第三章 灯が照らしたもの④

ここしばらく、由実は海に程近い馴染みの研究所で手伝いをすることが多かった。彼女が所属する高校で課外授業の時間が増えたからである。

学校と研修先から許可を得られれば自由に校外での活動ができる。由実以外にもそのような生徒は多くいた。大半がただの時間潰しではなく、将来の就職を見越しての活動であった。

由実は町から外へ出るつもりはなかった。大人になっても町の中にあり続けたいと、彼女は心から望んでいた。それは、もう故郷である島に帰れないという諦めの裏返しであったのかもしれない。


帰りたい。

帰れない。


だからせめて町の中でも島に近い場所にいることを彼女は望んだ。それが海のすぐ近くにある研究所であった。


研究所の中には由実の顔見知りが数多くいた。まだ両親と訪れていた頃からいる職員や、幼い彼女に展示室に並ぶ説明を読んで聞かせた職員、いつ禿げるか賭けの材料にされている白髪の老人所長、そして最近Uターンで外の町から戻ってきた職員見習い。

由実は特に年齢も近く同性だということから、この職員見習いと仲が良かった。


その年には、次の年に正式採用される予定の職員見習いが二人いた。その内の一人が由実と昔から仲が良い松村であった。

松村は由実の先輩として先に高校を卒業し、町の外にある地方の大学へと進学した。

卒業を控えた彼女は就職活動で再び町に戻り、そこで由実と再会したのであった。

松村は昔から気さくな性格で物事にはそれほどこだわらなかった。だから、由実が世話を焼く姉弟のことを知っても一言も大変だとか可哀想などとは言わなかった。

研究所での勤務が半日で終わる日などは由実に代わって姉弟の面倒をみることもあった。普段はコピーした料理のレシピをファイルに綴じて由実の学生鞄によく捩じ込む姿が見られていた。

彼女は、実は由実が料理が得意ではないということを知っていた。大学の卒業論文の作成も平行して行っていた彼女は誰が見ても忙しそうにしていた。だが可愛い後輩のために一肌も二肌も脱ぐことは先輩としての務めだと言い張ってレシピの提供はやめなかった。

ファイルに綴じられたレシピたちには彼女直筆のアドバイスが色付きのペンで分かりやすく書かれていた。

由実は松村のこういう部分が特に好きだった。自然に人を助けることができる人は少なくなってきたように感じられる。




夕陽に照らされながら、灯台の下で二人は灯が指すべき方向を見て語ったことがあった。


「いつか帰れるといいね」

「帰れませんよ」

「島に帰ることだけが全部じゃないよ。記憶とか思い出とか、小さな頃の自分に立ち返ることだって帰るって言うんじゃないかな」

「小さな、頃」

「懐かしい自分に戻るんだ。何にも知らずにいられた頃に」

「そうなれたら、幸せですよね」

「私もね、辛いときはそう思うんだ。帰りたい。いるべきとこはここじゃなくて、帰りたいって思う場所が帰る場所なんだって」

「先輩のそう思う場所って」

「うん、この町だよ。私、絶対にここへ帰ってくる」


松村が卒業する日のことだった。




彼女はその時言った通り町へ帰ってきた。

じゃあ、自分もいつか帰れるのだろうか。由実は思った。

島へ渡るのではなく、父と母と、村のみんながいる場所へ帰ることができるだろうか。




海を渡って幾多の波が押し寄せてくる。

いつか諦めて止まってしまった彼女の感情が揺られた。

私の帰る場所はどこだろう。懐かしいはずの記憶は、波の音に掻き消されていった。

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