第四章 海の底に眠るモノ②
都会からふらりとやって来た青年はそれを見た。
水面には色鮮やかな魚たち。どこにでもいる貝も、小さなカニもそこには写っていた。
ゆらゆらと小さな海藻が小石に引っ掛かっている。ヤドカリが宿である巻き貝から顔を出している。
「なんだ、いるじゃないか」
期待外れだと青年は吐き出した。
どこにでもある普通の海。それが彼の目に映った。
「噂はただの噂かぁ。探して損しただけだったな」
砂浜の石を一つ掴んで、彼は海に向かって投げた。石はそれほど遠くに飛ばなかった。石は海の中へ飛沫をあげて飛び込んでいった。
「今度こそバズると思ったんだけど」
青年は海に背を向けた。もう興味は失せたと言わんばかりに。
後ろからボチャンと、石が水に落ちる音がやけに大きく彼の耳に残った。投げた石が落ちる音としては大きすぎるのではなかっただろうか。
潮風が青年の人工的に染めた金髪を撫でていった。風が強い。波音が大きくなった。
それなのに、石が海に落ちた音は明確に彼の耳へと届けられた。まるで、それだけしか聴こえなかったかのように。
青年は振り向いた。青い空、白い雲。夏の暑い昼下がり。何も変わらない、どこにでもある海。
何もおかしいことなどない。おかしいことなどあるはずがない。青年は思った。
彼の耳には石が海に落ちる音がやけに大きく残っていた。石が、海に落ちた音。
ボチャン、と。石が。
「なんか、違くない?」
もう波の音など彼の耳には聴こえていなかった。思い出したのは学生の頃のプール。プールに飛び込む学生たち。学生たちが水に飛び込んだ時の音。
ぼちゃん、と。人が。
人が、水に落ちる音。
急に息苦しくなった。体に錘が付けられたかのように、重くなった。そうだ、水の中にいるかのようではないか。
誰が。自分が。
落ちたのは石だっただろうか。投げたのは石だっただろうか。
青年の意識は朦朧とし始めていた。ついさっきまで自分がしていた行動を思い出せない。本当に自分は海に向かって石を投げたのだろうか。投げたのは、別の何かではなかっただろうか。例えば、もっと近い大きなもの。
彼は心もとない足取りで波打ち際へと向かった。そして、再度その水面を覗き込んだ。
海はもう波の音さえ立てていなかった。青年が踏み荒らし砂浜へつけた足跡も綺麗に均されて、来訪者の痕跡が掻き消されていった。
水面に写るものはさっきと変わらない游ぐ魚たち、貝、小さなカニ、海藻、ヤドカリ。どこにでもある海の姿である。
「なんだ、気のせい、か」
途端、青年の身体は強張った。
何かが違う。気づきたくない何かを彼の頭は認識し始めていた。
波が足下を掠めていった。何かがおかしい。彼はやっとそこで気がついた。
波が水面を揺らしている。揺らしているのに、彼が見ているものは全く動いていなかったのである。
写真か絵が貼り付けられた水面が、彼の視界には映っていた。同じ位置から動かない生き物たち。エラは閉じることなく開きっぱなし。カニもヤドカリも不自然な位置、ポーズで止まっている。
今彼が見ているものは海中を映したものではないのだろうか。写したものだろうか。どちらにしても、何かがおかしい。不自然なものだった。
彼は気づいてしまった。気づいてしまったから、目の前の海は違和感で塗り潰されてしまった。
海鳥の鳴く声は聴こえていただろうか。こんなにも海という場所は静かだっただろうか。
足下からゾクゾクとした寒気が這い上がってきた。暑いはずなのに鳥肌が立ってきた。
遠い都会からやって来た青年は一歩踏み出した。海の深い方へと、踏み出した。
写っていたものは瞬く間に掻き消えた。彼の顔が映っていた。
波が緩やかになった。
海の底がよく見えた。
『海の底は見ちゃいけないよ』
その町の誰かが言っていた気がする。今さら、彼は思い出した。
彼が見た海の底には骨が敷かれていた。
真っ白な骨。その中には魚とは思えない形のものもあった。
髑髏。人の頭の骨だった。
その海には何もいなかった。生きているものなどいなかった。
青年は悲鳴をあげる間もなく後ろへ倒れ込んだ。尻が冷たく濡れていく。
「やば、なに、これ」
青年は海から離れようと、水から這い上がろうとした。視線は海の底に釘付けであった。もう逃げられないほどに。
動かそうとした足を動かすことはできなかった。体全体が水に呑まれたかのように重かった。
「見ちゃいけないって言われてたのに」
女の子の声が聴こえた気がした。どこかで聞いた気のする声だった。
「ご、め、んな、さ、い」
青年は後悔した。人の話を聞かなかったことを。噂を信じ、軽い気持ちで出掛けたことを。
全ては遅かった。彼はしてはいけないと言われたことをしてしまった。
足が何かに引っ張られた。浜へ戻りたいのに沖へ引っ張られる。
青年はやっと覚った。もう帰れない。
つい先程まで見ていた水面が目の前を通り過ぎ、とうとう青年の頭が海の中へ呑み込まれた。
ぼちゃん、という音と共に、青年はいなくなってしまった。
浜辺に置かれた荷物からは着信音が鳴っていた。液晶の画面には小杉の名前が表示されていた。
誰も出ないまま、やがてその音も鳴り止むだろう。浜辺には再び波の音だけが打ち寄せてくる。
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