深夜。高架下のテント。

雑音に次ぐ無音の後に老人の声がラジオから飛び出す。

『…………人が他人を思い遣り、優しさを振り撒くのには必ず利己が伴う。

陳腐な響きだが。

全ての思考、言動がそうなんだが、

これは特に。


相手や世間から与えられる報いだけでなく、自分自身に自己認識キャラクターを演出し、馴染ませる目的など、その形は多岐に渡る。

本能的に潜在的に、人間性の整理、確立が群れでの生活に必要であることを自覚、理解しているのだ。


慣れ親しんだ状況、心境……を、自分、自らの領分を、やがて人は当然とする。

何時いつの間にか、絶対的に何処どこかで構え掲げ据え添える。基準とする。

最低限信用が必要になった集団。

人を認める基準は自分。

それがどうあやふやであろうとで絶対だから、各々それに従いその他人を信じ用い利を得ようか選ぶ。


集団は…他を同族だとして信用を持って扱うべく、それに求める人間性の、質の指標をこの優しさに決めた。

普遍的な想像や個人的な感想など意味定義のあいまいようは口にする容易さとは裏腹。

非常に複雑なものであり、だからこそ高等な指標足り得るものなのである。


だが時に、人には対峙した瞬間 頭からも胸内むなうちからも優しさがとんと消え失せる相手 手合いがいる。

それが欠如した、人間性が無いと感じた人間。

その場その世において優しくする、してやる理由が見当たらない人間。

気心のしれた相手との一瞬の出来事、出来心にしろ絶対に分かり合えないような相手との永遠的な相性にしろ……そういう時に、どうしても、優しさは湧き上がってこない。


幸せとまでは言わない。

高等と言えどそれほどのものじゃない。

程良く生きるには利己の己と人間性……

又はそれなりの魅力なり価値が要る……

そして最初、はなから家畜かちく玩具がんぐだと見積もられない態度、格好がいる……

従順なり歯向かうなり喚き散らすなり、なんなりと…そういうのは、あってはならない。そういうのは。

はぁ ふーーっぁあ……

難しいなぁ。

人は人に見えないものに人間性を求めないのと同時に、人間であることを神経では絶対に認めない…』

「毎晩毎晩よくも飽きずに……このじぃさんたランぽランあなぁ〜親わっ子知らず、男は女知らず、兄は弟知らず……にぃ。はぁあア〜」




萩野はぎの

冬凪とうな汐利しおり

この親子、母子の間仲は正にその一例のようなものだった。

親は子に未だに続く恋路こいじの障害のような印象を持ち、子はその親に近づけず、重ねて近づこうとしない。

血縁という恰好かっこうえにしがあろうと、反りが合わずにそれが何時何処まで続こうとも寄り添い合わない。


変化。

この日は違った。

この日から変わり出した。


……更に深夜。冬凪。


苦しい。

体を。

肉体一帯を 包む熱と囲う闇が形を持ち、

重みを持って襲いかかって来たようだった。

その痛みは。

病気、呪い、怨念、生霊、暗殺、悪夢……

羅列した思考は直ぐに割れ、破片として汗に塗れた皮膚の内側から突き刺さってくる。


腕がくたびれたように痺れ、脚はただの壁、

それとの間に在る虚空をひたすらに仰ぐように伸ばされては曲げられ。


腹の中にもりが発生し、それが体内を引っ掻き回しながら引き摺り出されるような。


……腹よりも下。丹田たんでんよりも下。

そこで妙な熱を持った泥が今……

吐き出されている。

元々そこにあったかのように続く。


呪いだと感じた、罰だと思った。

今まで目を閉じている間に感じた全ての気持ち悪い感触、感情、感傷。

恐ろしい思考の感覚、嫌悪、罪悪……

これまで、頭の中でうずいたり身を貫いて目の前を去っていった筈の全てが。

振り向いて。

嬉々として。

当然とうぜん毅然きぜんとして。

掴みかかってくるようだった。

からだぢゅうを


起き上がろうとした。目覚めようとした。

ただ頭が痛い。

眼球の首を掴まれているような。


一つの行き止まりから逃げるよう、

たった一つの出口を避けるように瞼を。

意識を閉ざし続ける。

汗に塗れ熱に包まれ朧気おぼろげな悪夢を見るほどの余裕も無い。


無像。


目の前にある小さくも深い暗闇に向かって、視界や体感、世界が彷徨い続ける。

際限無く。



光や風が肌を冷やかすように通り過ぎていくことで、その刺激で、視界に辿り着いた。


窓を開けていたから、締め切っていたカーテンを跳ね除けて、彼らがやってきたから……助かった。



冬凪は目覚めた。

悪夢の後よりも鬱蒼うっそうとした気分と体調の中で、何も無い部屋に目を見開き、

足音、軋む音を聞き生活しなくてはいけなくなってしまった。

せざるを得ない気がした。起きたからには。


痛み苦しみに耐え何も考えられない時と、

絶えず気の悪いことだけを考える日々。

違う苦しみ。


ただ無言、無音、絶え間なく痛覚を切りつけてくる鈍痛に苛まれながら、下半身を見た。


布に染みが出来ている。気持ち悪い感触もある。

ただ……糞尿などとは違う気がした。

泥とも少し違うような。


肉体を弄び趣向を変えるように偶に鋭利になる痛みに耐えかねて、酷く苛立った。

だがその感情の存在を許さないような、意に介さないような静かな部屋に生きていた。

彼女はそう思って生きていたから、直ぐに布団などの洗濯を想像して、無気力な気になった。


泣き叫びたい……とても。

泣き叫んだ。

言葉が浮かばず、何も分からず、怖くて怖くて母を呼んだ。

小さい頃に世話をしてくれた記憶を覚えている。

だからそれに縋っている。

まだ、過去にはなり切っていないはず。

手遅れ遅れなど気にしない。


……記憶に生きる他人に頼っているのか。

痛む頭でそう問い掛けてくる自分を自衛として殴り殺すように、頭が痺れるほど泣いた。

声が枯れるほど。

汗も涙も涎も鼻水も訳が分からないほどに。


辛い、辛い、熱い。暑い。


……み、一分。

誰かが来たり、壁や床越しに存在を感じることは無かった。


きっと呪いだ。

頭が暴走し、それを嘲笑し抑制する、そういうような手立てがない。

電話をかけた。

母に。

染み、汚れも、呪いも、何もかも。

そのままに、ちゃんと呼ぼうとした。

母、汐利を。

『……何?』

「ま、マまま、ままァ……あ、起きたら、アっ、赤いのが……?黒?」

『…………』

「チ、がうっのぉ、おねしョジャなくてね……」


「あのァ、おのぁああああうっ………………」


「アァううっ!ぅううウううっ……ううう…ァ、いっふぅうう……ッ」

そうだ、泣き声を聞かせたかったんだ。

あたしは今泣き崩れて見せている。

この人があたしをどれだけ傷つけて苦しめて悲しませて寂しくしているか、突きつけたかったんだ。

あたしにとってのこの部屋みたいに。


『…………待ってて、三時間』

………………やった!

『いい?冬凪。待てる?三時間。三時間でそっち行くからね』

…やったやったやった!!

「うん、わかった……」

『えらいね、待ってて』

「うん……!」

電話を切った。

やっぱり、あたし可愛かったんだ。あたし。

ワたし……!!


冬凪はもう一度眠った。

電話を終えてペットボトルから水を飲み、それ以外何もせずに。

起きたら何もかも綺麗になっていて、夏の暑さとは関係の無い、温かさが待っていると思えたから。


不安や孤独感、不満や虚無感は消え去り、

ただただ、ただの単なる苦痛だけが残った。

喜びは何もかもを軽やかにした。

その、今感じている予感はどんな苦しみも軽んじられる程のものだった。

朦朧もうろうとした意思 意識に光のようなものが響いていく。


…………そして消えて去っていく。


暗闇に揉まれ飲まれ喰われて。

光は瞼の中にしかなかった。


家の扉が開いた音がした。

母であることは確かだった。

その母が独り言を言っていたが、それは聞かなかった。

……母は独り言など言っていなかったから、知らないし聞かなかった。


目を瞑った冬凪の周囲を、

溜め息を含んだ風や手が動き回る。

寝惚けた振りをして薄目で見ると、確かに母。

空き巣などではない。


そこには母がいた。自分の世話をしていた。

途方も、とてつもなく久々に、“母“の姿を見た。

自分はやっと娘になった気がした。


服を脱がしてもらった。

背中を拭ってもらった。気持ち悪い感触も。

着替えさせてくれた。

膝の上で歯を磨いてくれた。

抱き抱えられて別の布団に移された。


背が小さくてよかった。

だってワたし、今も可愛い。

可愛がられてる、愛されてる。



…違う?



「まま、ワたしかわい?」

「……かわいいよ」

気怠そうに言われた言葉は優しく聞こえる。

「うれし」

「よかっ、た……!」

「はぁ……」「よかった」「外に出ないで」「て」

「殺されかけた」「よかった」「もう二度と」

「やめてよ」「よかったね」「ね?」「え?」「冬凪」

「嘘でしょ?」「つまらない」「よくそんな」「嘘」

「か」「何もできないのに泣かないでよ」「った」

「あんたのため」「はぁ……」「無駄にできて」

「いなくなって」「に」「よかった」「ありがとう」

「ら」「わがままやめてよ」「消えて?」「目を見」

「私と」「あのこと」「あの人と」「もう二度と」

「勝手」「本当は」「買わなきゃ」「えらいね」「習ったのに」「せっかく」「で無能」「どこが?」「顔」

「目も鼻もコブみたい」「よかった」「大違い」

「の」「汚いね」「あ」「えらいね」「人」「よかった」

「私の子じゃなくて」「よく平気ね」「の」

「無駄にできて」「なにもかも」「よかった」「ね?」

「ブサイクな子」


っ………ど…何処どこ、どこまでが夢??

「ん、っ……ままぁ?」

……返事は無い。気配も無い。

…………もういい、もういいから。

「もう二度と」あたしに「つまらない」「嘘」

思い出させないでよ、「ね?」


深夜二時半。幸せの反動。

悪夢と苦痛だけが頭に残る。

一時、一瞬相殺されて生まれた虚無、

また闇。

点滅。

あれは夢と言えるほど幻想的ではなく、

抜粋。

切り抜かれくり抜かれた記憶であると認識することは……避けた。


……そうか、あたし、ブサイクだったんだ。

そう、言われてたんだ…………誰かに。


お腹を痛めて産んだ子に言うなんて、相当だよね?

相当不細工なんだ。


ココに聞い……かがみ、鏡見よう。鏡を。

見てみよう!!


洗面所。


鏡に反射する自分の像。

目付きが悪く、常に睨んでいるよう。

カスのようなシミが顔中にある。

指もクシも通さない発色の強い髪の毛。

眉毛は中途半端な濃さ。

鼻は茹でて潰れ、したうずらの卵みたい。

歯は……マシかな。

「き……」

言わない。

言ったら、あたしはワたしを終わらせることになる。

こんなことでは……嫌。

「き、たァーっ〜」

……唇の色も、なんだかじとっとしてる。

小春子に比べて。


辛い。

他人が引き上げてくれた気持ちを自分で……

最悪、最低最悪。

寝過ぎたせいか、嫌な夢を見すぎたせいか。

まぶたしおれて眼が軋む。

高揚感がかすむ、視界がくすむ……


無理矢理寝ることもままならず、

夜にできた暇を潰すような娯楽も無い。


電話……ココ、に……

この時間に出てくれて褒めてくれたら本当に本当にあたしのことが好きなんだろうな。

嘘とかお世辞とかからかいとか冗談とか皮肉とかそういうのじゃなくて、ままの言葉と同じくらい……

絶対的で……

……同じじゃ、無い……かな。

やめた。


同じようにやめた。何時もと。

何も大変な人生、生活はしていない、し。

迷惑になる。


自分の不幸な気持ちを他人のつもりになって抑えつけ害虫、害獣のように殺す。

けどあたしだけは死なない。

この記憶だけはずっと生きてる。

あたしだから、ワたしだから!!



気持ちだけひたすらに疲弊して、気力残る思考にそれを殴りつけられ引きずり回される。

それを際限なく繰り返す。

今日も。

この夜も。

次の夜も、きっと同様に。

何度も何度も、再現する。



ままも、あたしと……

一緒に、雨曝あまざらしに、なればいいのに。

なってよ。

……なってくれたらいいのに。

なっちゃえばいいのに。


呼応するように降り出す雨。

目障りな月明かりも曇天の底で往く。

窓を閉めると外には暗い空に黒い雲。

まるで親子のようだった。


この時が一番、運命を感じる。安心……する。


変わり出したかに思われた。

が、そうそう転じるものではなかった。

地を這う人格ならば尚更に。


他者としての愛情、同性としての嫉妬。

そんなものすら湧いて、芽生えて。

風邪拭く芽吹く。

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