第78話 エド



「おかえりなさい、エド!」


 仕事から帰ればそばかすの可愛い幼馴染が出迎えてくれる。

 いいにおいがした、今日は野菜のミルクスープだろうか。


「ただいま、いいにおい。はいこれ、夕飯に食べよう」

「屋台物なんて買ってきて、贅沢よエド」

「たまにだから、今日は支払いも良かったんだよ」

「まったくもう! 貯金しないといけないのに…」


 ぶつくさ言いながらも嬉しそうな顔が可愛い。栗色の長い髪を編んでリボンで結ぶだけのお洒落しかさせてあげられないのが辛かった。水仕事で荒れた手は、最近塗り薬を買えるようになったので渡したのに使ってくれない。あなたが小さい怪我をしたときに使うの、と自分には使ってくれないのだ。それもまたいじらしい。

 パンを手にそわそわとこちらを見ていることに気づき、にこりと笑った。


「モニカ、おなかすいたよ」

「だと思った! ご飯にしよう!」


 手を引かれて食卓に促される。

 椅子を引いて座って豊穣の女神に祈りを捧げる。


「豊穣の女神よ、今日の糧に感謝します。明日の糧をお恵みください」

「すっかり覚えたね」

「モニカに教えられたから」

「どういたしまして」


 笑い合ってパンを譲り合う。

 

「いただきます」


 手を合わせてパンを千切れば、モニカはいつも不思議そうな顔をする。


「エド、それどこで覚えたの?」

「どこだろう、思い出せないや」


 首を傾げ合い、また笑う。

 こんな穏やかな日々が幸せだと思う。

 たとえ、大怪我を負って、目の前のも、何があったかを思い出せなくても。


 あの日、目を覚ました時は何も覚えていなかった。

 大怪我を負って生死を彷徨い、モニカの尽力のおかげでは生きていた。

 手当てや看病で随分と苦労をかけてしまい、加えて目の前の恩人を思い出せなかったことも申し訳なかった。

 そんなに良い住まいではないがスラムよりは表街に近い場所、出稼ぎに行っていたエドが突然大怪我で戻ってきて驚いたという。

 しかし、エドはスリにでも遭ったのか装備以外の金を持っておらず、モニカに楽をさせることは出来なかった。腰に着いていたポーチの中身は空、銀貨一枚、銅貨一枚でもと期待した肩はあっさりと落ちた。

 最悪どれかを売ればいいと思ったが、モニカがだめだと言った。


「だって、エドが頑張って来た証拠でしょ?」


 そのいじらしさに思わず抱きしめたら顔を真っ赤にしていた。

 装備は大事にしまっておくことにした。もしかしたら、いざという時に使うかもしれない。

 中には壊れている装備もあって、エドは不思議とその効果を知ることは出来た。

 身代わりの指輪と守護の腕輪が使えなくなっていて、何故だか喪失感がすごかった。

 血を戻すのに時間がかかったが、怪我の治り自体は不思議と早かった。毎日包帯を変えてもらい、傷を撫でていたらいつの間にか綺麗に塞がっていた。右肩から左脇まで伸びた傷跡は残ってしまったが気にならなかった。

 モニカはあの冒険者ちゃんと癒し手だったのね、とぶつぶつ言っていた。

 一か月する頃にはすっかり動けるようになり、エドは日雇いの仕事を始めた。

 復帰後のリハビリも兼ねて軽い物から、今は大工の真似事をさせてもらっている。最初はくたくたになっていたが今ではと思うくらいには体力も戻っていた。

 怪我も多い職場ゆえに支払いも良く、夕飯に添える一品を買って帰ることも増えた。


 何度かモニカを迎えに職場にも顔を出した。

 モニカに突然男が出来たと給仕の少女たちは色めきだって恋バナに花を咲かせたりしていた。

 エド自身に自覚はないが身長もそれなりに高く体格も良い、顔つきも優しいが男らしい凛々しさもある。ただの幼馴染だというのなら、と粉を掛ける少女がいたくらいだ。

 エドはそういった誘惑にも惑わされずモニカだけを見ていた。ジャンナが嫌がらせのように体を寄せたこともあったが、モニカに嫌な思いはさせたくないと店に顔を出さなくなり針の筵になったのはジャンナの方だった。

 モニカは少しだけ胸がすっとした。


 モニカとエド、二人は同じ村出身らしい。

 記憶を失っていたために教えてもらったことしかわからないが、献身的に介護をしてくれたその姿がエドにそれを信じさせた。昔からの知り合いでなければここまで親身にならないだろうと思ったからだ。

 賊に村を滅ぼされてたまたま生き残り、生きるために王都へ来た。けれど生活は楽にならず、エドは出稼ぎに行って三年も戻らなかった。

 戻って来たと思ったら大怪我だったのだ、モニカの驚きは想像に易い。


 モニカとの温かい夕食、井戸水で汗を流し、少しだけ固いベッドで眠る。

 そんな毎日を幸せだと思いながら、エドの心はどこか満たされないままでいた。


 モニカが寝入ったあとこっそり抜け出し、夜の誰もいない狭い共用の庭で体を動かす。

 手に短剣を持った形で体が覚えているままに滑らせ、足を強く踏み出し、一撃を繰り出す。どこで身に着けたのか、目の前で動く影はなんなのか、靄がかかった姿が懐かしくて掴もうとする。伸ばした手を引き戻し、剣だこを見つめる。


「俺はどうやって…」


 生きて来たのだろうか。

 忽然と消えた記憶は不安で恐ろしい。だからこそ、答えをくれるモニカに依存してしまう。

 頭が痛んだ。


「うっ…」


 ――― 私を全てにするな。迷うな、悩むな。お前のここまでの経験を信じろ。

 ――― ―-―、考えるのをやめるな、学ぼうとする姿勢を崩すな。

 ――― あの人との間に子供がいたら、―-― のような子だったらいいなと思ってしまうの。


 厳しい声が脳内に響く。耳で聞いていただろう音が蘇り、声を発しようと顔を上げるがそこには誰もいない。

 温かな背中があった気がする。

 隣で肩を叩いてくれる温もりが、優しく背中を押してくれる声が、知っているのに思い出せない。


 苦しい。喉まで出掛かった言葉が、喉を蓋したように息が出来なくなる。

 嗚咽を零しているのだと気づくまでに少しだけ時間を要した。

 胸を掻き毟りたくなるような焦燥、とめどなく溢れる涙は何を訴えているのかわからない。ただ、心の奥底から自分自身が叫んでいた。


 こんなところにいる場合ではないのだと。


 どうすればいい、どこに行けばいい。

 自分のことすらわからないままで何が出来る。


 ――― 私を全てにするな。

 

 人を全てにするな。

 自分で考え、覚悟を決めて、生きる。

 誰に教わった。誰に憧れた。


 エドは一頻り涙を流すとぼんやりと月を見上げた。

 その形がまるで死神の大鎌のようで、それすらも頭の中を抉る。


「誰なんだよ…誰なんだよぉ…!」


 答えが欲しい、明確な答えが。

 エドは救いを求めるように地面にひれ伏した。


 ―― 翌朝、エドは固いビスケットを齧りながら言った。


「冒険者ギルドに登録に行こうと思う」

「え、どうして!?」

「一応、ほら、武器とかあったし、もしかしたら冒険者だったかもしれないだろ? だとしたら今よりも稼げるからさ」

「危ないよ! また怪我するかも、あの大怪我だって」

「それもきっと理由がわかるよ」


 ぺろりと食べきって沸かしただけのお湯を飲む。これもまた物足りないのだが、モニカが何も言わないのでこういうものなのだろう。


「冒険者になれたらモニカにもっと楽をさせてあげられる」


 そっと髪を取って優しく揉めば、モニカは恥ずかしそうな、それから辛そうな顔を見せた。

 エドは、また怪我をして戻ってくるのではないかとか、また二年も三年も戻らないのではないかとか、不安に苛まれているのだろうと思った。


「大丈夫だよ、今日仕事の帰りに寄ってくるから少しだけ遅くなるよ」

「…わかった」


 ようやく了承を得てエドは笑顔を見せ、それから仕事へ向かった。


 今日も同じ建設現場だ。

 親方が紙を手に手伝いを雇う。人だかりが手を上げ声を上げ自分を雇ってもらおうと必死で叫ぶ中、エドはするりと前に出た。スラムにほど近い人々はこうして日雇いを生きる術にしているのだ。

 日に焼けた親方がエドを見つけると手招いてメンバーに入れてくれた。


「おぉ、エド! 待っていたぞ」

「今日も働けるかな、親方」

「もちろんだ、お前さえよければうちで正式に雇いたいんだが、どうだ?」

「本当? モニカと相談してからでいいかな」

「あぁ、嫁さんの許可をもらってこい」

「嫁なんて…そんな、ありがとう」


 バシリと強く背中を叩かれつい赤面してしまう。

 優しく甘えたなモニカとそうなるのも悪くないとエドは頬を掻く。

 まだ背後で叫ぶ声を聴きながら、エドは腕まくりをして現場に合流した。監督をしている男がこちらを見つけると近寄ってきてくれた。


「よう、来たか」

「今日はどこ?」

「昨日で一階の基礎は終わりだ、今日からは外に足場を組んでいく作業に入る」

「わかった」

「エド、お前は西側だ。きちんと結べよ、何カ所か固定はするが、上に積み上がっていけばいくほど、重さは下にかかる」

「気をつける」

「結び方は習えよ、トルムンについていってくれ」

「あぁ」


 指差された方にいる男に向かって行けばそちらでも歓迎された。日々真面目に働いてきた結果だ。

 建物の基礎に合わせて足場を組み、二階の基礎工事に入る準備をする。

 いくつもの木を組み合わせて紐で結び、時に鉄製の金具を使って抑える。その作業は見た目よりも技術重視、次いで力が求められる。ただの固結びではなく、解けにくくずれにくい結び方を習った。


 今作業しているのは老朽化して取り壊されたアパルトメントの建て直しだ。住民は住民権を持つ者だけ、今作業をしている日雇いたちは入れない住居だ。

 ただ、エドが親方の組合に入れば住民権に手が届く。そうすればモニカをスラムに近いアパルトメントから移動させてあげられる。親方の話を前向きに考えても良いかもしれない。


 そんな現場で、事件は午後に起きた。


 雇われた人数が多く作業の進みは早い。その分チェックする手が足りず、それが終わらないうちに上に積みあげられていく。

 重さというものは下にかかってくるのだ。


「おい、東側、待て! そこはまだ見ていないぞ、どうして組み上げているんだ!」


 監督する男の声が響き、材木を持ちながらそちらを振り返る男が多数。ギシリと重い音を立てて足場が歪んだのはその後だった。太い結び紐はブチブチと切れていきあっという間に足場が崩れた。

 材木のぶつかり合うゴォン、コォンという重低音が響き、人が投げ出された。

 パッと足場を蹴り投げ出された人を掴み、材木の倒れる挙動を確認した上で安全そうなところに放り投げる。それも両の手二つだけでは賄いきれない。

 まだ年若い少年が震えあがり動けずにいた。そこへ材木が積み重なって倒れていく。


「ブルーノ!」


 エドは咄嗟に少年と材木の間に入り込んで腕の中に抱え込んだ。


「うわああああ!」


 叫んだのは自分だったのか少年だったのか。

 バキバキ、パキン、と高い音がして材木の衝撃に備えた。

 待てど暮らせど背中を殴打する痛みがなく、恐る恐る目を開く。自分よりも先に目を開いていた少年ブルーノはぽかんと口を開け何かを見上げていた。


「きれい…」


 ひんやりとした空気を感じてゆっくりと振り返った。


「なんだ、これ」


 エドの目の前には氷の壁が立ちはだかり、なだれ込んだ材木をそこに留めさせていた。

 


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