」

 万梨子というのは壮悟の母だ。壮悟が腕時計に目を落とすと、針は十一時三十分を示している。

「いや、俺もそのつもりやったんやけど、事故で高速がえらいつんどってさ」

「〝つんどる〟?」

「〝渋滞しとる〟って意味。他もさ、高速から降りるとことか、あそこいつも大渋滞してるやん。やもんで予定より遅れてしもて」

「あらま、それは大変だったわね。とりあえず居間で待ってて。さっきまでお昼ご飯の用意をしてたところだから」

 言いおいて祖母は台所に姿を消した。壮悟は背中を見送ってから、さて、と首を傾げた。

 ――俺のほかにもるもんや、と思ててんけど。

 祖父の一周忌から三か月。家にある遺品を整理したいから手伝ってくれという祖母の要請は子どもたちを通じて孫である壮悟たちに伝わってきたわけだが、この様子ではもしかすると、手を貸しに来たのは自分だけなのではないか。

 玄関にあった靴は自分のものと祖母が愛用しているサンダルだけだったし、駐車場にも壮悟の愛車しか停まっていなかった。

 この広い家を自分と祖母だけで整理するのは骨が折れそうだと思いつつ、畳廊下を抜けて言われた通り居間に向かう。広々とした畳敷きの部屋の南には、乙木家自慢の日本庭園がある。樹齢二百年以上ともいわれる松の木と灯ろう、かつては鯉が泳いでいた小さな池。以前は祖父が手をかけていた盆栽もいくつか置かれていたが、こちらはすでに処分したか、人に譲るかしたのだろう。縁側に出て眺めてみたが、一つも残っていなかった。

 家の敷地を取り囲む生垣越しに見えるのは村の家々だ。さらにその奥には広大なため池も望める。乙木家が高台にあるためどちらもよく見えた。名古屋から車で一時間半ほど走るだけで、都会とは打って変わった景色が広がっているものだ。この風景はできるだけ変わらないでほしいなあ、などと感慨にふけりながらコートを脱ぎ、ボストンバッグから取り出した薄手のジャケットを着る。

 下に着ていたブイネックのシャツは半袖だが、暖房の利いた部屋ならこれくらいの装いで壮悟にはちょうどいい。スマホの充電器や歯ブラシなど、他の荷物も取り出そうとしたところで、祖母が昼食を運んできた。

 にんじんとごぼうがゴロゴロと入った五目煮豆ともずくの味噌汁、焼き鮭と雑穀米、そして緑茶。あまり空腹は感じていないつもりだったが、おいしそうな食事を目の前にすると話は別だ。ありがたくいただくことにして、壮悟と祖母は一枚板の机を挟むように向かい合って座った。

「手伝いに来てくれてありがとうねえ。おばあちゃん一人じゃ数日どころか何か月もかかりそうで」

「ええんやって。ちょうどって言うてええか分からんけど、今の俺なら腐るほど時間あるし。あ、美希が『勉強が忙しくて行けない、ごめん。代わりにお兄ちゃんをこき使って』て言うとったわ」

「ありがたくそうさせてもらうわ」

「そういえば、雨織うおりは? まだ帰ってきとらんの?」

 乙木家で祖父母と同居していた壮悟の従妹だ。祖父の葬式を境に家出をしたらしく、一周忌の際にも姿を見かけなかった。娘と連絡が取れない、と肩を落としていた叔父の姿は記憶に新しい。

 壮悟の問いに、祖母は緩やかに首を横に振った。寂しげに伏せられた目には、どこか諦めも漂っている。そうか、と壮悟は五目煮豆を口に運んだ。

 彼女が家出をするのは今回が初めてではないし、捜索願を出す予定も、今のところはないのだろう。

 しんみりとした空気が流れかけた時、「そうだわ」と祖母がなにか思い出したように顔を上げた。

「悪いんだけど、あとで車を出してほしいのよ」

「全然構わへんけど、買い物?」

 村に個人経営の小さな商店はあるが、スーパーはない。商店にないものをそろえようと思うと隣町まで行かねばならないが、村は山を切り開いたような場所にあるので坂道が多く、徒歩では年配の体には辛いものがあるし、バスは一時間に一本程度しか通っていない。祖父がいたころは祖父が車を運転して買い物に行けていたが、今は仲のいい近所の人が出かけるタイミングで一緒に連れて行ってもらっているそうだ。

 ここ数日はそういうわけにもいかなくて出かけられなかったのかと思ったが、どうも違うらしい。祖母はまたしても首を振る。

「駅まで迎えに行ってあげてほしいの」

「迎えに……誰を?」

「行けば分かるから」

 どうして教えてくれないのかと思っていると、祖母はおかしそうにくすくすと笑う。なるほど、壮悟を驚かせたいようだ。こういう時、いくら問い詰めても教えてくれないのは知っている。

 昼食を終えて、壮悟はさっそく駅に向かった。隣町にあるローカル線の駅だ。改札が見える適当なところに車を止め、ハンドルにもたれかかりながら利用客の様子を眺める。土曜日だからか、人は片手で数えられるくらいしかいない。

 ローカル線や地下鉄を乗り継げば名古屋まで出ることもじゅうぶん可能だが、いかんせん本数が少ない。少ないときは一時間に二本しか出ていないのだ。それでも近くの高校に通うにはローカル線が欠かせないためか、改札から出てくるのはたいてい部活帰りと思しき学生たちだ。

 ふあ、と大きなあくびが漏れる。腹が膨れたおかげか、急に眠気が襲ってきた。祖母が迎えに行けと言ったのは誰なのか気になるところではあるが、どうしようもなくまぶたが重い。

 仕方ない。眠気にはあらがえない。運転席の背もたれを倒して体を寝かせ、待ち人が現れるまで眠ることにした。

 が、三十分もしないうちに耳元に置いておいたスマホが鳴動した。メッセージアプリの着信音だ。慌てて身を起こした壮悟の視線の先で、改札から見覚えのある背格好の人影が出てくる。

 薄水色の縦じまが入った白いシャツと黄土色のジャケット、黒いパンツ。長方形の眼鏡の奥で気だるげに伏せられた目はスマホの画面に注がれている。鬱陶しくないのかと思うほど長い黒髪はポニーテールにくくられていた。

 再び壮悟のスマホがメッセージアプリの着信を伝える。タップして画面を見ると、「どこにいる」と簡潔な一文が躍っていた。

 壮悟がどの車に乗っているか知らないのか。クラクションを鳴らして合図をすると、ポニーテールの人物は顔を上げ、しばらく音の出所を探るように視線を巡らせたあと、ようやく壮悟に気が付いたのか軽くうなずいた。

「久しぶりだな」と助手席の扉を開けるなり、壮悟の待ち人はそう言った。女にも見間違われる整った容姿から発されたのは、渋みのあるバリトンボイスだ。

「ばあちゃんが迎えに行け言うたん、ハル兄のことやったんやな」

「なんだ、聞いていなかったのか」

「聞いたけど教えてくれんかったんや」

 ハル兄こと榛弥はるやは従兄だ。歳は六つ上の二十八歳、大学で若き准教授を務めているはずだ。専門分野も聞いたことはあるが、興味がなかったので忘れてしまった。

 榛弥はシートベルトを締めるなり胸元のポケットに手を突っ込むと、小さな箱を取り出した。たばこだ。

「吸っていいか」

「あかん」

「なんでだ」

「俺がたばこのにおい嫌いなん知っとるやろ」

「大学からここに来るまでずっと我慢してたんだぞ」

「知らんわ、そんなん」

 不満そうではあったが、榛弥は仕方ないといったようにたばこをしまい込んだ。

 また髪を染めたのか、と祖母と同じ質問をされて答えつつ、壮悟はアクセルを踏む。榛弥と会うのも三か月ぶりだ。彼が髪をほどくと、柔らかな毛の束が肩の下まで広がった。

「鬱陶しそうやな、そんだけ長いと」

「慣れればそうでもない。乾かすのは面倒くさいと思うが」

「そんなら切ればええやん」

「僕が勝手に切ろうものなら、茉莉まつりが『長い方が似合ってるのになんで切ったの』とうるさいから」

「……ああ、彼女さんか」

 高校の頃から付き合っているという従兄の彼女を思い出す。一、二度しか会ったことはないが、モデルのような美人だったことを覚えている。榛弥の口ぶりから察するに、今も仲睦まじいのだろう。うるさいと言いつつ、かすかに口の端が綻んでいた。

 駅から乙木家までは十五分ほどだ。窓の外の景色は住宅街、田畑と順にうつり変わり、やがて山の緑が濃くなっていくにつれて家の数が減っていく。

 あれこれと話題に花を咲かせながら村に続く坂道を走らせていたとき、視界の端を流れていったものに壮悟は「おお」と思わず感動を口にした。

「懐かしいな」

「なにかあったか」

「鳥居や、鳥居。石で出来てて、しめ縄がぶら下がってるやつ」

 詳細に思い出したのか、榛弥が「あれか」とうなずいた。

 鳥居をくぐって進んだ先には小さな神社がある。正月や盆に母が帰省した時、神社やその周辺で行われていた祭りに連れて行ってもらったことがあった。

 村にとってもっとも重要視されているのは、三月の終わりごろに開催される行事だと教えてもらったこともある。祖父の手にひかれて向かった先で、大勢の人々がにぎやかに語らい、あるいは真剣に祭りの進行を見守っていたのを覚えている。なによりも壮悟の記憶に残っているのはとある場面なのだが、それは同時に苦手や恐怖にも直結しているため、出来ることなら忘れていたい光景でもある。

 なので、努めて明るい思い出だけを語ろうと「昔はようハル兄と遊びに行ったよな」と話題を榛弥に丸投げした。

「僕は出かけたくなかったのに、お前が外で遊びたがるから仕方なくお守りをしていたの間違いだろ」

「そのわりには結構楽しそうやったやんけ。相撲大会に飛び入りで参加して、俺は準優勝まで行ったのにハル兄は二回戦で負けてしもて、悔しいからもう一回やる言うて泣いとったやん」

「忘れろ、恥ずかしいんだから」

「写生大会もあったよな。狛犬描いて優秀賞獲ったん、ええ思い出やわ」

「神楽を見学したり、神社の裏の森に迷い込んだこともあった」

「そうそう。そんでじいちゃんに『心配させるな』ってめっちゃ怒られて……」

 祖父との思い出を語りかけて、壮悟の言葉は尻すぼみになっていく。

 はっきり言って、祖父がもういないのだという実感はあまりない。死から一年以上経ったというのに、壮悟はまだ、乙木家に行けば祖父が縁側やサンルームで新聞を広げているような気がするのだ。

「……なあ、ハル兄」

「なんだ」

 ぐねぐねと曲がりくねる道を進みながら、壮悟は無意識にハンドルを強く握りしめた。

「じいちゃん、なんで自殺したんやと思う?」

 さあな、と榛弥の答えは素っ気なかった。

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