第四章 海の底に眠るモノ⑦

海の底には何がいるのだろう。

そんなところに何もいるはずないではないか。


海の底は光が届かず暗闇が広がっている。だから何も見えない。

町人は言う。

「海の底を見てはいけないよ」

誰も見ることがないように何度も何度も念を押し、他の人に伝え続けるのだ。

海の底には何もいないということを事実として残すために、町人はこのように口を開くのである。たとえそれが嘘であったとしても、町人にとって真実であると彼らは刷り込もうとするだろう。

何もいないから見る必要がない。視線をそこから外させるために、彼らは嘘を真実と偽ろうとさえするのだ。そこまでしようとする理由がどこにあるというのか。




見てはいけない。それは禁止を示す。

見るべきではない。それは不必要を示す。

見るな。それは拒絶を示す。

見ないでほしい。それは願望を示す。




彼らの伝えたかったことはどれなのだろうか。




本当に、海には何もいないのだろうか。

今日もその海では行方不明者が後を絶たない。きっと、魅せられて何処からかやって来た愚かな誰かを呑み込んだのだろう。悲鳴は波音と共に掠れて消えていった。

それも海の話としてはよくあるものである。







ある時、由実は研究所の知り合いに尋ねたことがあった。

相手は所内でも古参に当たる老紳士。彼は由実が初めて研究所を訪れた時に話し相手となった所員でもあった。穏やかな性格もあって、彼女と彼の付き合いは女子高生と副所長という立場になってからも変わらず続いていた。

彼女たちが親しい付き合いを続けているのには理由がある。まず、この老紳士は由実と同じ島の出身者であった。今でこそ完全に町へと住居を移してしまっていたが、彼の実家は海を挟んだあの島の村にある。

長年故郷へ帰れない者同士、彼と由実には通じる想いがあった。

そしてもうひとつ、彼は由実の父親の友人であった。友人と言っても彼と父親の年齢は十以上離れている。それでも村の中では近い方であった。

二人は島で兄弟のように過ごしていたそうだ。もちろん由実はそれを見ていたわけではない。

彼女は老紳士の口から当時の話を聞くことが楽しかったのだ。今は会えない父親の幼少時代。両親の馴れ初め。町にある研究所への就職。

彼から語られることは思い出話だけに尽きなかった。悪天候による村の飢饉。厳しい村の生活。島から出ていく若者と出ていけない老人たち。海を隔てた先にある町という希望。

始まった大きな戦争。開戦のラヂオ放送を聴いた日のこと。

終わらされた大きかった戦争。戦の火は命を喰らっただけだった。

研究所の副所長という立場から見た歴史たちが語られた時、由実はどう思ったのだろうか。

何も思わなかったのかもしれない。だが、幼い彼女なりに何かは感じたのだろう。

それは時が流れても繰り返し研究所を訪れ、海の先の島を見続ける彼女自身の行動に表れている。


そんな見知った老紳士に、由実は噂について尋ね聞いたことがあった。


「先生。外の人たちが話してるあの噂って、本当なんですか?」

「あの噂って何のことだい?」

「あれです。何にもいない海とかっていう」

「おお、あれかあれか」


老紳士は所内では先生と呼ばれていた。

所長は大先生、副所長は先生。所員はみんなそう呼び、一度は必ず直接の指導を受けるのである。

由実が研修で初めて学生として研究所の扉を潜ったとき、老紳士は既に副所長としてそこに在籍していた。


「君も知っておるように、この海にはもう何もおらん。ほれ、数字としても記されておるしな」


そう言って彼は何度も見た資料を目の前に置いた。


「そう、ですよね」


目の前に置かれた資料を見つめながら、由実は納得した。その資料を読んだのは百回では足りないほどだった。だから、開かなくても中に何が記されているのか、彼女は解っていた。

ましてやこの老紳士は人生の大先輩である。そんな人が言うのだから、間違っているはずない。由実はこの噂について考えることはもうやめようと思った。

そして、老紳士もまた彼女に他の町人と同じことを言うのである。


「だからの、由実ちゃん。あの海の底だけは見てはいかんぞ」


底に、何があるというのだろうか。


「おじいちゃん先生」


古くからの呼ばれ方に戸惑いながら、由実は老紳士を見つめた。

父親の兄のような存在である彼を、由実はいつからか親しみを込めて先生と呼ぶようになった。町に一人で残された時、彼は由実に家族のように思ってくれていいと、もっと頼ってくれていいのだと由実に言った。その時から彼は由実にとって「おじいちゃん」であり「先生」となったのだ。

そして、老紳士はずっと由実を正しい呼び方で呼び続ける数少ない「家族」となった。彼には子も孫もいない。妻は早くに亡くし、島の墓地で眠り続けている。

互いに寂しかったのだ。だからこそ距離を縮め、唯一の友人となった。

二人の間には隠し事はないはずだった。




彼はもう一度言った。


「底だけは、見てくれるなよ」




底に、一体何があるというのだろうか。

見て欲しくない何かが、あるというのだろうか。




由実は頷くことしかできない。




窓から入る海風には、ほんのわずかな血の匂いが混ざっていた。

目の前の男性からも、同じ匂いがした。

それも、いつものことだった。

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