第77話 モニカ
少女、モニカはアズリア王都の食事処で給仕をする仕事をしていた。
生まれは王都から遠く離れた小さな農村、生まれてすぐに小麦を抱いて育った。
およそ三年前、アズリアがスカイへ戦争を仕掛けた頃、治安の悪化に伴い村は山賊に襲われて壊滅した。
モニカは村人しか知らないけもの道を必死に逃げ、どうにか生き延びることが出来た。けれど、自身を逃がすために両親は犠牲になり、村の大半の若い娘は捕まり痛めつけられ、売られただろう。
きっと他にも生き残りはいる。そう言い聞かせて自分を慰め、モニカは人の好い行商人に拾われて王都まで流れ着いた。
行商人はとても良い人でモニカを売り飛ばすこともなく、騙すこともなく仕事を紹介してくれた。大通りに面した食事処の給仕だ、王都在住の若い娘ならだれでもやりたがる仕事に驚いた。
行商人は王都に来る度に顔を出してくれ、なぜここまで良くしてくれるのかと聞いたこともある。行商人は、自分が昔もらった恩を別の誰かに返しているだけだと笑った。
そういう考え方もあるのだと思い、モニカも同じ志しでいることを誓った。
給仕の仕事は忙しかった。時に悪い客に当たり体を触られることもあったが、持ち前の明るさでするりと逃げる術も覚えた。食事処というだけあって様々な会話が飛び交い、自然とモニカは世の中のことにも詳しくなった。
楽しく刺激のある職場だ、しかし、これは若い頃にしか出来ない仕事でもある。周囲を見渡せば同じような年齢の子しかおらず、年嵩になれば仕事を追われてしまう。
幸い読み書きは出来るので他の仕事も掛け持ちして、少しでも大通りの方へ住まいを変えたかった。
今の住居はスラムと大通りのちょうど中間、たまに強盗や死体が出ることもある。国はスラムを必要悪にしているので死体は定期的に片づけられるが取り締まることはない。詳しいことは知らないが元締めなる者がいるのだと聞いたことがある。
ただ平和に暮らしたかった。
まだ恋をしたことはないが好きな人と結婚して、両親のように子供を愛して穏やかな毎日を送るのが夢だった。
どこにでもある幸せを背伸びせず求め、モニカはコツコツと貯金を貯め、大通りに住まいを変えたら長く働けるところを探すつもりだった。
そんな毎日に変化が訪れたのは突然のことだ。
その日、モニカは仕事を終えて友人であるジャンナと共に帰路についていた。
同じころ店に入った子で彼女には恋人がおり、モニカより生活は楽だ。よく食事に誘われるが経済状況が違うこともあり基本は断っている。その度、毎回少しバカにされている節は感じていた。
とはいえ日々の仕事に影響を与えたくないので笑顔で受け流す毎日だ。
他愛もないことを話しながら歩いていると、ジャンナが耳聡く路地を見た。
「あら、なにかしら」
ジャンナは耳を澄ませ、モニカの腕を掴んでスラムの方へ足を向けた。
「ちょ、ちょっと! なに?」
「ねぇモニカ、なにか騒ぎよ! 行ってみましょう!」
「まって私は、あぁもう!」
ウキウキと野次馬に行くジャンナを一人でスラムに行かせるわけにも行かず、モニカもそちらへ走っていく。
スラムの中程でざわざわと人混みが出来ていた。
見世物じゃねぇぞ、と叫ぶ声が余計に人を集めていた。
明らかにチンピラといった風体の男たちが足を氷漬けにされて騒いでおり、それを遠巻きに見る人の群れに押されてジャンナとはぐれてしまった。
「ジャンナ!」
ジャンナの艶のある赤毛が見えなくなり、押しやられて路地へ尻餅をつく。熱気に酔ったような野次馬を見上げため息を吐く。もう一度あの輪の中に入れる自信はなかった。
これだけ人が居ればジャンナも危険な目には遭わないだろうと思い、モニカは立ち上がって土を払うと大通りに戻るために歩き始めた。
足を踏み入れたことのないスラムの裏路地で一人になった心細さといったらなかった。モニカは明るい方を目指して足早に歩を進める。
細く長く薄暗い、複雑なスラムの路地裏はモニカの勇気を嘲笑うように表通りへは出してくれない。かと言って人に聞くのは危険だと知っていた。スラムは対価を支払わなければならないのだ。さも慣れていますという風を装って必死に歩く。
時間にしてみれば数分だったが、モニカには永遠に思えた。
ぱっと踏み出した先で男女が倒れていて悲鳴を上げかけた。
逃げようとしたが気になって近寄り、そっと肩を叩いた。男の方は顔を真っ青にさせ大怪我を負っていたがどうにか生きており、女の方は怪我はあったのだろうが既に治っているようだった。呼吸が安定していて顔色も悪くなく、眠っているだけなのがわかった。
何があったのか。
助けるには人手が足りない。
けれど周りに人がいない。
モニカは正義感と使命感と恐怖とで少しだけその場でうろうろと八の字に歩き回った。
女の方が目を覚ましたのはその時だった。
「うっ…」
「ひゃ! お、起きたの? 大丈夫?」
同性という親近感からモニカは膝を突いて顔を覗き込み、女の肩を撫でた。
女は促されるようにゆっくりと体を起こし、その体から男の腕が落ちた。
「ちょ、ちょっと! なにこれ、そんな…!」
「あの、大丈夫? 何があったの?」
「何がって、あぁ! オリバー兄さん!」
女が叫んで駆けだしていく。そこでようやく、モニカは死体がそこにあったと気づいた。
恐怖に足が竦んで立ち上がれなくなってしまい、思わずそこに転がっていた男の体を掴んだ。
「畜生、畜生あいつ! 許さないんだから!」
砕かれた頭から何かが零れるのも構わず、女は泣き叫んで死体を掻き抱いた。それにも狂気を感じて体が震えた。
女がモニカをきつく睨み付け、それから男へ視線をやった。足早に駆け寄るとそのままの勢いで男を蹴り上げた。
「役立たず! お前が! お前がもっとちゃんと守らないから! あいつを逃がしてしまった! 邪魔をするから助けられなかった!」
「な、なにするの! やめてあげて!」
突然の行動に狼狽している間に、女は男の胸の怪我を踏みつけた。ぐぅ、と低い呻き声を聞いてモニカは我に返った。
モニカは女の足と男の間に体をねじ込んで庇った。服が血に汚れ何度か蹴りを受ける羽目になったが、女は息を切らせながら蹴るのをやめた。
「もういい、あんたなんて頼らない! 私は、私の力でやってやる!」
「どこ行くの、待って!」
女は死体のところへ戻ると首から何かを引き千切って違う路地へ走って消えて行った。
残されたモニカはどうすればいいのかわからず、庇った体が呻くのを聞いた。
「だいじょ」
「きゃあああ!」
尋ねる声と女の悲鳴が被ったのは同時だった。
びくりと肩を跳ねさせ振り返る。じゃり、じゃり、と人の歩いて来る音がして、それが死神の足音のようで。
「だ、だれか」
助けて、と言葉が全て出なかったのは、下にあった体がぬぅっと起き上がったからだ。
モニカより身長の高いその男はひゅーひゅーと今にも死にそうな息を零しながらもしっかりと立っていた。
それからモニカを肩に担ぎ上げると悲鳴を上げる暇も与えずに走り出した。
モニカは担がれた肩で、女の首を持った長身の男を見た。
それから、大人しく転がっていれば死ななかったものを、と笑う気味の悪い声を聞いた。
肩に担がれたモニカは振り回されたことで酔いながらもどうにかしがみついていた。
やがて止まった男は担いだ時とは打って変わって優しくモニカを降ろし、頬を撫でて尋ねた。
「けが、は」
「な、ない…ないです!」
「よか、った…」
ほ、と笑ったその顔がとてもやさしくて、モニカは不思議な熱を抱き、涙を零してしまった。
きっとこの人が守りたかったのはさっきの女の方なのだろう。
きっと間違えて守られたのだろう。
けれど、この胸の痛みはなんなのだろう。
「う…っ」
「あぁ! そうだ、怪我! あなたのほうが!」
ずるりとモニカに倒れた男は明らかな重傷だ。
大通りの近くまで走ってくれたおかげで、モニカは叫ぶことが出来た。
「助けてください!お願いします!」
――― 大怪我を負っていた男をどうにか自宅へ運び込み、なけなしの貯金で手当てをしてもらった。
金を受け取ると癒し手を持つ冒険者パーティは男の装備を調べ出したので慌てて跳び付いた。それは金目の物を奪おうとする略奪者の眼だった。そんなことはさせてたまるかと大声を出して礼を叫び、その勢いで追い出した。
怪我はまだ塞がっていない。先ほどよりはましなものの、呼吸は荒く熱が高い。村で熱が出た時にやっていたように水をとにかく匙で飲ませた。男は上手く飲めずに吐いてしまい、モニカは人助けだと言い聞かせて口移しで飲ませるようになった。
凛々しい青年の顔に照れもあった、自身にとって異性と唇を合わせることに特別な思いもあったので羞恥心にも全身が焼けるようだった。そんなロマンチックな気持ちは水を飲ませた時に味わった他人の胃液の味で吹き飛んだ。
改めて目の前の男が死にかけているのだと思い直し、モニカは懸命に看病を続けた。
初めて仕事を無断で休んでしまい店主とジャンナが家を訪れ、その中の状況に呆気に取られていた。
男の素性を聞かれ困ったモニカは、同じ村の出身の人で、モニカとは別で出稼ぎに出ていた幼馴染だと言った。疑いの眼差しを向ける店主とジャンナだったが、モニカは譲らなかった。この怪我で突き出されては男は死んでしまうだろう。最終的に他人の血にまみれながらも看病をする姿に店主が折れ、状態が安定するまでは休んで良いと言ってもらえた。働かない分の給与は減るが仕方がなかった。
モニカは行商人が言った恩を別の人に返すということを自然と行っていた。
五日したところでようやく男は目を覚まし、その優しい眼差しをモニカに見せてくれた。
「あ、起きたの? 大丈夫?」
「ここ、は…ッゲホ」
「ずっと寝てたから、水飲める?」
匙で何度か飲ませてやれば喉が落ち付いたらしく、男はゆっくりと周囲を見渡してからモニカに視線を戻した。
「ここは…?」
「私の家、覚えてる? あなたすごい怪我で死にかけたのよ」
「…怪我…?」
「体痛いでしょ? まだ動かない方がいいよ」
「…きみは、だれ?」
「私はモニカ、あなたは?」
「…わから、ない」
「え?」
男が呟いた言葉にモニカは眼を見開いた。
大きな怪我は男から血と記憶も奪っていたらしく、不安に視線が揺れ出した。動揺が男の全身に響いて行って顔色が悪くなっていく。
モニカは不味い、と本能的に感じ取り、男の手を取って明るく笑って見せた。
「もう、やだ、忘れたの? 私の幼馴染のエドモンじゃない! エド、私はモニカ、あなたはエド!」
「エド…」
「そうよ、あとでお話ししましょう? 今はゆっくり休んで」
「…モニカ…」
「なぁに? エド」
「ありがとう…」
すぅ、っと寝入った男の手を離す気にもならず、モニカは小さく息を吐いて肩を落とした。
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