第40話 旅人 <ラング・アルside>
オフィエアスを帰した後、ラングは風の精霊に頼んで空気を入れ替えてもらった。
戻って来たアルが困らないようにするためだ。
そんなラングの心配りも空しく、アルは翌日の昼に食事を抱えて帰ってきた。
「なんか不機嫌だな?」
「お前があまりにも暢気なのでな」
エルキスの食堂でもらった食事を分けながらアルが問えば、ラングはパンを受け取りながら答えた。
「昨夜、オフィエアスが夜這いに来た」
「ごっふぁ!」
片手で飲んでいた水を吹き出し、ラングが受け取ったパンに飛ぶ。
舌打ちを打ってパンを置き、ラングは手を拭った。
「え、ま、どう、ええ?」
「追い返したがな」
「マジかよ、フルコースより先に用意されたメインを食べない男なんているんだ」
「なんだと?」
「あのー、あれ、思わぬおすすめを…というか…女性の勇気を男側からこう…そんな慣用句」
「あぁ、目の前に差し出されたケヌレは残すなと同じか」
「ケヌレ?」
「あぁ…少し待て、そうだ、焼いた菓子、のようなものだ」
「おお、ケーキとかクッキーとか、そういうことか。そっちだとそんな言い回しなんだな」
ごめんごめんと謝って、アルは自分の食事にかじりつく。
「まぁ、懐いてたし、もしかしたらとは思ったよ。あんな時間に連れ出されたしな」
「そちらはどうだったんだ」
「いや、真面目に魔導士の話をしてた。それからちょっと酒盛りみたいな」
「いい御身分だったわけだ」
「なんだよ、ケーキ…ケヌレを断ったのはラングだろ?」
揶揄うように言えば、ラングの口元がむっとした。
「媚薬など香らせていなければ考えなくはなかったぞ」
「媚薬なんて使われてたのか。でもなんで?」
「それは毒になる、と体に覚えさせられていてな」
「詳しく」
ふむ、とラングは自分の空間収納からパンと焼き串を出し、食事の合間に話した。
師匠の修行の一環で、多くの種類の毒への耐性を身に着けていること。
その一部に「理性を失わないように」という目的で、媚薬の耐性をつけるものもあったこと。
おかげで媚=毒、というのが体の癖になっており、媚薬を用いられると体が反応しないのだということ。
アルは濡らしてしまったパンを責任持って食べながら何とも言えない顔をした。
「難儀だなぁ…」
「おかげで救われたことも多いがな」
「じゃあ、もしオフィエアスが媚薬なんて使ってなかったら、応えた?」
「いや、それでも断っただろう」
「なんで」
「五十の男に懸想するなど、小娘が哀れだろう」
「うーん…ラング、あのさ、若返ってるんだからそこは肉体年齢でいいと思う…」
融通の利かない男だとアルは思った。
とはいえ、この男が自分の知らないところで子を残す等の責任を放棄するとも思えない。ちらりと伺えば半分食べた串焼きをパンに挟み、あんぐと口を大きく開けてかぶりついていた。こういうところは冒険者だ。
この世界の商売女は体に毒ではない薬草で子が出来ないようにしているが、オフィエアスがそうしていたとは考えられない。
女の気持ちはよくわからない、とアルは感想を浮かべながらパンを完食した。
なんにせよ、自分がこれ以上口出しできる話でもない。
「ギクシャクするのはやめてくれよな」
「知らん」
予想通りの答えで笑ってしまった。
翌日から日程の調整や国の方針などで、ラングはオフィエアスともよく顔を合わせた。
オフィエアスは気丈にいつも通り振る舞い、時々ラングを目で追うようになり、ツェルテが少し辛そうな表情を浮かべるようになった。
ただ、ラングの態度が一貫して一線を引いており、それはツェルテの救いになったようだ。
またしばらくして出立の日が来た。
なんだかんだで滞在は
最後の一か月は国を見て回らせてもらい、各地の美しい景色や素朴な食事を楽しませてもらった。
エルキス内での貨幣が独自のものだったので、これからは外貨を仕入れるために少しずつ開かれていくのだろう。
魔導士たちについてラングとアルもエルキスを出る。
最後まで硬い表情ではあったが、近衛も魔導士たちの道中の安全を祈り、魔導士たちは真摯にそれを受け止めた。
「ありがとうございました、おかげでエルキスは正しい姿を取り戻せました」
巫女服で見送りに立ったオフィエアスはラングとアルへ優雅に礼をした。
それに続いてエルキスの民たちが膝を突いた。
ラングはオフィエアスとその横のツェルテにだけ聞こえるように言った。
「魔導士たちを受け入れるのは、異変に気付きやすくするためだ。どちらもなくてはならないということを忘れるな」
「重々、もう奪わせません。神殿の秘匿ではなく、すべての民に私たちがどうあるべきかを伝えます」
「あぁ、頼む」
オフィエアスはふうわりと微笑んだ。
「貴方は最後まで、悪魔でしたね」
「あぁ、その悪魔から国をお前に返してやろう」
「あら、有難いことですわ」
穏やかな空気が流れ、さわさわと風が流れる。
ラングはそれ以上の挨拶はないらしく踵を返して出発しようとした。
「ラング様」
名を呼ばれ振り返り、即座に触れる柔らかいもの。
鼻先まで上げていたシールドは唇を守ってくれなかった。
ざわりと民が動揺し、魔導士たちは冷やかしに指笛を鳴らした。
アルは槍に寄りかかって苦笑いを浮かべた。
「悪魔ですこと、私の初めてを捧げたい気持ちにさせるなんて」
「…どちらが」
苦虫を嚙み潰したような顔をしているのだと思った。
ただ、声は呆れはあるものの厳しくはない。
オフィエアスはくるりと回ってツェルテの横へ戻り、手を差し出し促した。
「さぁ、御発ちになって。恩人の旅路を祝福しましょう!」
一連の流れが祝福であったと理解した民と近衛たちは歓声を上げた。
その声に押されるように、魔導士たちは歩き始め、ラングとアルも続いた。
「女ってすごいな」
「全くだ」
そんなことを言いながらアズファルを目指し、十日ほどで国境を越えた。
もうエルキスを振り返らなかった。
――― エルキスには悪魔が現れたことがある。
それは子供なら誰しもが知っていて、老齢であれば誰しもが目を細めて空を見上げた。
空から降ってきた二人の悪魔は、劣悪な地下牢に入れればその場所を過ごしやすく変え、最終的に国を乗っ取ってしまった。
「おばあさま、それでエルキスはどうなっちゃったの?」
不安そうな孫の様子に笑みが浮かんだ。
「大丈夫」
祖母の様子にほっと息を吐いた。
悪魔たちはエルキスを乗っ取って、そして変えてしまった。
それは精霊の声を伝え、過去の姿を見せ、エルキスが進むべき道を指示した。
「悪魔なのに?」
「そう、悪魔だったの」
「だった?」
「実はね、理の使者だったのよ」
「すごい!」
祖母は続けて語ってくれた。
このエルキスという場所が、どれほど大事にされているのかを教えてくれた。
当時の巫女はその声に耳を傾け、最後には祝福を与えたという。
「それから、悪魔は名を変え語り継がれているのよ」
「なんていうの?」
祖母は優しく目を細めた。
「
ずっと昔、あの人に恋をしたの、と祖母は言った。
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