第四章 海の底に眠るモノ④

海の底には何があるのだろうか。

由実や他の町人たちが思うのは一度や二度のことではない。しかしその度に「見てはいけない」とも思うのである。

潮が引いていく時、それと一緒に足を沖に向かって踏み出してしまいそうにもなる。では、その先は?

永い時間を何もいない海と過ごしてきた町人にはわかるのだ。何もない先に向かったって自分もいなくなるだけだと。

幾人も町の外から人がやって来た。そしていなくなった。海に惹かれ、海に沈んだのだと彼らは思う。

自業自得だ。町人たちは見てはいけないと言っているのに、それを守らない外の人たち。可哀想だと思っても、町人たちはそんな余所者のために教えを破ることはしなかった。







由実はある夜、夢を見た。

海に沈んでいく夢だった。




海水浴など覚えていない。それなのに、その夢の中では由実は自由に海の中を泳ぎ回っていた。

太陽の光が反射する水面を通り抜けた。自分と同じように通り抜けた光がカーテンとなって頭上から降り注いでくる頃には、彼女の足はもう地面へは着いていない。

由実は上を見た。ゆらゆらと揺れる波を下から見上げた。

海猫が一匹頭上を駆けていった。ご希望の魚はいなかったらしい。どこかへするりと去っていった。

知らない魚が目の前を横切った。店にも並んだことのない魚だった。その後ろを大きな魚が追いかけた。魚屋の主人が煮物にするとおいしいよと教えてくれた魚だった。

由実は息を吐き出した。吐き出した空気は泡となって浮かび上がっていった。お伽噺の人魚姫はこんな気持ちだったのかな。子どもたちに読み聞かせた絵本を思い出した。


その海はとても賑やかだった。数えきれない魚たち。すいすい滑るように泳ぐ大きなカメ。地面を這うヘビはそこではリボンのように靡いていた。またヘビだと思ったら、そっくりな海藻だった。

見たこともない海はどこか懐かしく、それでいて彼女には遠い異国のように感じられた。


ふと声を思い出した。


「海の底は見てはいけないよ」


母の声だった。


なんで見てはいけないのだろう。何を、見てはいけないのだろう。

海の底に、何があるというのだろう。


「なんで? お母さん」


普段だったら聞き返すことなどしない。しかし、その海は由実を幼い頃へ戻してしまった。

何も知らず、無垢な笑顔で残酷なことを口にする。彼女は夢の中ではただの幼い少女であった。母親に我儘を言い、困らせることが日常茶飯事であった幼い子ども。

だから、彼女は疑問に思ってしまった。疑問に思い続けていたことの答え合わせを、夢の中でしてしまった。


由実は海の底を見た。


世界が書き換えられる瞬間があるというなら、まさに今なのだろうと彼女は痛感した。

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