言えないよ。

増田朋美

言えないよ。

その日も暑い日だった。どこかの地では、40度まで行ったところもあるらしい。静岡なのでそこまで行くことはないが、それでも立っているだけでも汗が出てきそうな、そんな暑さであった。そんなわけだから、エアコンも必要になるのだろう。家電販売店の広告には、最新型のエアコンのカタログがところ狭しと置かれている。

杉ちゃんと蘭は、いつもどおり、ショッピングモールで買い物を楽しんでいたが、蘭が時々ぼんやりとした、ちょっと痛そうだなという顔をするので、

「一体どうしたの。なにかあったの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「歯が痛い。」

蘭は答えるのであった。

「それなら、明日歯医者さんへ行って治してもらえば?」

杉ちゃんの答えはとても単純だった。他に余分な答えなど無い。無駄な言い訳もなく、ストレートにこうしたらというのが、杉ちゃんの答え方である。

「そうだねえ。だけど、歯医者さんというのは、どうしても、痛そうでいやな場所でもあるからねえ。」

蘭は、一般人らしい答えを言った。確かに、歯医者さんと言うところは、治療をするときの機械の音がなんとも言えない嫌な音でもあるのだった。

「そんな事言わないでさ。ちゃんと治してもらいなよ。そうしないと、うまいご飯も食べれなくなるぜ。それに、問題が大きくならないうちに対処しておくってのも、当たり前なんじゃないの?」

「そうだけど、、、。」

杉ちゃんに言われて、蘭は首をかしげた。

「細かいことは気にするな。とにかく歯医者さんに行けば治してもらえるんだから、それでなんとかしてもらってきな。」

一度答えを言ったら変えないのが杉ちゃんという人だった。なので蘭は、同じように意思を変えない必要があった。仕方なく、

「わかったよ。明日行ってくるよ。」

と、行った。それから二人はショッピングモールから出て、自宅に帰った。蘭は、自宅に帰ると、いつも行きつけの歯医者さんに電話してみたが、あいにく予約でいっぱいだったので、富士駅の近くにある、おおうち歯科医院というところに電話してみたところ、そこなら開いているということで、一時に予約をとらせてもらった。

翌日、しくしく歯が痛いのをこらえながら、蘭は、おおうち歯科医院に向かった。このときばかりは杉ちゃんがついていくことはなかった。それで良いと蘭は思った。杉ちゃんが一緒だと、また何か大騒動が起こってしまうので。

蘭が、おおうち歯科医院の玄関先で、タクシーからおろしてもらうと、歯科医院の玄関先に、一人の若い女性が立っていた。まだ、年は20歳前後の、まだあどけない雰囲気がある女性である。いや、そのように見えてしまうのかもしれない。ちょっと幼そうな感じの女性でもあったので。服装は、紺色のカットソーを着て、普通に黒色のスカートを履いているが、どこかおかしいのだった。こんな真夏の時期には、ちょっと暑苦しすぎるのではないかと思ってしまうほどである。蘭は、不思議に思って彼女に声をかけてみた。

「あの、すみません。ここで何をしているんですか?僕は一時に予約しましたけど。」

「あ、あの、すみません。」

そういう彼女であるが、右手で口元を隠しているところから、なにかわけがあるんだなと蘭はすぐに感じ取った。

「なにかわけがあるんですか?」

と、彼女に聞いてみる。それと同時に、おおうち歯科医院の玄関ドアががちゃんと開いて、受付の人だろうか、中年女性が現れた。

「あの、魚住さん、魚住めぐみさんでいらっしゃいますね。姿を見せないものですから、おかしいなと思っていました。先生がお待ちですよ。お入りください。」

受付のおばさんは、なんだか不愛想で、冷たい感じの女性だった。

「ごめんなさい。私、やっぱり。」

そういう彼女に受付のおばさんは、

「だって予約をしたのはそちらではありませんか。今更変更はできませんよ。さあ早く第一診察室へお入りください。」

と強引に彼女を入らせようとした。

「ちょっとまってくださいよ。彼女はなにか悩んでいるようではありませんか。それを、聞いてあげるのも、医療関係者の勤めであると思うのですが?」

蘭は、急いで受付の人に言った。それを見た女性の顔が、また変わる。

「僕は、怪しいものではありません。ただの刺青師です。ですが、そういう困っている人を、たくさん相手にしましたので、放って置くことはできませんね。えーと、名前は確か、魚住さんと仰っていましたよね。歯医者さんは怖いところではありません。大丈夫です。中に入りましょう。」

蘭がそう言うと、彼女は、涙をこぼして、泣き始めてしまった。それで、口元に当てた手が、そこから離れた。蘭は、その口に、歯が一本もないことを、わかってしまった。

「ああ、そういう事情がお有りですか。それなら、一刻も早く、見てもらったほうがいいですよ。やっぱり歯がないと、食べ物を食べるときに困るでしょう。それは、不便でしょうから、ちゃんと、歯医者さんと相談して、インプラントするなり、入れ歯にするなりしてもらってください。」

蘭は優しく言った。

「私、、、。」

そう言いかけて泣き出す彼女に、

「大丈夫です。歯医者さんだって医者ですから、重い事情を抱えた方だって相手にしなければなりません。あなたのような、事情を抱えた人でも、すぐ見てくれると思います。大丈夫です。」

蘭はできるだけにこやかな顔をして、彼女にそういった。

「ご、ご、ごめんなさい、車椅子の人にそんなことを言っていただけるとは思いませんでした。だって私は、悪いことをしたんですよ。それで、自分でなんとかしろって言われたんですよ。それで、ここでなんとかしてもらおうなんて、虫が良すぎますよね。」

「虫が良すぎるほど悪いことをしたんですか?」

彼女に、蘭は聞いた。

「ええ。やってはいけないってことはわかってます。ですが、どうしても食べられないんです。食べなくちゃいけないことはわかるんですけど、どうしても食べられなくて。それでは、行けないですよね。悪いことですね。人間は食べなくちゃ生きていけない動物なのに、それをしないんですから、すごい許されない罪です。この罪は許されるでしょうか?」

そういう魚住めぐみさんに、蘭はしっかり頷いて、

「大丈夫です。結局のところ、ゆるすのが出来るのは、人間だけだと思います。人間は、叱ることもできますが、ゆるすことも出来る動物だと思います。」

と言った。罪という言葉を使うところから、もしかしたら、彼女はクリスチャンなのかもしれない。

「だから、ちゃんと事情を歯医者さんに話して、話を聞いてもらいましょう。そして、入れ歯をするとか、そういう処置をしてもらいましょう。そうすれば、あなたもまた、食べることが出来るようになりますよ。」

「本当に信じてくれるでしょうか?入れ歯なんて、お年寄りがするべきことって、笑われるかもしれないですよね。」

魚住さんは、恥ずかしそうに言った。

「まあ、言われる可能性もありますよ。それは認めます。ですが、あなたはそうしなければ、ご飯を食べられないのですし、他に手段も無いでしょう。それこそ、食べないでいたら、あなたの罪も重くなるし、ましてや命まで危なくなるかもしれないんです。そうならないために、歯医者さんに相談しましょう。」

蘭はにこやかに笑って、彼女に言った。

「ありがとうございます。あの、刺青師の先生と仰ってましたよね。申し訳ないのですが、話を一緒にしてくれませんか。一人で入れ歯の相談に行くのは、ちょっと怖くて。入れないんですよ。」

そういう彼女に、蘭は自分の歯が痛いのを忘れて、

「わかりました。じゃあ、僕も一緒に行きます。」

と、言って、彼女、魚住めぐみさんに、歯医者の中へ入るように促した。受付のおばさんは、全く拒食症なんて甘ったれなという顔をしていたが、蘭は、そんな事気にするなといった。二人は、受付のおばさんの案内で、第一診察室へ入った。

「はじめまして、院長の大内秀樹と言います。よろしくおねがいします。」

と、歯医者さんは、にこやかな顔をして、蘭と魚住めぐみさんを見た。マスクをしているけれど、とてもにこやかな顔をしているのがわかる。

「本日初診の方ですね。本日悩んでいることをお話ください。」

歯医者の大内秀樹さんは、そう言ってくれたが、

「ごめんなさい。私。」

と、彼女はどうしても言えなそうな顔をしていた。

「ええ。彼女は、長らく拒食症を患っているようです。それで、歯が抜けてしまって、本日は、入れ歯を作って欲しいということで、こちらにきたそうなんです。」

こういうとき男性はいい存在だった。女性というとどうしても恥ずかしくて話せないが、男性であれば、すぐに話しが出来る。

「そうですか。それは大変ですね。それでは、総入れ歯にすればいいのでしょうか?プラスチックの入れ歯であれば保険で作ることができますが、金属の入れ歯は対象外になります。ただ、食べ物の味などは、金属のほうが感じやすいということも確かでして。どちらをご希望ですか?」

大内秀樹さんも、優しそうに言った。それを聞いて、めぐみさんは大いに驚いてしまったようだ。

「大丈夫ですよ。そういうことで、うちへ来てくれた患者さんは他にもいましたからね。ちなみにその方も、歯が全部抜け落ちてしまったようですが、入れ歯のおかげで見事に立ち直ってくれました。あなたもそうだといいな。」

「本当に、いいんですか?」

と、めぐみさんは言った。

「ご飯を食べられないというのは、いけないと思ってたのに。」

「そうかも知れないけど、まずはじめに歯がなければ食べることはできませんから、どうしたら食べることが出来るようになるかを考えましょう。そのためには入れ歯が必要です。それには年齢も何も関係ありません。」

大内先生は、にこやかに言った。必要なことしか言わないのも、ある意味大事なことであった。

「ごめんなさい、私、保険でなんとかできる方しかできなくて。」

「わかりました。では、入れ歯を作るに当たって、ちょっと口の中がどんな感じなのか見せてくださいね。」

大内先生に言われて、めぐみさんは診察席に座った。大内先生は、恵さんの口を観察して、ハイ大丈夫ですよとだけ言った。

「確かに、歯が全部抜けてしまっていますね。でも、大丈夫です。現在は総入れ歯はすぐにできますので、そうすればまた食べられるようになります。」

「本当ですか?」

「ええ、もちろんです。歯があるということは、結果的にそうなるということですからね。じゃあ、入れ歯の型を取りますから、しばらくこちらに通ってもらうことになりますがよろしいですか?」

大内先生にそう言われて、めぐみさんは、ハイといった。大内先生はとりあえず今日は、ここまでにしましょうと言って、彼女にもう帰ってもいいと言った。彼女は診察席から降りて、ありがとうございましたといった。そして、蘭の方にもありがとうございましたと丁寧に頭を下げた。

「いいえ、大丈夫ですよ。それより早く、食べることの喜びを感じられるように祈っております。」

と蘭が言うと、また例の受付のうるさそうなおばさんが出てきて、蘭に第二診察室へ来るようにといった。蘭は、わかりましたと言って、第二診察室へ言った。この歯医者さんでは、治療席が一つ一つの部屋に設置されているらしい。それはある意味ではプライバシーを保護するためでもあるのだろう。蘭が第二診察室へ入ると、ちょっとぶすっと女性の歯科医がいて、症状はなにかと聞いた。蘭が昨日から歯が痛いのだというと、彼女は、ちょっと見せてくださいと言って蘭に口を開けさせた。蘭がそのとおりにすると、

「確かに虫歯ですね。でも、あまりひどい虫歯ではありませんから、大丈夫ですね。じゃあ削って、詰めましょうか。」

とやはり必要なことだけ言って、蘭の虫歯をあのうるさい機械で削ってくれて、ちゃんと詰め物を詰めてくれた。解決するのには、一時間程度で終わったが、蘭にしてみたら、何も説明もなく、何をするのかも教えてくれないので、嫌な感じの女性歯科医だなと思った。

「はい、じゃあ、一度で大丈夫ですよ。薬もいりませんから、お大事にしてください。」

そう言われて蘭は、急いで第二診察室を出た。また待合室に戻ると、先程の魚住めぐみさんがいた。

「どうしたんですか?もうとっくに帰ったと思ったんですが?」

蘭が彼女にそう言うと、

「いえ、先生がせっかくお手伝いしてくれたので、お礼をしなければならないと思って、ここにいました。先生、タクシーでしょ。もしよろしければ、私と割り勘しません?先生は、富士駅までですよね?それとも他のところですか?」

と、めぐみさんは明るく言った。

「ああ、ありがとうございます。じゃあ、田子の浦の、入道樋門公園のバス停で降ろしてもらおうかな。」

蘭がそういうとめぐみさんは、わかりましたと言って、すぐにタクシー会社に電話した。

「すぐ来てくれるそうです。五分だけ待ってと。」

「ありがとうございます。」

蘭は、ちょっと照れくさそうに言った。待っている間に蘭は、あの無愛想な受付に、診察料を支払って、丁寧にお礼を言った。受付のおばさんは、無愛想な顔で、お大事にしてくださいと言った。そうこうしているうちに、タクシーがやってきた。蘭は運転手に頼んで、タクシーに乗せてもらい、入道樋門公園のバス停で降ろしてくれと頼んだ。その後で、めぐみさんも乗った。タクシーは静かに動き出した。

「本当に先生、今日はありがとうございました。先生がああしていってくれなかったら、私、踏ん切りがつかなくて、いつまでも、入れ歯を作れないでいるところでした。」

と、彼女はそう言っている。よほど嬉しかったのだろう。

「いえいえ、大丈夫です。誰でも嫌な事というか、話したくないことはありますよ。なぜ拒食に陥ったとか、そういうことは話したくありませんよね。僕も、足が悪くなった理由は話したくありませんし。」

蘭がそう言うと、彼女はハイといった。

「でも、恥ずかしがることじゃないと思います。だってあなたは、きっと純粋な気持ちで生きて来たから、そうなってしまったんでしょうし。それは、仕方無いというか、あなたはそれしかできなかったんだから、それを責めることでも無いと思います。それよりはやく入れ歯が完成するといいですね。それは、きっと良くなるための、一つの道具になるでしょうから。先生が、割と簡素な方で良かったじゃないですか。あの受付のおばさんは、ちょっと嫌だったけど。」

「そうですね。」

彼女は、照れ笑いをするように言った。

「でも、先生が、私の事を許してくれるって言ってくれたのが嬉しかったです。だって、家族からは、あまりにも食べないと勘当だって言われたりしぃたこともあったんですよ!」

「それはまた随分、古い考えを持っている方ですね。そうなると、かなり辛かったのではないですか。働かざるもの食うべからず的なところがあって。」

蘭はそう言ってみた。

「ええ正しく図星です。だけど、入れ歯を作るとなるとなんか年寄りみたいで恥ずかしかったんです。」

「その気持もわかりますよ。確かに入れ歯というと、年寄がするものと定義されていますからね。ですが、僕だって、歩けないで車椅子に乗っているわけですから、それと同じだと考えればいいんじゃないかな。人間色々考え方があるけれど、別の考えを持つこともできますよね。いや、持たなくちゃならないときだってあると思うんですよね。」

「ありがとうございます、、、。」

彼女、魚住めぐみさんは、涙をこぼして泣き出してしまった。杉ちゃんであれば、そんな事している間があったら、なにか新しい手立てを考えろとか、そういうことを言うんだろうが、蘭はそれはしなかった。言えないというわけではない。それは、あえて言わないのだ。

「だって言えないじゃないですか。私は、もう食べ物を食べられなくなって、もうこうして歯もなくしてしまいました。それで、総入れ歯に頼らなくちゃならないなんて、こんなに恥ずかしいことは無いって、母や他の家族がそう言ってるんですよ。本当に私、なんでこんな変なことをしたんだろうって、歯がなくなってから思うんですよ。恥ずかしいですよね。」

「いや、恥ずかしくありません。それを言うなら、歩けなくなった僕のほうが恥ずかしいです。だって車に乗るのだって、いちいち介助を付けてもらわないと乗れないんですよ。人手を借りなければ日常生活ができないことほど、恥ずかしいことは無いですよ。」

蘭は、めぐみさんの発言を打ち消すように言った。

「それに、考えを変えれば、素晴らしいことになるかもしれませんよ。人間、できなくなったことで、出来ること以上の幸せを得ることが出来ることもありますからね。例えば、足を失って、歩けるときの幸せが失われた場合、そうならないように、周りの人に警告するようになれますよね。それは、失った人でなければできないことですよ。それを出来るのも、またすごいことじゃないですか。だから、あなたもあまり自分のことを卑下なさらないでください。それより、早く入れ歯ができて、またものが食べられるようになる喜びを持ってください。」

「はい、ありがとうございます。」

めぐみさんは、嬉しそうに言った。

「それからね、あなたの問いかけにもう一回お答えしたいんですが。あなたさっき、この罪は許されるのでしょうか?と聞かれました。それ、僕が答えるとしたら、こう答えますね。許されることではないのかもしれないけど、その経験を話すことはきっと出来る。だから、いつまでも自分を責めてはいけません。」

「ありがとうございます。」

めぐみさんは、歯のない口を動かして、にこやかに言った。

「私も、この経験を活かせるように頑張ってみます。」

それと同時に、タクシーが、入道樋門公園入口のバス停の前で停車した。めぐみさんは、蘭を、おろしてくれといい、運賃は私がまとめて支払うとにこやかに笑っていった。



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言えないよ。 増田朋美 @masubuchi4996

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