第62話 潜入<ラング・アルside>
「もう出立した!?」
受付でルノアーは叫んだ。
朝、朝食に誘う声がなかったので珍しいなと思いながら隣の部屋のドアを叩いた。
それでも返答がなく、無礼と知りながらドアを開ければもぬけの殻。
ルノアーは階段を駆け降りて受付に跳び付いて所在を尋ね、早朝にチェックアウトされていたことを知った。
そんな、と呟きながら膝から崩れ落ちる。
お礼も感謝も、昨夜はまともに伝えられていなかった。
朝食のあとに部屋へ呼んで報酬とお礼をしっかりと伝えて、弟さんのことを引き受けましたと言葉にするつもりだった。
後悔と悔しさで叫びながら宿を飛び出し、ルノアーは街中を走り回った。
市内馬車を利用して移動するくらいの広さを探し回れるはずもなく。
早朝人が少なかったこともあり目撃者もなく。
ルノアーは汗だくになって噴水の縁に腰かけて項垂れた。
顔を伝うものが汗なのか涙なのか、ルノアー自身にもわからなかった。
ふと思い立って南門へ向かった。
ぐしゃぐしゃの顔をしているルノアーは市内馬車で腫れ物のように扱われ、あのお兄さん泣いてるの?という子供の声は母親の手によって塞がれた。
泣き腫らした顔で門兵に【異邦の旅人】が出たかどうかを訪ねれば、水晶板をしばらく確認して言い難そうに出ている、と回答を得た。
それを聞いたルノアーは兵が呼び止めるのも構わず門の外に飛び出し、深く頭を下げた。
「ラングさん、アルさん! ありがとうございました!」
本当に、本当に。
守ってくれてありがとうございました。
教えてくれてありがとうございました。
約束は必ずまもります。
乾いた風が泣いて腫れた頬を撫で、ルノアーはようやく顔を上げた。
目こそ腫れていて鼻先も真っ赤。情けない顔ではあるが、すっきりとした表情で笑い、ルノアーはアズリアの王都へ戻って行った。
――― 夜、月のない闇夜をしゅるりと走る影があった。
音もなく鋼線が壁を滑り、カチンと小さな音を立てて引っ掛かる。
鋼線を引き寄せ壁をたった、と走って飛び上がれば城郭の上。見張りが振り返る前に内側へ自由落下、途中で鋼線を引っかけて緩やかな着地。
「見た目よりも温いものだな」
アズリア王都へ戻ったラングは、そのまま裏路地を行って街に紛れ込む。
城郭そばで屋根を走れば目立ってしまう。ラングは街の中心まで行った後、屋根へ上がった。
マナリテルの教会は夜になると炎が灯され、それはそれは厳かだった。
魔導士が巡回にあたり、なかなか守りが固い。
ラングにとってそれは数が多いだけで隙だらけ、すんなりと中に入りこめた。
鋼線を扱い壁を走り、時々風に力を借りて木を大きく揺らしたりして気を逸らせばあっという間に窓まで辿り着いた。
流石教会というべきか、高価なガラス窓が中を良く見せてくれる。
細いナイフを隙間に差し込み上に持ち上げる。それだけで簡単に掛け金が外れ、中に入れてしまった。
するりと入り窓を閉め、鍵は開けて置いた。
「さて、と」
ラングはこきりと首を鳴らしそっとドアに近づく。
人の気配を感じ壁に張り付く。通り過ぎるのを待つはずが、運悪くドアが開く。
どうやらここはその人物の部屋だったらしく、まっすぐ窓のそばにあるベッドに向かっていった。
その首に軽く手を添えて、悲鳴が上がる前に口を塞いだ。僅かな時間で魔導士は体から力が抜けた。
殺した訳ではないが、しばらく目は覚まさないだろう。睡眠薬を仕込んでおいた針を腰に戻し、魔導士をベッドに寝かせてやり誤魔化す。
身ぐるみを剥ぐことも考えたが、マナリテルがローブで階級を分けているのはわかっているし、ローブの元の持ち主として知り合いに声を掛けられては困る。それに、ツカサのように鑑定ができる者がいれば一発で見抜かれてしまう。
便利だが、される側としては不便なものだ。完全に隠密で行くことを決めた。
人が居ないことを確認してドアから出て天井を確認する。
柱が等間隔で立ち並び、天井を支える梁が多い。ラングはふわっと飛び上がるとその梁に乗りするすると移動を始めた。
まず目的のマナリテルがどこにあるのかを調べなくてはならない。
おおよそ、こう言った場合は最上階か地下だ。
ラングはふむりと顎を撫でた。そしてとりあえず大広間に向かった。
あっという間に辿り着いた大広間で暗がりから視線を巡らせれば、早朝世話になった司祭を見つけた。
熱心に祈り続ける姿は敬虔な教徒だ。それなりに遅い時間だというのにまだ休んでいなかったことは驚いた。
不意に周囲を見渡し、祭壇で何かを行う。小さなガコンという音がして、司祭は祭壇横に開いた穴へ入り込んでいった。
その後すぐに穴は閉じてしまった。
ラングは人の気配がないことを確認して広間に降り立った。
司祭が何かをした場所へ行き、台座を確認する。手を滑らせると微かな取っ掛かりを感じた。カチリ、と確かに押しているのに反応がなく、ラングはとんとんとそれを叩いた。
「魔力か」
相手にあって自分にないもの。
恐らく魔力を介して動く仕掛けなのだと思い至った。マナリテル像の影に入り込み、誰かが開けてくれることを祈りながら息を殺す。
しばらくして慌てた様子の男が祭壇へ走ってきた。ローブの色は黒いが白糸で刺繍があることから助祭か司教だろう。
先ほどラングが触っても何も起きなかった場所を触り、同じように小さな音を立てて扉を開けた。乱雑にきょろきょろしたあと穴へ足を踏み入れる男をラングは襲った。
殺しはしない、針は緩やかな睡魔に男を落とした。
ラングは男の代わりに穴に入った。
入り口は狭いが降りた先は広く長い通路になっていた。
明かりはなく、手持ちを求められる。男が持っていた明かりは持たず自前のランタンも使用せず、ラングは感覚を研ぎ澄ませて足を進めた。暗闇を明かりなしで移動するなど朝飯前だ。これも師匠に仕込まれた技だった。
足音を立てずに素早く駆ける。通路は何度か折れ曲がり途中小部屋もあった。人の気配がしないのを確認して中に入り見渡せば、あるいは拷問部屋、あるいは書類部屋など得る物は多かった。
書類部屋は調べたい気持ちにさせられたが時間もなく、ラングは古い書物に限っていくつかを空間収納に忍ばせた。
新しい書類はその場でざっと目を通す。
「ほう」
思わず声が漏れた。
ラングは一番上にあった新しい本を手に取った。これは日誌のようなものだったが、内容が興味深い。
エルキスを奪取するにあたり綿密に立てられた目的と計画が記載されていたからだ。
エルキスの理の力を魔力に変えられれば、永遠の命さえ手に入る。
理を凌駕し魔導士の世界を創り上げる。
内側から瓦解させ、すべてを良きように事を運ぶ。
何かに心酔した狂信者の日誌に見えたが、精霊に触れたラングにはこれが夢物語ではないと思えた。
深淵に引き込まれてしまっているように感じた。
ラングは世界の真理に触れさせられた時から、逃れられない宿命のようなものを背負わされた気がしていた。
―― そんなものは御免だ。
声には出さず胸中で吐き捨てる。
だが、気になったら調べずにはいられない性分が自身を逃さなかった。
素早く視線を走らせて文字を読んでいく。
新しいページで目が留まる。
用済みは近々片づける。糧になれ、幸運を喜べ。
脳裏に思い浮かぶ少年がいた。まさか、と思うが、消えたあとの行先は不明のままだった。
ラングはそこまでにして本を元の位置に戻し、人の気配を探りながらまた通路へ出て、走った。
通路の先から初めて明かりが見えたので緩やかにスピードを落とし、壁に背をつけた。
通路の先は祭壇だった。
赤い炎ではなく青い炎が冷ややかに空間を照らし、金があしらわれた台座の上には見覚えのある少年が横たわっていた。
炎の揺らめきから隠れるようにして中に入り込み柱の陰に身を隠す。富と権力を象徴するような装飾が付いていたり大きな像があるので隠れる場所には困らなかった。
少年の腹を見れば小さく上下しているので息はある。
不意に奥から人の気配を感じて闇に溶けた。
「全く困ったものですな」
白いローブを纏った司祭が奥の扉から現れぶつぶつと文句を言っている。
「あら、フォーグラッドは悪くないわ、知らないのだもの」
シャンと鈴を転がすような軽やかな乙女の声が続き、金糸をこれでもかと刺繍された美しいローブ姿で現れた。青い炎の中でローブの金が底冷えをするような色で輝いている。
「しかしですな、あのような穢れし者が教会に足を踏み入れることを許してはなりません」
「もう、ヴォルデイア。
め、と言いながら柔らかな淡い紫の髪を揺らして大げさな動作で叱った。
司祭・ヴォルデイアはやれやれと肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「して、この少年が例の?」
「そー、エルキスから連れて帰ったの。話をされても困るしね」
「本当に片づけてよろしいのですか?お考えを疑う訳ではなく、手駒として使わぬのか、という意味でお尋ねしておりますが」
「ちょっとねー、あんまりにも理に喧嘩売りそうで、勇み足はまだ困るのよ」
「まぁ、そうですな」
「それに別の拾い物が育ってるしね」
つんつん、と口で言いながら少年をつつき、乙女はくの字に曲げていた体をくるりと回転させた。ふわりとローブが円を描き、それに満足げに微笑む。
「だからもう要らない」
それはまるでゴミを捨てて当然というかのような物言いだった。
花のような笑顔がまた美しい。
ヴォルデイアは好々爺のような笑みを浮かべて頷き、それから懐中時計を開いた。
「子飼いに器を持ってくるように言ったのですが、随分と遅い」
「ごめんねー、私が突然今日やっちゃえ! って思ったものだから、寝てたよね」
「貴女様が気になさることではありませんとも、貴方様の御心のままに」
「えへへ、ありがと! ヴォルデイアだーいすき!」
むぎゅー!と口に出して言いながら抱き着き、乙女はまた笑顔を浮かべる。
「おなかすいたぁ」
「今しばしお待ちを、また誰ぞやりましょう」
言っていれば走ってくる音がした。最後の方は疲れ果てて若干の千鳥足の音だ。
青い炎の元に顔を晒したのは先ほどラングが眠らせた男だった。
「お、お待たせしました! ヴォルデイア司祭!」
「うむ、こちらへ来るが良い」
手招かれた先で乙女に抱き着かれているのを見て、走ってきた男はぎょっとした。
―― 教会内で知っている顔ではない、か。
ラングは乙女の顔を見るために少しだけ
「ヴォルデイア司祭、そちらの女性は…」
「良い、気にするな。私の娘のようなものだ」
「ご息女が…いえ、承知しました」
手に持った金の杯を差し出し、それを乙女が嬉しそうに受け取った。
「ありがと! ごくろーさま!」
にっこりと笑った顔に男は赤面し、顔を隠すように俯く。
「それからご馳走様!」
顔を落としたことで自分の胸に刺さった短剣を見ることになった。
え、とか、あれ、とか言いながら男は後ろにたたらを踏み尻もちをついた。
「ばいばーい」
乙女は笑顔で男の胸から短剣を抜き、鮮血を浴びて恍惚とした表情を浮かべた。
すぐさま金の杯を前に差し出し、ごはん、ごはん、と歌う。
息絶えた男の胸から青く光る球が浮かび上がり金の杯に注がれる。
それをごくりごくりと飲み干して乙女はうっとりとした顔をした。
「うーん、やっぱり足らない。デザート欲しい」
美しい笑顔を微塵も歪ませることなく、乙女は短剣を台座の上にいた少年に突き刺した。
短い、ぎゃっ、という悲鳴の後、少年はバタバタと暴れてあっという間にこと切れた。
短剣を抜けば黄色の光る球が杯に注がれ、それもまた飲み干される。
「うーん、まぁまぁ! 今日はいいかな!」
「ようございました」
日常のティータイムを過ごしたかのような光景に、ラングは悪寒を覚えた。
「次はいつ頃が良いですかな?」
「あんまり食べちゃっても見つかっちゃうし、次はアズファルで一か月後くらい。フォーグラッドにはバレないようにね」
「もちろんですとも」
ラングは漠然と理解した。
乙女が口にしたものは、恐らく、生きる上で誰もが持っている大事なものだ。
くるりくるりと回って上機嫌な乙女の口の端には血が滴って、青い炎に照らされた眼はアメジストの色をさらに深くしていた。目鼻立ちすべてをとっても
「おや、私の仕事はないのですか」
また一人奥の別の扉から現れ、つまらなそうに呟いた。
高身長の手足の長い男。撫でつけた髪はアズリアではよく見る。優しそうな人相とは裏腹に、ラングは気味の悪い男だと思った。
「ペリエヴァッテ! ペリエ! ペリエ! 遅いよー我慢できなくて食べちゃった」
「申し訳ありません、こちらもいろいろ忙しくて」
「上手くいってる?」
「えぇ、それはもう順調そのもの」
「よかったー、私苦手だからさー」
「適材適所でございますよ、ところで」
ペリエヴァッテと呼ばれた男がぎょろりと目を動かした。
「ネズミがおりますねぇ」
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