第93話 ツカサとエレナ
思えば魔法の指南を受けたのは久々だった。
前にエレナからトーチを習ったり、ブルックから本を貰ったくらいで、こうして魔力の操作や制御、調整は初めて指導をされた。今までの我流が正されただけだというのに、それだけでツカサは自分の能力の幅が広がったような気がした。
やはり先駆者や指導者は必要なのだなとふと思った。
魔力の残滓が消えてしまうことを懸念し、【快晴の蒼】は僅かな休憩の後、出航するという。
ツカサからの調書で随分と時間を食ってしまっていたこともあり、陽の落ちた暗闇の中を出ると聞いて驚いた。
「大丈夫なんですか? その、かなり狭いでしょ?」
「問題ないよ、夜目がきく仲間もいるし、僕らはここに慣れているからね」
にこりと笑って言われた言葉は、ダヤンカーセとの知己を知らせる言い回しだった。これ以上の心配は失礼になるだろう。
「シェイさんにお礼を伝えてください、初めて知れて本当に勉強になりました。魔力を視るの、練習していきます」
「はは、伝えとく。喜ぶと思うよ」
柔らかい動作で差し出された手を、ツカサは力強く握り返した。
「冒険者であればこそ、道中は気を付けて。また会おうね、【異邦の旅人】のツカサ」
「はい! その時はもう少し強くなってますから」
「いいね、それじゃまた」
ヴァンはまた笑ってツカサの肩を叩いてから船に乗り込んだ。
また周辺で水夫が慌ただしく出航を後押しし、霧の谷間に船が消えていくのを見守った。
ガレオン船があっという間にいなくなった後、ツカサは篝火の焚かれた闇の中しばらくその方向を見続けていた。
―― ツカサたちが出航したのはその翌日だった。
シェイに教わった魔力の制御と調整を行うと、この世界が不思議な色合いで成り立っているのがよくわかる。
眼に魔力を集めて視れば、青い色をふわふわと纏う人も居れば、赤が混じっていて渡り人の血が入っているだろう人もいた。
エレナは青一色、それが全身を綺麗にめぐっていて制御と調整が出来ているのがわかる。モニカは微かな紫がふわふわと遊ぶように揺れていた。どこかで渡り人が混ざり、かつ少しの素質はあれど魔導士として活動するには魔力が少なすぎる、ということだろう。
ダヤンカーセの船員も眺めてみた。
ミルは時々青色の魔力が揺れて本人が気づくと波が収まる。ツカサと同じ訓練中なのだろう。
アシェドは青色の魔力が噴き出していたのでほんの一日前のツカサだ。
エレナも、ミルも、アシェドも視ることで自分の魔力がどれだけ垂れ流しだったのかがわかった。
気を付けないと周囲のものを飲み込んで赤に染めてしまう。別に燃えたりもしなければ色が移る訳でもないが、赤い空間というものが本能的に危機を知らせるものなので嫌だった。
「失くしたくないと言ったのに、嫌だと思ったり忙しいな」
ツカサは自嘲の笑みを浮かべて海原を眺めた。
数日前の曇天が嘘のように快晴の空、海原は澄んで遠く青い。見飽きないこの美しい色を、赤で染めるのは申し訳ないが気がした。
「ツカサ」
「エレナ! どうしたの?」
「お天気になったものだから」
品の良いローブをするすると滑らせて隣に立ち、髪を耳にかけるエレナの所作に目を細める。余裕のある仕草にこちらが安堵を覚えるから不思議だ。
「今までは雪だったし、風も強かったしで外にも出れなかったでしょう? そろそろキノコが生えそうだなと思ったのよ」
「あはは、なにそれ」
お茶目な様子で冗談を言われてつい笑ってしまう。
ザァザァ、ヒュゥヒュゥと海原の音がしばらく二人を包んだ。
「モニカは?」
「眠っているわ、少し酔いを感じて薬をもらったの」
「そっか」
また沈黙が落ちる。
先に言葉を発したのはエレナだ。
「もうすぐスカイに着くわね」
懐かしさと、言い知れない寂しさを湛えた声だった。
ちらりと向けられた視線はツカサの耳にある。夫ヨウイチの形見だ。
「うん、エレナから聞いていたスカイをこの目で見るのが楽しみだよ」
「十年…もう十二年になるのかしら、妹から手紙で近況は聞いているとはいえ、どうなっているのか私も楽しみだわ」
「この船はどこの港に入るんだろう?」
「ハーベル
「スカイはいくつか港があるんだよね?」
「えぇ、そうよ」
地図を、と言われ
おおよそだけど、と前置きを置いた上でエレナの指が地図を滑る。
「公爵家であるハーベル、辺境伯のフェヴァウル、侯爵家のドーティミテが港を持っているわ」
「行くのはこのハーベルなんだね?」
「そう聞いているわね」
「あれ、でもイーグリスって確か、えーっと、元デイア領…?」
「よく覚えているわねぇ、デイア領は辺境伯のフェヴァウルに吸収されたの。詳しいことは聞かないで頂戴ね、結果だけしか知らないの」
「うん、わかった」
地図を眺めて頷く。
フェヴァウル家は南にやや横長な領を有していた。港は持っていなかったものが、デイア領を得たことで領地が飛び地になっているらしい。
ハーベル家は海から北を守る形で緩やかな曲線を描いている。
やや内陸にあるイーグリスはハーベル
うん、ややこしい。
「エレナの故郷はどこに?」
「もう少し内陸、デイア…フェヴァウル領を越えてバリマエル領にあるの」
「イーグリスとは近い? 遠い?」
「馬車を使えば二週間くらい、まだ近い方よ」
「じゃあマリナさんに挨拶してから、イーグリスかな」
「あら」
ツカサの言葉にエレナは目を瞬かせた。
ジュマで初めて話した時、エレナはスカイで知り合いがいれば怖くないだろう、とツカサに石鹸を預けていた。妹のマリナへ届けるついで、力になってもらえるように手紙も添えて。
結局本人が旅路を共にしてくれたのでいらないものになってしまったが、これはツカサが引き受けた依頼だ。
「忘れてないよ」
「ありがとう」
胸を張ってみせれば、エレナに微笑まれた。
手すりにそっと手を置いてまだ冷たい風に頬を晒し、エレナはぎゅうっと目を瞑って堪えた。
少しの間だけ待った。エレナは深く息を吐いてツカサに向き直った。
「本当はね、帰ってくる勇気がなかったの」
どうして、と聞くのも野暮な気がして、ツカサは無言で小さく首を傾げて続きを促した。
「ヨウイチも亡くなって、旅の理由も目的もなくなって、どうしていいかわからなかったの」
さぁ、と抜けた風がエレナの髪を弄んだ。ローブを着ているとはいえ寒そうに見え、ツカサはシャドウリザードのマントを肩にかけてやった。小さくありがとう、と言われ、細くなった指で手繰り寄せた。
心配をかけてしまったことが、今さら、心から悔やまれた。
「きっかけにしてしまったことが、少しだけ申し訳なかったの。あなたに息子の像を押し付けてしまった気もして、勝手よね」
「エレナ」
ツカサは喉で言葉が詰まって出てこず、ゆっくりと音を選んだ。
「エレナ、俺は、エレナがいてくれてよかった」
慎重に言葉を選んだ。
言ったことは守らなくてはならない、行動と責任を持たねばならない。それが
「エレナは…この世界での俺の母さんだよ」
叱咤激励、時に甘やかし、時にただ見守る。
血の繋がりもない少年に惜しげもなく愛情を注いでくれていることはわかっていた。感じていた。
実の血を分けた母への郷愁ももちろんある。遠く離れてしまったからこそ、ありがたみも味も懐かしく思うこともあった。愁う気持ちをスキルが許してはくれなかったが、ツカサだって母からの愛情をエレナに当てはめてしまった節はある。
それがエレナの負担になっていないかどうか、心配するだけの配慮は出来ていなかった。
「母さんだよ」
だからしっかりと伝えておきたかった。
もし、母と再会したとしても、この世界での母はエレナであると。
「母さん」
どうかそれを許してほしいと。
エレナは長いまつげをくしゃりとさせて、何度も頷いた。
―― 三日後、船はついにスカイへ辿り着いた。
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