第四章 海の底に眠るモノ⑥

足が、そこへ触れた。




底に積もった骨に触れた。

そのはずだった。




生臭い臭いがした。海の中なのに、由実の何かはそれを感じ取った。

硬い骨のはずだった。それなのに、足に触れた物は酷く柔らかかった。

彼女はそこに立つことができなかった。足はなおも沈み続けた。肉に呑み込まれるような気持ちの悪さを感じた。

目に映っている物は確かに骨のはずなのに、体が感じている物は全くの別物だった。

彼女は違和感に眉を寄せた。視線は何か埋まってしまった自分の足に向けられ続けた。膝から下は、既に呑み込まれてしまっている。


「やだ」


彼女の体はまだ沈み続けた。

この海は底無しなのか。彼女は抵抗した。


「やだ!」


夢から醒めるようにと、強く声を発した。夢の中だから水の中でも声は響くのだろう。彼女の悲鳴は水を震わせた。

水面が波打った。

それは次第に大きくなって、海を荒立たせた。







波が、やって来る。







何かを連れて、静かに波が海を渡ってやって来る。







その波はあっという間に水面を通り過ぎていった。

由実はそれを海の底で見ていた。

波はその海を変えていった。青く透き通っていたはずの水は赤黒くなり濁った。骨が堆積した海底を巻き上げた。泥と砂と骨粉と、更にその下に隠されていた何かを掻き回した。

彼女の目の前は真っ赤に染まっていった。そこはもう海ではなかった。

骨から削ぎ落とされた肉が舞った。肉屋に並ぶ、鮮やかな桃色の肉たちだった。

臓器がばらばらと舞った。生物の授業で行った解剖の実習を連想させた。

視界の所々に赤くないものが見えた。それらは骨や歯の白であったり、髪の黒であったり、皮膚の一部や眼球のよくわからない色であったりした。

中には魚の鱗やヒレも混ざっていた。本来なら海で生きる生き物たちが、人の死体と一緒になって舞い上がった。


それは、酷く吐き気のする光景だった。




海に生きる生物の死骸が海に還ることは自然な摂理である。しかし人はどうだろうか。

全ての生物は海からやって来て、海へと還ると言われる。それは生物的な発生での考え方だ。

彼女が見ているように、物理的に「海へかえる」とは意味合いが異なる。人の死体は海へ入れない限り海へと戻ることはない。

由実の知る限り、自分の生きる町でそんな弔い方をするなど聞いたことがない。海に死体などあるはずがないのだ。


だって、海には何もないはずなのだから。

だって、海には何もいないはずなのだから。


そう町人たちは信じてきた。信じて子に、孫に教えてきた。


信じたから、誰も確かめようとしなかった。

彼らは海から遠ざかったのだ。そこにいる何者かの気配に怯え、海の底に沈んだ者たちから目を背けた。




由実は赤い夢の中を沈んでいった。

深く、深く沈んでいった。







その途中、由実は見知った顔がその世界の中を漂っていることに気がついてしまった。




誰かと口を開く前に、彼女はその夢から現実へと浮かび上がった。







由実はその夢を覚えてはいなかった。もしかしたら、これまでも何回か見ている夢なのかもしれない。その度に彼女は夢に見た海の底を忘れようと記憶の底に沈めるのだ。


海の方から波の音が響いていた。

由実は聞こえないように窓を閉めた。


岩礁を囲う注連縄に付けられた紙垂が、跳ねた塩水に濡れながら靡いていた。

一瞬だけ、岩の下部が露になった。

いなくなった青年の体の一部が引っ掛かっていた。

すぐに潮が満ち、それは再び隠されるのだろう。

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