第三章 灯が照らしたもの③
その町が面している海は、水質的にとても良かった。岩場では水底が見えるほどに水は澄み、海水浴だってできそうな様子ではあった。
しかし生き物は一匹もいなかった。位置的に回遊してくるはずの魚や海にすむ獣もその海域だけは避ける。
元々の生態系が不明である。そもそもそこに生態系があったのかさえ不明である。
その話は一部の海好きには有名な話であった。釣り人、海洋学者、ダイバー、サーファー。誰が誰に話して回っていった話なのか。それは誰にもわからない。ただ、そういう海がある。それだけ耳に入るのである。
何もない海。何もいない海。
言い方はいくつかあるのだろう。しかしそれらが示す事実は一つであった。
ある日、由実が件の姉弟を含めた数人で灯台の下にやって来た時のことである。
小学校の夏休みの宿題の一つとして水彩画があった。題材は何でもいいとのことだったので、宿題の終わっていないみんなで灯台を描こうという話になった。
八月の終わりの頃である。
ラジオ体操を終え、スタンプカードに新しい判子を押しながら由実は子供たちに声をかけた。そうして集まった子供たちは肩に絵の具やらパレットやらが入った鞄をさげ、画板を脇に抱えて岬を目指したのである。
午前中から始め、日も高くなってきた頃に由実は絵の進み具合を見て回った。ほとんどが下書きを終えて半分以上の色が乗っていた。
これなら家に帰って仕上げをすれば今日中に完成だ。熱中症を危惧した由実は家に帰ってお昼御飯を食べようと言った。
帰り道にある駄菓子屋でアイスを奢ってあげよう。そう思いながら彼女も荷物をまとめた。
そんな由実を呼び止める声が後ろから聞こえた。
「すいません、この町の子っすか?」
そこにいる誰もが知らない青年の声だった。
「はい、そうですが、何か?」
明らかに染めている金髪を伸ばして、耳にはピアスをいくつもしている。耳だけではなく唇にも金属が光り、子供たちは外人さん外人さんと騒ぎ始めた。
外人であるはずがないのだが、町の人の身内でもないことは確かだった。
町民は上京しても髪を染めない。海風に晒し続けられた髪は傷みやすく、色が抜けて黒よりも茶に近くなるからだ。わざわざそこから更に色を抜く町民は滅多にいなかった。
金髪の青年は大きなリュックサックを地面に横たえていた。更にその横にはスキューバダイビングで使われるような道具であるスノーケルと水中マスク、大きなヒレのようなフィンが二つなどが置かれていた。
青年は由実の真ん前に立ってこう言った。
「何にもいない海ってのが噂んなってて。ここってそうっすか?」
礼儀のなっていない喋り方だった。
由実は子供たちを自分の後ろに下げた。そして、嫌な顔を隠しながら曖昧に答えた。
「どう言われてるのか知りませんけど、よくそういうこと話す人は来ますよ」
青年はその答えを自分の望む答えと受け取ったのだろう。笑いながら一応は礼を言って、灯台から砂浜へ続く階段を下りていった。
「イヤなかんじだね」
弟くんは言った。眉間に皺を寄せながら、由実は彼に言い聞かせた。
「君はあんな風になっちゃだめだよ」
そんなことがあったこともすぐに忘れていくのだろう。彼女は子供たちと帰路に着いた。昼食は貰い物の素麺だった。
その後、青年が戻ることはなかった。
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