──小学校

「うわ」

「こいつモらしたぞ!クッせぇえ!!」

「きっ……たね」

「うごっ、ちかよんなシねっ」

冬凪が小学四年生の時、同じ学級の生徒が失禁した。

音楽の時間、音楽室で。


彼がそうなったのは、便所に行く度にいじめられるからと体に無理を強いていたから。

個室の上からはバケツで水を掛けられ、小便器を使っていれば背中を蹴られたり、体を無理やり引き剥がして廊下に連れ出されたりしていたから。

それでも暫く便所に行っていたのは、胃が弱く緊張にも弱く我慢し切れなかったから。


冬凪は何も関係なかった。

ただ学校が、学級が同じだけだった。

番号、席が近いだけだった。

当事者でもなければ当事者との親交や因縁も無い。


何も感じず思わずに居て、生きていてもいい、そうしていた方がいい立場だった。

だが、のに……

何もしなくていい傍観者の立場だからこそ、持て余していた余裕が燃料となり悪意に対する悪意となった。


その時は何もせず黙々と何かを呪うように思い耽っていた。

静かに、ただ心の中で正義と名前をつけ涵養かんようしていたえつの芽、土泥どどろに浸っていた。


他の生徒も先述の誰かしらと似たようなものだった。

薄情な人間がその学級に偏るようにして集まっていたのか、そもそもその学年、学校、一帯、世代、種族には厚意の幻想があるだけで、そもそもが理合りあいに薄情なものだったのか。



失禁の一件から半年間 直接的な動向はなかった。流石に注意されたのだろう。


が、五年生の夏休み明け、久々に件の被害者いじめられっ子が個室で用を足そうとした時、上から異臭のする水が降り掛かってきた。

その臭いには覚えがあった。

それを思い出す前に箱らしきものが頭に落ちてきて、そのふちが頭を打ったと思えば、水などでぼやけ床に向いた視界に答えはあった。

足元で赤い何かが跳ねている。

……金魚だ。


冬凪は遅れながらもその様子を見た。

何せ加害者いじめっ子たちが水槽を教室から乱暴に持ち出したのだから。

楽しそうに騒がしく。

……嬉々として。

追い掛けた先は当然男子便所。

水槽が落とされる音に連なり、個室の隙間から滑り 飛び 出てきた金魚を見て完全に悟った。


未熟にしても無垢にしても、あまりにも常軌を逸していたから。

それ以外に考えられないにも関わらず、その可能性を万一と見積っていた。

のに。


その衝撃は衝動となって、口から突き出た。

「やめな、よ……」

選択、暫定は終わり。

その通りに運命が転がり始めていた。

「やめろよ、おい!」

「あ?」

「うわこいつ男子トイレ覗いてるキんモぉ!!」

この……!!


冬凪は手頃な身長の一人に近づき、飛びついて髪を掴んだ。

「っ…!」

「わっ、はっ……ぁ?」

「やめろって、おまえ、やめろよ!!」

「やばこいつ」

「やめろよ、おい」

連中は動揺している。

自分が言った言葉を使われ、勢いづいている自己を自覚する。


その最中であろうと冬凪は手を握り締め、相手の体を叩いた。

この気持ちは抑えられないという見積りに従い、それを抑えなかった。

抑制を抑圧した。


なかなか痛がる様子を見せないから、力をいっぱい、いっぱいに込めて何度も叩く。

胸、腕、首、顔。


十数秒もしない内に、少し落ち着いた別の連中が冬凪を仲間から引き剥がした。

その際、冬凪は縋り付くように相手の顔面を引っ掻いていった。


この数分のやり取りの間に、事態は教員に伝わり、その場は一応収まった。


この日は梅雨の真っ只中。

冬凪の髪も心も脳も顔も歪んだ数分。

一件の頃合から雨がざわめき、風に煽られている。

入口付近に集まっていた生徒たちも 窓から降り込む雨に紛れ混んでいくかのように 中を覗き込もうとしたり 噂を捏ねたりとその一時を過ごしていた。


まだ、この日の出来事は尽きていない。



自分の叫びも、涙も、暴力も、何一つ目の前の親に届かなかった。

それを味わった人生は早々に無気力で満たされる。

抜け殻になる。


無気力の中から発した、生じた……衝動。


冬凪はそれに突き動かされた。

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