シロップと猫背
七十七 虹子
シロップと猫背
シロップと猫背
ひどく猫背の先生だったから、こどもからおとなまで猫背先生と呼んでいたけれど、あれは今考えると私たちに会うほんの数分間、診察の間だけ、なるべく患者さんに近づいて、寄り添うために猫背で座っていたんじゃないだろうか。でもあの伸ばしっぱなしの白髪に、銀縁の眼鏡を掛けたひょろひょろとした猫背先生が普段は背筋を伸ばして歩いているなんてところは想像がつかなかったから、やっぱり普段も猫背先生は猫背先生だったのだろう。
そんなことを考えたのは、久しぶりに猫背先生に会ったからだった。
この町に生まれた人は全員、猫背先生のお陰で生きている。と言ってもいい。記憶がある中で一番最初に飲んだ薬は、目がぱちぱちするような濃いピンクのこれより甘いものは口に入れたことがない!というようなシロップで、私はそれに憧れていた。風邪をひくと猫背先生にそのシロップを貰うことができたので、幼稚園児の私は雪の日にタンクトップ一枚でベランダに出て昼寝をしたのだけれど、結局母に見つかり摘み出されて終わった。幼稚園のみんなは甘すぎるからあのピンクのやつは嫌い、風邪をひくと猫背先生が喉につめたい棒を刺してくるから嫌だ!と言っていた。もらえるシロップも、診察をがんばったご褒美の飴も、つめたい棒も聴診器も消毒のにおいも、私はぜーんぶ、大好きだったけれど、なんだかみんなには言えなくて、私はこっそり、ピンクのシロップを想うことにした。
風邪をひきたいときはひけなかったが、それでも幼い私には定期的にシロップチャンスが訪れた。でもそのときはいつも意識は朦朧としていたので、しゃきっとした状態でピンクのシロップを飲んだことはない。ぼんやりとした世界の中で口にするそのあまいあまいシロップには、どこか私を遠くのふしぎな国へ連れて行ってくれるような特別な気持ちがあった。猫背先生のいる小さな病院、みんなはそこを猫背先生のところ、と呼ぶから誰も正しい名前を覚えていないかもしれないが、沢野クリニックは私が中学二年生の頃に院を畳んだらしい。お母さんから何気なく聞かされて、こころがすこしぽっかりとしたように思えたが、その頃にはシロップが大好きだった私も、別に好きじゃなかった子も嫌いだった子も、みんな風邪なんて滅多にひかなくなったし、何か用事があるとしたら市の大きな病院へ行っていて、すぐに猫背先生のことなど考えなくなるのだった。
自転車のサドルで目玉焼きが作れそうなあつさ。信号待ちをする場所に日陰がないと、全てのものを恨んでしまう。熱気の昇ってくるコンクリート。触ったらきっとやけどをする車たち。顔を太陽に向けて背筋を伸ばす向日葵。ちょうど目の前で青信号の点滅が終わってしまって、私は自転車に跨り、目の前の蜃気楼をぼんやりと見つめた。夏休みだけど高校三年生なので毎日補習を受けるために学校に行かなくてはならない。なんとなく勉強をして、なんとなく大学に行こうとしている。この先どうなるのだろう。何かをしたい訳じゃないけど、このまま、何かをしないまま、大人になったらどうしよう。そういう漠然とした不安と夏が混ざりあって、もわもわとした気持ちになる。ふと電柱に貼ってある郵便局のポスターが目に入った。「暑中見舞い申し上げます。お盆休みは涼しく過ごそう!キャンペーン」そう大きく書かれた文字の下に、そうめんやゼリーの写真、季節とは真逆のゆきだるまのイラストたちが載っていた。ポイントを貯めると涼しいプレゼントが当たる、というものだった。ゆきだるまがにこにこと涼しげに笑っていて、こんなに暑いと溶けちゃうよ、と思う。雪でも降ってくれたら涼しいのに。こんな暑い日に冬を思い出すと、いつも涼しいのはどうしてだろう。凍えながら、死にそうになりながら帰った雪の日、毛布を被っても寝られないほどの寒さの日、どの冬の私も、本当は地獄だったのに羨ましく思えてくる。冬の私はきっと夏の私が羨ましかった。そうやっていつも真逆のことを羨ましがっている。信号が変わってペダルに掛けていた脚に体重をかけたそのとき、
「みかちゃん」
と声がした。
振り返ると、杖をついたおじいさんがひょろりと立っていた。おじいさんはこんな真夏の日に長袖のシャツを着ていたが、それでも涼しそうな顔をしてにっこりと立っていた。
「みかちゃん」
「えっ、はい」
半分渡りかけた横断歩道を引き換えしておじいさんに近づいた。よーく顔を見て、びっくりした。猫背先生だったのだ。
「ひさしぶりだねえ。元気しているの?」
椅子に座っている時にしか会ったことのない猫背先生だったが、数年ぶりに会っても、立っていても、猫背先生は猫背先生だった。
「あっ、はい。まあ、なんとか」
確か最後に猫背先生に会ったのは小学生五年生あたりだったから、私を覚えていることや、私に気づいたことに感心をした。私の身長は十センチ伸びて160になったし、短かった髪も今は肩まである。なんでわかったの。あの頃は猫背先生とみんな友達のように話していた。よくがんばったね。はい、飴ちゃんあげる。ありがとう!げんきでね!うん!猫背先生もね。ばいばい。ばいばーい!敬語で猫背先生と話すのはどこかむず痒い気がした。けれど友達のような口調で話すのもどうなんだろう、という気持ちになった。
「ならよかったよ。こんなに暑いと、倒れてしまうからねえ。みかちゃんが倒れたら、先生もう看病できないからよ」
「うん」
はい、と、うん、のどちらかを言うか迷ったけど、それはほんの一瞬で、気がついたらうん、と言っていた。もうちょっと何か、弾むような話をしたかったけれど、猫背先生の少し淋しそうな話し方に私もつられて、うん、としか言えなかった。
「今日は学校に行くの?ほー、もう高校生になったんだねえ。りっぱだね、りっぱだ」
「今日はもう終わった、終わりました。ぜんぜんそんなことないよ。先生も立派、ですよ」
「ありがとね、先生ちょっと涙でそうになるね、みかちゃんこんなに元気に大人になってくれたところ見たら」
そう言って先生はポケットから小さく綺麗に折り畳まれた薄いピンクのハンカチを出して、目をふいた。ただの患者さんだった私のたった数年の成長に涙をこぼしてくれる猫背先生を見ると、猫背先生が生活の中にいた時代のことや、猫背先生が私たちに向けてくれていた想いとか、そういうのが心の中にはいってきて、私もちょっとだけ泣きそうになってきた。りっぱ。立派ってほんとに、全然言われないし、私が言われるような言葉じゃないから、猫背先生は私が今どれぐらいの地位にいて、どんなことに悩んでいるのか何にも知らないけれど、そうやって言ってくれたのは、私の心の大きな部分を支えてくれるのだった。
渡り損ねた青信号が赤に変わって、また青に変わった。じゃあ行くね、と言おうと思ったのだけれど、どこか離れがたかった。きっともう、この先生と会うことはないんだろうな。当たり前だけど、きっともうないんだ。別にいいけど、よくないような、何かもっと、別に話すこともないけど、話したいような思いに駆られた。私が自転車に跨りながらうじうじとしていると、猫背先生はそうだ、と顔をあげた。
「みかちゃん、かき氷食べるか?あついから。げんきでるはずだよ」
「うん」
気がついたら猫背先生と並んで、日陰だったり日向だったり、長いあついあつい道を歩いていた。木陰の道はとても涼しくて、あたまもすこしひんやりしてきた。幻かと思った猫背先生の輪郭が、すこしだけはっきりとしてきたような気がした。猫背先生がわたしの身の回りについてたくさん質問をしてくれるから、私はなにも猫背先生に質問できなかった。私はたくさん嘘をついた。みかちゃんは学校はたのしい?お友達はたくさんいるの?うん。いるよ。みんなと毎日笑ってて、一緒の趣味とかあって、楽しいよ。みかちゃん、お母さん元気か?仲良くしてる?うん、仲良いよ。みかちゃん、将来なにになるの?先生。病院の先生。猫背先生みたいに、お医者さんになるよ。おぉ、それはすごいね。たくさんみかちゃん勉強してるから、きっとすごいお医者さんになれる。ぜったいなれるよ。
医者なんて、なれるはずもないのだった。大体私は文系で、数学や理科はできないし、できたとして、猫背先生のようにみんなから愛される先生には絶対になれない。猫背先生を喜ばせたくて変な嘘をついてしまったけれど、こんな気持ちになるのならもっと正直に言えばよかった。友達は、いるけど、あんまり話は合わない。お母さんとは最近全然話さない。医者にはなれない、何にもなれない。猫背先生みたいにはなれない。そう言ったら猫背先生はなんて言ってくれただろう。
十分ぐらい歩いた。猫背先生の小さな病院、沢野クリニックの前で足を止めた。ここに来る以外でこの辺りに来ることはなかったから、本当に久しぶりに病院を見た。昔と変わらない鮮やかなイエローや水色の壁や、くまやうさぎたちのイラストは私をあたたかく迎えてくれた。裏口の扉を猫背先生が開けてくれて、中に入った。
「おじゃまします」
病院の裏は、猫背先生の家になっていた。今日の新聞とか、朝ご飯の食べかけとか、干してあるパジャマとか、生活があった。私がなんとか生きてきたこの数年間、猫背先生にも猫背先生の時間があったのだな。改めてそれを知ると、時間のはやさとか怖さとか、不思議さを感じた。
「そこのクッションに座っていていいよ。今かき氷作ってくるから、扇風機つけてテレビ見て待っていてね」
「うん。ありがとう」
テレビはブラウン管で、扇風機の風力はとてつもなく弱かったけれど心が落ち着いて、私はここが天国なのかな。という気持ちになった。かき氷を待っているまでの間はただ純粋にかき氷を待っていられた。安心感に包まれて、それはまるで小さな頃に戻ったような感覚だった。台所からガリガリガリガリという音が聞こえた。テレビからは数年前に放送が終わったお昼の番組が流れていて、録画してまで見るなんてよっぽど好きなのだな、と思った。私も大好きだったから嬉しい。やっぱり面白くて、見入っていると、
「はい、おまちどおさま」
と猫背先生は言って、ひたひたにいちごのシロップがかかったかき氷がふたつ運ばれてきた。鼻を近づけなくともわかるいちごの香りは心を優しくさせた。いちごの香り、というよりいちごシロップの香り。ぱく。と食べると、これ以上ないぐらいに甘くて、くどいぐらいに甘くて、でもそれが大好きな味だった。あのころ猫背先生がいつもくれた、咳止めシロップみたいだった。
「なつかしい味がする」
「うん。なつかしいねえ。みかちゃんは、いちご味が好きだね。いつも、みかちゃんがうちに来るといちご味の飴がほしいって言っていたね。涼しくなったかな?かき氷食べたら、涼しくなるからね。暑くても大丈夫だから」
「うん。涼しくなった。ありがとう」
完食してしまうのは惜しくて、できるだけゆっくり食べたかったのだけれど、エアコンのついていない部屋のかき氷ほど賞味期限の短い食べ物はないのだった。液体になる前に、わたしはスプーンを走らせた。当たり前に頭がきいん、と響いて、途端、私はさっき猫背先生についた嘘は嘘であると言わなくてはいけないような気がしてきた。頭のきいんとした痛さは、嘘をついているから訪れたもののように感じた。こんなにやさしい猫背先生や、かき氷を前にしたとき、私はほんものでいたい。
「ねえ、猫背先生」
「なんだい、おかわりたべる?」
「うん。たべる、あのね、私さ、さっき、猫背先生に言ったことさ、本当じゃない。本当は頑張ってもないし、あんまり、楽しくない。猫背先生みたいなお医者さんにも、何にも、なれない」
そうやって早口で言うと、すこし怖くて猫背先生と目を合わせられなかったけれど、
「なあに、そんなこと」
猫背先生そう言ってニカッと笑って、私の透明の器を持って台所へ消えていった。ガリガリガリガリとまた音が聞こえて、いちごのシロップの香りがしてきた。
「はい、おかわり」
私がスプーンで二杯目のいちご味のかき氷をつつくと、猫背先生はにこにこしながら私に言った。
「なに、みかちゃんは頑張っとるよ。頑張ってないってみかちゃんが言ってもだからね。こんなに大きくなるまで、元気で生きてくれてたんだよ。頑張ってるよ。これからもみかちゃんは大丈夫。かなしくても、たのしくないときも、なんとかなるよ。みかちゃんなら大丈夫に決まっているんだから。こんなに元気でいてくれたんだからね。何にでもなれるに決まっている。かき氷食べたら、涼しくなって、げんきになれる」
にこにこ、ほんものの笑顔で猫背先生は私にそう言った。猫背のまま、私の肩を叩くように腕を上げたけれど、恥ずかしいのか、猫背先生は腕を下げて目をくしゃりとした。あんなに甘くて、甘くて、甘いかき氷はなんだかしょっぱくて、よくわからない味になった。けれど今まで食べたどんなかき氷よりも美味しくて、私は結局もう一回おかわりした。
一週間後、またあの甘くて優しいかき氷が食べたくなって猫背先生の病院に学校の帰り行ってみると、沢野クリニックという看板が外れていた。壁のイエローや水色は、ネオンのような発色はなく、淡い雲みたいな色をしていた。くまやうさぎたちは薄くなって消えかけていて、そこにいたことを忘れてしまいそうだった。裏口の窓の隙間から部屋を覗くと、真っ白な部屋に日差しが差し込んでいた。壁にはパジャマも何にも干していなくて、ただただ、私は差し込んでいた光を見ていた。夢。夢だったのかな。ほんとに?だって甘い甘いピンクのシロップのかかったいちご味を覚えてる。先生の笑顔を覚えている。
私は自転車をとばして家に帰るとすぐに、今日補習でやった英語の文章を復習した。それから、本棚の奥にしまっていた数学の問題集をやった。
院を開く場所はもう決まっているのだった。淡い壁の色は少しだけペンキで明るくして、壁の動物たちは絵の上手い大学で出会った親友のゆきちゃんにお願いして描き直してもらった。くまにうさぎ、キリンにぞう、たくさんの動物たちがこっちを見て微笑んでいる。大学へは、一年浪人して入った。こんなに必死になれるのか、と自分で驚くほど勉強して、隣の県の医大に入った。しばらく大きな病院で働いて、いつか自分の病院を持とうと思っていた。地元の沢野クリニックがあった建物が、まだ残っていると母から聞いたとき、すぐにそこで子ども病院を開くことを決めた。そのことに母も賛成してくれて、きっと猫背先生も嬉しいよ、と言ってくれた。私はこれからどれほどの子どもたちに出会うのだろう。私も患者さんに寄り添いたい。でもあまり寄り添ったら、猫背先生と呼ばれてしまうだろうか。少し呼ばれてみたいような気もする。でもきっと、あんな素敵な先生にはなれないのかもしれない。いや、なれるに決まっている、のかもしれない。いつかその子どもたちが大きくなって、この病院のことを忘れても、またいつか、思い出してくれたらいいな。シロップが甘すぎるかき氷を食べたときとか。そういう何気ない瞬間に、そっと思い出せるような、やさしい先生になろう。なれるに決まっている。
シロップと猫背 七十七 虹子 @onsen_uta
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。シロップと猫背の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます