海のそこに沈むひとたち

第四章 海の底に眠るモノ①

その海の底は見てはいけない。彼らは彼らの親から、親はその親から聞かされ続けた。

海では遊ばない。海水浴など決してしない。彼ら町人はいつからか、そうやって暮らすようになった。

それは誰かに決められたことではなかった。しかし彼らはそれを信じ守り続けた。

底を見てはいけない。海の底を覗き込んではいけない。なぜかと考えることはなかった。なぜなら、底を見ても何もないと知っていたからだ。

その海には何もない。生き物なんて何も棲んでいない。

だから見ない。見てはいけない。

彼らの答えは決まっていた。決まった答えが用意されていた。用意されているのにあえて答え合わせをする必要なんてない。

町人が海の底を見ることはなかった。


町人は見ない。しかし町の外からやって来た余所者はどうだろうか。

「何もない海」に興味をひかれ、わざわざ遠方からやって来た彼ら。彼らが欲しいのは「いる」「いない」の答えではなく、「こんな海が本当にあった」という証明と自慢話である。

彼らは町で海の底を見てはいけないと言われていることを知らない。底に何があるのか見ようと覗き込み、潜るのである。




ある夏にやって来た若者もそうだった。夏休みの終わりの暑い昼下がり、灯台の下で由実に話かけてきたあの青年のことである。


青年は由実たちと別れた後、砂浜へ向かった。灯台の立つ岬から伸びた階段を、青年は荷物を持って下っていった。

ビニール一枚、空き缶の一つも落ちていない真っ白な砂浜だ。真っ白で、生き物のいない砂浜。その海と同じように、生き物のいない場所である。

その砂浜へ彼は汚れた足で踏み入り、荷物を捨てるように投げ置き、静かに打ち寄せられる波際まで足跡をつけた。

海という場所を愛する者なら感じたであろう異常な静けさは、上辺だけの付き合いしかしてこなかった彼には無意味であった。ただ注連縄で囲まれた岩が、水面に顔を出しながらそんな一人の青年を見ていた。

彼は無遠慮に水面を覗きこんだ。本当に生き物がいないのか確認するためである。

その頭には町人たちが噂する話など残っていなかった。海の底を見てはいけないという噂を、彼はその町で何度か耳にしたはずだったのにほとんど記憶に残っていないのである。まるで聴こえていないかのように。

彼はこの町に来て誰と出会ったのか。誰とも出会わなかったのではないか。覚えていないだけなのか。


彼は揺らぐ水面を覗き見た。

海鳥の鳴く声さえ浜辺にはさざめかなかった。

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