第13話 一歩
雨風を凌いで寝られるだけでよかった野宿生活。
とは言えそれはラングのおかげでとても良い環境で越えて来られた。
清潔な布団と暖かい食事、非常に有難い。
それがまた建物の中で眠るというだけで安心感が違う。
【子羊亭】の朝食はシンプルだった。
塩味のスクランブルエッグにベーコンが二枚、スープのカップに黒パンも二枚付く。
そのまま食べるには固いがスープに浸すとそれなりに美味しく頂ける。
肉の入っていないスープは塩味だけだが、野菜のおかげか少し甘い気がした。こってりとしたポタージュが飲みたくなる。
朝食を済ませてラングと共に街に出た。
真っ直ぐに向かった先は武具屋だ。ラングの指示で、今日はサイダルの倉庫からもらった短剣も腰のベルトに無理矢理差してある。
『ギルドが先じゃないんだ?』
『お前の武具を整えておく。それから替えの服もな』
『トマリの服は洗浄機能があるから、寝る時に脱げば綺麗になるけど』
『それがだめになったときにどうする』
『ラングだってそんな服変えてないじゃん』
『私は同じものをいくつか持っている』
旅の途中もツカサが気づかないだけで変えていたのだろう。
井戸のあるキャンプエリアで遅くまで水音を立てていたのは、洗濯の音だったのか。上位の冒険者ほど衛生面を気を付けるのは確かだ。
だがそうすると懐の心配がある。
『冒険者として独り立ちできるまでは面倒を見てやる』
ツカサの心情を知ってか知らずか、ラングからの頼れるお言葉。素直に甘えさせてもらおう。
そんなことを話しながらキースに教わった武具屋辿り着いて、足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
強面の主人は他の冒険者の対応をしているため、ちらりと見て簡単に挨拶だけ。
ツカサはサイダルとは違い豊富な品揃えにきょろきょろとしてしまう。壁一面に槍や剣が掛かっており、エルドが持っていたような大盾も飾ってある。
装飾品が華美なもの、恐らくダンジョン産だろうものは壁にかかりその存在をアピールしている。
『武具の揃え方だが』
ラングに声をかけられ気を引き締める。
『お前の今の筋力だと、元から持っている短剣と併せてもう一本持つ程度が限度だろう』
『長いのはだめなんだ?』
『振り回される。あれはある程度体が出来上がってからでないと持つ意味がない』
近場に置いてあったロングソードを手に取り、周囲を確認した後ラングが片手で振って見せた。型なのか、ただ振り回すだけではなく流れがある。
武具屋にいた冒険者がそれを見て、ほう、と感嘆の声を上げている。
『振って見ろ』
渡されてツカサもラングの真似をする。片手で持つには重く感じ、両手で持って振るう。
上から振り下ろす分には楽だが、下に落ち切る前に止めるのが難しい。下から上へ切り上げようとして返した手首に負担がかかるのがわかる。
腕全体の筋肉が使われ、二の腕の筋が伸びる。ゆっくり下ろしたところでラングに持って行かれた。
『わかっただろう。剣を振るうのには腰から上の筋肉が全て必要になる。お前にはまだ足りない』
元の場所に戻し、ラングが続ける。
『動きながら扱う時には、腿の筋肉を使い重心の制御も必要になる』
『足りてないのは、わかった』
『よろしい』
ラングがざっと周囲を見渡したあと、ツカサの肩を叩く。そのあと指差されたのは短剣のコーナーだ。
『
言われ、ツカサは【鑑定眼】を発動した。
品の良い物、性能の高い物を探る。
二本の短剣が候補に絞られた。
―― 風切の短剣。風魔法の込められた短剣。
―― 防御の短剣。防御のための魔法が込められた短剣。
『何故選んだ』
『こっちの緑は風魔法がついてる。こっちの茶色は防御魔法がついてる』
『構えてみろ』
ラングに教わったように構えてみる。
『持つ手を変えろ』
右に持っていたものを左に。左に持っていたものを右に。
『どちらが、どちらに馴染む?』
『うーん、緑が、左手かな』
『ではそれを』
素直な使い心地の感想だ。風魔法が付与されているからか、緑の短剣はツカサの利き手でない方でも扱いやすかった。
あっさりと得物が決まってしまい、ツカサは少しつまらなそうにしている。
目の前にこれだけの武器があるのだ、試したいと思う気持ちは仕方ない。いずれ文句を言われないほどになって全種類試してやろうと思った。
『防具を決めるぞ』
『わかった、ラングは防具着けてないよな、危なくないの?』
はぁ、とため息が聞こえた。
『着けているに決まっているだろうが』
ラングがツカサの手を取りマントの前掛け部分、胸に手を当てさせる。
固い。びっくりしてまさぐろうとしてしまいラングに手を払われる。ひどい。
『私は装備の上に一枚着ている』
『知らなかった』
『わからないようにしているからだ』
『マントとか袖とか、ヒラヒラしてるのはそのため?』
返事がないのは肯定の意だ。
『お前はまだ十七と言ったな、体の成長速度も速い。調整のしやすいベルトが付いたもので、革が良い』
飾ってある革鎧を見繕い、ツカサに差し出す。受け取りはするものの、ツカサはラングを見上げるばかり。
『着け方が』
『後ろを向け』
本当に申し訳ありません、と内心で謝り背を向ける。
上からすぽりとはめられ、右腕を出す。左脇で革の二本のベルトを留める。それだけで左肩から右胸までを斜めに守る装備になった。
『人体の急所は知っているか』
『ある程度は。これは心臓を守る装備だなってことはわかるよ』
『そうだ。腹回りを守る装備もあるが、よほどの質でない限り私の持論としては動きにくい』
それから剣を腰に吊るすためのベルトを選ぶ。短剣用ホルダーが二つ付いたものを、腕の長さを見て丁度良い位置に付けられるかどうかを確認していく。
これも成長期のツカサに合わせて調整できるベルト穴が多い物を選んだ。
『あとは靴だな』
『靴も?』
『その靴ではぬかるみは歩けない』
ローファーをだめにしたくなくて、早々にサイダルで靴を買って変えてある。今履いているのはすでにぼろぼろになりつつある革のショートブーツだ。
ラングの足元を見る。脛まで覆われたロングブーツ。靴の側面、上から十五センチほどまでベルトが三つついていて、それで緩めたり締めたりできるようになっている。着脱は面倒だが一度履いてしまえばぴったりなデザインだ。
ブーツの底が厚めで横から見ても足裏がギザギザになっているのがわかる。踏ん張れる仕様なのだ。
『長さはどうでも構わないが、お前の靴は裏が滑りそうだ』
事実結構滑っていたので変えることに文句はない。
「さくさくお選びになられてますね、靴、お手伝いします?」
武具屋の店員なのか職人の見習いなのか、青年が声を掛けて来た。
『靴は見てもらえ。先ほど言ったことを忘れるな。それから、今身に着けているものはそのままもらっていくと伝えろ』
『わかった、ありがとう』
ツカサから離れてラングは手入れ用品を見に行った。困ったような顔をした青年に向き直る。
「すみません、靴を選びたいんです」
「あぁ、よかった。話せたんですね」
青年は公用語にほっと息を吐く。
「わからない言葉で話していたので、声をかけようか悩んでたんですが…靴をそれぞれが眺めていたから…」
「すごい洞察力ですね」
「いえいえ、商売ですから。それで、靴ですよね?ご要望は?」
ツカサは歩きやすい物、滑らない物、長さは気にしないことを伝えた。話しを聞くと青年は二足の靴を持ってきた。
ショートブーツとハーフブーツだ。
「滑り止めが使われているのはこの二種類ですかね。革は時間をかけて鞣したボアの革です。最初は少し固いかもしれませんが、歩いている内に柔らかくなるのが特徴ですね」
「履いてみてもいいですか」
「どうぞ」
試着を行なうのは異世界では初めてだ。
ショートブーツは今のもより固いことを除けば、履き心地はほぼ同じだった。実際に距離を歩いたら変わってくるのかもしれない。ハーフブーツは脹脛まであって安定感がある。今回はハーフブーツを試してみたい。
「こっちがいいです」
「はい、では古い靴はどうします?」
「うーん、いらないです」
「わかりました」
一瞬、自分で働いた給金で買ったものなので持って帰ろうと思った。しかし、あれはサイダルの思い出の一つになってしまう。いろいろあってツカサは思い出すのが辛くなって来ていた。
もちろん、右も左もわからない中で手を差し伸べてくれたことには感謝している。
温かい食事もあった、部屋も与えてくれた。
教えてもらう知識は偏っていたし、給料は雀の涙だったけれど。
それでも、もしラングが来ていなかったらツカサは今もあそこにいたのだろう。
訳も分からずかくりと膝が抜けた。
「大丈夫ですか!?」
「すみません、ちょっと旅の疲れが」
「滞在期間を延ばした方が良いですよ」
「連れに相談します」
『どうした』
さ、と近寄り腕を引き立たせる、ラング。
表情はわからない、声もブレない。ただ手だけが温かい。
ツカサには、ラングについて来た選択が正しいかがわからない。
『大丈夫、ちょっと今になって』
裏切られたショックが本当の意味で追いついて来た。
きゅ、と唇が結ばれ、言葉は出せなかった。
ラングは青年に銀貨を二枚差し出した。
「あ、ええと、足らないです。わかるかな、あと、十万二千リーディ」
青年が銀貨を指差し十を示し、カウンターから銅貨を持ってきて二を示した。
ラングは言われた金額を支払い、ツカサを伴って店を出る。
本当ならそのあとギルドへ行ってこの世界のパーティや依頼の内容を見に行く予定だった。
ツカサの様子から無理だと判断したのだろう。宿に戻りツカサを部屋に押し込むとラングだけが外に出た。
言葉も分からないのにどうするのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、ツカサはベッドの上で動けないでいた。
―――――
「こんばんは、起きているかな」
こんこんと控えめなノックの音の後に、穏やかな声が続く。キースだ。
いつの間にか眠りに落ちていたらしく外が暗い。扉の下から漏れる微かな明かりを頼りにドアへ行き、鍵を開ける。
「団長さん、どうしたんですか?」
「君のお兄さんが詰所に来て、君のことを報せてくれたんだ」
部屋を見渡すがラングはいない。戻っていないらしい。
「ラングが報せるって?」
「ひとまず食事にしないか、君なかなか酷い顔をしているよ」
苦笑を浮かべたキースの手には、あの串焼きの紙袋があった。
部屋に招き入れランプに火を入れる。四隅に灯りを点けるとぼんやりと部屋全体が見えるようになる。
「ラングがなにか」
「あぁ、詰所に来て片言で、君を助けてほしいと頭を下げて来てね」
意外だ。ラングの立ち居振る舞いからして人に頭をさげるようなタイプではないと思っていた。
まだ温かい串焼きを受け取る。やはりいい匂いだ。
「旅の疲れが出たかい?」
キースも一緒に串焼きを頬張りながら尋ねて来る。
一人で食事をするよりも、一緒に食べた方が話しやすい配慮だろう。
「かもしれません」
串にかぶりつく。じゅわ、と出て来る肉汁がやはり美味しい。疲れていても空腹は来る、ツカサはもらった串焼きをあっという間に食べ切った。キースが紙袋を破いて開き、ツカサに寄せた。好きなだけ食べろということだ。
ぺろりともう三本を平らげてツカサはようやく胃が落ち着いた気がした。
「旅慣れしていなかったそうだな」
「はい」
「サイダルから十四日程度か、野宿は辛かったか?」
「いえ、ラングのおかげで思ったよりも快適でした」
「何かあったのか?」
まただ。詰所で話しを聞いた時のように優しく染み込む音がした。
キースの【静穏の声】というスキルの効果なのだろう。抗う気にもならない。
「助けてくれた人たちに裏切られたことが、今になってショックで」
最後の別れ際はどうかと思うが、それでもツカサに良くしてくれたのは事実なのだ。
「他の街で悪いように言われているのが、辛いかな」
「それも少しあるかもしれない」
苦笑を浮かべて、キースはツカサの肩をぽんぽんと叩いた。慰める様な励ますような。そんな感じだ。
「すぐに答えを見つけることじゃないだろう、ラングと話してゆっくり自分の中で落ち着かせればいい」
「はい」
「何かあれば詰所に顔を出してもらえれば、俺もいるから」
「ありがとうございます」
おやすみ、と声をかけ、キースが出て行く。
串焼きもまだ残っている。置いて行ってくれた。
ツカサはベッドに仰向けに倒れて動こうとしない心に目を瞑った。何もやる気が起きなかった。
目を瞑り、またしばらくすると寝てしまっていたらしい。
かりかり、パラリと音がする。音の方を見ればラングが机に向かっていた。
『起きたのか』
マントを外し、シールドとフードだけは着けたままのラングが振り返らずに言う。
『うん、キースさん呼んでくれてありがとう』
『かまわん。私は言葉が上手くないからな』
確かに、と揶揄すればラングが振り返った。そして何かを投げて来る。
布団の上にばさりと落ちたのは製本された手帳だ。
『日記を書け』
『なんで』
『考えがまとまる』
『ラングは何してるの』
『私も長年書いている』
机の上に開いている手帳を、とんとん、と叩く。
『そうだね、頭の中整理するのはいいかも』
中身が真っ白の手帳を開き、何も書いていないのはわかっているがゆっくり捲っていく。
ぱら、ぱら、と紙の擦れる音が地球と変わらなくて、つい無心で捲ってしまう。
ぼんやりした視界に、ふと手が差し込まれた。ページを捲る手を止められ、いつの間にか前に跪く形で視線を合わせているラングに気づく。
シールドで見えないが、双眸がツカサを向いているのはなんとなくわかる。
『信頼していた者や、頼りにしていた者からの厚意が、実は欺瞞だったという経験は私にもある』
だから耐えろと言われたらいやだな、とツカサは目を伏せた。
『辛かったな』
ページを止めたままの手が滲んでいく。指ぬきグローブから出た指は、武骨だが形は悪くない。剣士らしく爪は削られ、引っ掛かることはないだろう。
涙が落ちて来ても、手は退くことがなかった。
『サイダルでの思い出の全てを捨てる必要はない。良いこともあった、だが悪いこともあった、と、受け入れるには時間がかかる。私はそうだった』
ぐす、と声を出すツカサに、ラングはその肩へもう一方の手を移動させ一度強く握った。
体全体が揺れるほど強く。
『お前が躓いていることがサイダルのことでないのなら、戯言として捨てて良い』
『いやだ』
手帳から退きかけた手を握るというよりは爪を立てる様な形で留める。痛いだろうに、ラングは何も言わずにもう一度膝をついてツカサを覗きこんだ。
『全部嘘だったのかなぁ』
呟いた言葉に回答はない。
歩くことに必死で考えないようにしていた。
道中出会ったエルド達から聞いてショックを受けた、怒りで悲しい気持ちを紛らわせた。
マブラに来てわかったタンジャの汚職と怠慢、巻き込まれた冒険者たち。
給与的な問題はあるが、ツカサには被害が及ばないようにしてくれていたのだろう、アーサー。
何が正しくて何が悪いのか、よくわからなくなった。
優しさや親愛は嘘ではなかったと思う。どちらを取るかで切り捨てられたのがツカサなだけであって。
『正義はない』
取り留めもなく零していた感情に、す、と差し込まれた風。
『正しい正義など、どこにも無い』
もう眠れ、と声を掛けられた後のことを、ツカサは覚えていない。
―――――
花の香りがした気がした。
心地良い風が顔に当たり、ツカサはむず痒くなって目を覚ました。
「おはよう、まだ夢の中よ」
声の方を向くと口元に優しく皺を湛えて、女性が微笑んでいる。
辺りを見渡せば一面の花畑、空は快晴が広がっている。そこに一本の立派な樹が生えていて、ツカサがいるのはその根元だ。
少し離れたところにテーブルクロスを敷いたテーブルがあり、そこで女性がお茶を用意していた。
「いらっしゃい、まだ少し時間があるからお茶にしましょう」
呆気にとられながら、ツカサは誘われた先に座った。
「ここは」
「夢の中よ。私が好きな場所なの」
ウェーブのかかった黒い長髪が風に攫われてふわりと舞った。それをそっと抑える姿が魅力的でツカサは視線を逸らした。熟女趣味ではないはずだ。
「あの人、私の
くすくすと可笑しそうに笑って、その人もゆっくりと座った。
「あの、すみません貴女は」
「アイリスというの、よろしくねツカサ」
どうぞ、と差し出されたクッキーに目が輝く。地球からこっちに来て辛いのが甘味だった。
一度女性、アイリスを見て会釈をしたあと、ツカサはクッキーをはぐはぐと貪った。甘味に飢えていた気持ちが収まっていく。
ツカサが一頻り食べ終わるまでアイリスはお茶を傾けて風に髪を任せて待っていた。
「あぁ、美味しかった!すみません甘味に飢えてて」
「良いのよ、でも夢の中で食べたら現実が辛くなるかしら、ごめんなさいね」
「いや、そんな…そうかここ夢の中なんだっけ」
それにしてはリアルな気がする。
「私の能力なの。
「え、じゃあ貴女がラングに
「正解、その通りよ」
いたずらな笑みを浮かべて頷く。晴天を仰いで眩しそうに目を細める横顔が綺麗だった。
「私はね、人の夢を守ることで心を守る者なの。ラングに渡した
あなた、眠らされたのよ、とアイリスがまた可笑しそうに笑う。なんだか肩から力が抜けて、ツカサも少し笑った。
「なぜラングに
「それは秘密、あの人の秘密にも触れてしまうもの」
「ちょっとだけでも」
「聞きたいのなら、あの人から聞きなさいな」
本人に聞いて答えてもらえるのなら、最初からやっている。
「誰だって知られたくない秘密の一つや二つや百個くらい、あるでしょう?」
百は言いすぎな気もするが、この人に話す気がないのはわかった。
「不思議なんですけど、なんで俺は貴女と話せているんですか?」
「ラングがあなたを眠らせたからよ。元は私の能力だから、干渉が出来たのね」
風が吹いて花弁が舞う。綺麗な場所だ。
そういえば眠れと言われてから記憶がない。あの時にその【能力】とやらで眠らされたのか。
「私が話せることは少ないわ。あなたの世界は特に、私には想像もつかない場所だから」
「わかるんですか?」
「えぇ、夢で見られるの。どんな過去を持っていたか、とかね。だから何を見たかは話せないの。
ふと、気になった。
「俺の両親の夢に、行けたりしますか」
「ごめんなさい」
期待を持たせることもなく、あっさりと断られる。
あわよくばと思っていた程度だ、ツカサもそうですか、と引き下がる。
さわさわと葉擦れの音だけが響く。頬に当たる風が少しだけ冷たい気がした。
「ねぇ、坊や。一つだけ教えてあげるわね」
立ち上がり、ツカサに歩み寄って来るアイリス。
ふわふわと揺れるローブが花を引き連れて波を描く。
「ラングは誰よりも厳しいけれど、誰よりも優しいわ。それだけは真実よ」
あなたの心を信じて。と、アイリスが掌でツカサの目を覆う。
夢の中なのに、ツカサはそのまま眠りに落ちた。
―――――
不思議な夢を見た。
目を覚まして心なしか気持ちがすっきりしていることに気づく。昨日感じていた倦怠感がどこにもない。
窓の外は少し明るくなり始めたところだろう、部屋にある時計を見るとまだ6時を指していた。
ラングは隣のベッドに居ない。
机の上を見ると、昨夜ラングに手渡された手帳があった。紙は高いだろうにわざわざ買ってきてくれたのだろうか。
手帳を開くと一部水に滲んでよれて固くなったところがあった。手帳にあったラングの手をなぞるように、同じように置いた。
苦労を知らない手だ。ペンダコはあるし四ヶ月の水仕事で若干荒れてはいる。
それでも、ラングの手とは比べ物にならない。
微かな物音が聞こえ、窓の外を見遣る。
宿の中庭で早朝からラングが剣を振り体を動かしていた。シールドとフードは着けたまま、マントと装備のない軽装。遠めだが鍛えられているように思う。
いつもマントで見えない体の動きがよく見える。
ラングの剣は両腰に二本あるものがメインなのだろう。刃渡りは七十センチほどでそこまでは長くはない。刀身の幅自体も広くなく、二センチ幅があるかどうかの細身だ。
ツカサは短剣を二つ手に持ち、部屋を飛び出した。
階段を駆け降りて朝食の支度の音を聞きながら、中庭へ出る。
丁度鍛錬が終わったのか汗を拭いながらラングが振り向く。
『ラング、俺に剣を教えてください。弟子にしてください』
汗を拭う手が止まる。
ゆっくり時間を置いて、ラングはシールドを僅かに上げる。鼻先までが露わになった。
『私は手加減が出来ない』
『わかった』
『自分で言うのもなんだが、厳しいぞ』
『命に関わることだから、大事だよ』
『お前は何がしたい』
『強くなりたい』
ラングが続きを促すように顎を上げた。
『強くなって、自分で正しい物を見つけたい。それから、ラングの
記憶にあるたくさんの
冒険者についてはラングの方が知識がある。けれど、異世界を歩く術はツカサに知識がある。
言語もままならないラングを連れて歩くには、まさしく海外の
『期待を裏切るな』
ちかりと朝日が反射したせいでラングがよく見えなかった。
けれど、その口元が少し微笑んでいた気がした。
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