第三章 灯が照らしたもの⑥
由実がいる町には海が常に寄り添っていた。遠くからやって来た波が砂をさらい、去っていく。
とても綺麗な海だった。
しかし、何もいなかった。
その海にはもう、生き物を見ることはできない。
町に住む人たちは知っている。あの海にはもう何もいないのだと。
その話がどこから広まったのか、外からやって来た人は町の海を何もない、何もいない海だと呼び出した。
そんな海など存在するはずがない。興味を掻き立てられた余所者は毎年ちらほらと町へとやって来た。そしてそこの住人に尋ねるのだ。
「何もいない海ってこの海のことですか?」
聞かれた住人は皆揃って同じように言う。
「知りません。ですが、外から来た人はみんなそう言いますね」
町の住人らにとってその海は「何もいない海」であり、そうではなかった。
では、町にいる人にとってその海はどのように伝えられてきたのか。
「ねえ、井ノ上さん。ここの海ってさ、噂のあの海かな?」
小杉は今日も由実と少しでも会話をしようと、他愛もない話題を彼女へと投げ掛けた。彼女はいつものように答えた。
「知りませんけど」
彼女は興味がないとでも言うように、淡々と彼に答えた。
町の住人がどう思っていたかは知りようもないが、実のところ由実はこの質問に対して興味がないわけではなかった。
何もない海。何もいない海。
自分の見ているこの海は異常なのだろうか。その疑問は外から来た余所者の口から泡のように吐き出される度に浮かび上がってきた。そしてその度に沈んでいった。
確かにその海には何もいないのだろう。町に住む人はそう思っていた。しかし、それを誰も確かめようとはしない。
町人にとってその海は「何もいないだろう」海であったのだ。ではなぜ「だろう」と思われているのか。それは、町には別の話が広がっているからである。
「海の底は見てはいけないよ」
町人であればこう言うであろう。
見てはいけない海、と。
波がゆっくりと引いていく。
真っ白な砂が一瞬だけ姿を表した。
また、すぐに波が押し寄せて来た。さっきよりも大きな波だった。
そこにあったはずの砂は流されて、もう何処かへ行ってしまった。
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