第2話

「アベル様、聖女様……ご機嫌麗しゅう」

 王宮の廊下で、若い女の子から声が掛かることは珍しい。

「ミュラン伯爵令嬢様、ご機嫌麗しゅう。珍しいですね、こんな時分にお逢いするなんて」

「もう、ジゼルと呼んでくださいな。本日は、少々学問所に用がございまして」

 ジゼル・ミュラン伯爵令嬢、確か十三歳だとっていましたか。わたくしよりも二つも年下なのに、とてもしっかりとしていて……きっと、親御おやごさんの教育が良いのでしょうね。


「今日は、どのようなご用件で王宮に?」

「ええ、これから国王陛下にご機嫌うかがいするところですわ」

 陛下のご機嫌を伺うというか、実際のところは、陛下が神様のご機嫌を伺うという感じに近いでしょうか。私の唇を通して、神がご神託を与えて下さるという話であるらしい。

 らしい、というのは、その間私は眠っているのか失神しているのか、まったく何も覚えていない状態になるからなのですが……。

 自分が何を云ったかも覚えていないなんて、ちょっとぞっとしますが、国王陛下と神様がどんな話をされていたか、なんて、正直身の安全の為にも覚えていない方が良いですよね。


「国王陛下に謁見えっけんたまわるなんて、やはり聖女様というのはすごいのですわね!」

 そういうところは年相応そうおうなのか、うらやましい、という顔を隠さずにジゼルさんははしゃいでいる。

「私が謁見、というより、陛下にとっては日頃の業務の一環という感じですから、私が殊更ことさらに偉いとか、そういう話ではありません」

 王が定期的に神託を得ているというのは、一部の人間にのみ知られている話なので、私も言葉をにごさなければならないのですが。

「またまた、聖女様はご謙遜けんそんでいらっしゃいますね!」

 目をキラキラさせているジゼルさんには少しばかり心苦しいけれど、そう決まっているので仕方がないのです。


「あのっ、では午後はおひまでいらっしゃいますか? よろしければ、私たちのサロンにいらっしゃって頂くわけには参りませんか」

「申しわけありません。折角せっかくのお誘いですが、午後はザンダール公爵令嬢とのお約束がありますので……」

 すると、今までにこやかにしていたジゼルさんは顔を強張こわばらせる。まあ、ジゼルさんに限った事ではなくて、ザンダール公爵のお名前を出すと、皆さん一様にこういう表情になるんですよね。


「その、アベル様……本当に大丈夫なのでいらっしゃいますか」

 恐る恐るという感じで、心配そうに尋ねてくる。もっとも、これが初めてではなくて、何度目かの同じ質問だったと思いますけれど。

「はい。以前にもお話させて頂きましたが、何も怖いことはありませんから……」

「そ、そう……ですか? あの、ご無理をされているとか、そういったことはないのですか」

「ええ、ありません。ご心配頂いてありがとうございます」

「いえっ……その、次は必ず、私たちのサロンにご招待させて下さいませ。それではっ」

「はい。ご機嫌麗しゅう、ジゼル様」

 ドレスの端をつまみ一礼すると、足早にジゼルさんは歩き去ってしまった。


「……マルコさん。そんなにも、公爵家の評判は芳しくないのですか」

「はい」

 私の護衛兼、侍従をして下さっているマルコさんに尋ねると、特に逡巡しゅんじゅんすることなく、彼女はうなずいた。

「ザンダール公爵の権勢家けんせいかぶりはつとに有名です。そして、それと同じ程度には公爵令嬢カイン様の悪いうわさあとちません。お許しを頂けるものならば、あまりお逢いになるのはおすすめ出来ないお相手にございます」

「そ、そうなんですね……」

「表にも裏にも、ザンダール家が持つ権勢の網は張り巡らされていると云われておりますし、他の二公爵家、そして王家からも警戒されているというのは、この国の社交界に関わる者であれば、知らぬ者のない話かと存じます」

「そういう方には思えないのですが……」

「カイン様としても、聖女であるアベル様は無下に扱えない存在なのでしょう」

 しかし私の言葉も、マルコさんにかかれば一刀のもとに斬り伏せられてしまいます。

謀略家ぼうりゃくかでもあらせられるという話ですし、アベル様と、またお義父上ちちうえである枢機卿すうきけいとの繋がりなどを考え合わせての態度なのではと拝察いたします。本来的に、あの方はもっと酷薄こくはく非情でいらっしゃると聞き及んでおりますので」


「あうぅ……わかりました。否定する余地はなさそうですね」

 ですがそうであるなら、聖女である私は、カイン様に対等に見てもらえているという可能性を、まだ残しているということですよね!

「もしもの時には、マルコさんに助けて頂く事にしますから」

「承知しております。その時には、私の身命しんめいえましても」

 マルコさん、お給金をいくら貰っているのでしょうか。こんなどこの馬の骨ともわからない娘を護るために、身体を張るなんて。なんとももったいないお話です。


「また来てしまいました、公爵令嬢。お邪魔ではありませんか」

「気にしなくて構わないわ。このような阿婆擦あばずれのみ家までよくぞおいで下さいました」


 いつものように、いつものごとく。

 私もカイン様も、ドレスの裾をつまむと、軽く一礼する。


「いつものようにお茶をれましょう。どうぞ座ってお待ちになっていて」

「はっ、はいっ」

「あら、私、何か貴女を怖がらせるような顔をしていたかしら」

 困ったわね、という風にくすりと小さく笑う。

 それだけで、不思議ときゅっと、胸がうずくんですよね。


「いえっ、あの、今日もお綺麗だなって、そう思いまして」

「まあ。聖女たるアベルに、おべっかを使わせてしまうなんて……困ったわね」

 お世辞せじなんかではないのです。カイン様は、本当に息をむほどに美しい。

 まだよわい二十歳はたちには届いていないと聞いているけれど、均整の取れた女神像のような美しい身体に、血のように赤いドレスをまとったその姿。

 成熟した大人の色香を持ち、そこへ闇夜のように美しくつややかな黒髪をなびかせる。そして、その奥で隠れるように輝く深い色をたたえた紫の瞳と、その下であでやかに微笑む深紅しんくの唇。でも、それ以上に。

 何と云えば適当なのだろう、この方は……。


 ――そう、この方は、ご自身を持て余している。


 そんな風に感じられるんですよね。こういう云い方が正しいかどうか、実は私にもよくわかってはいないのですが。


「どうしたの? 私の手許てもとをじっと見つめたりして……もしかして、ご両親は紅茶に殺されたりしたのかしら。それともティーポットでなぐり殺されたとか」

「いえ、残念ながら二親とも、そもそも顔すら見た記憶がありませんので」

「そうだったわね。気配りのないことを口にしてしまったわ」

むしろ、気にせずにそういう冗談を飛ばして下さった方が、私としては嬉しいですけれど」

「それなら良かったわ」


 これでも私も孤児みなしご上がりの人間。いろいろとひどい目も見ながら育ってきたもので――だからカイン様を初めて目の当たりにした時には、私も確かに、身がすくむような恐ろしさを感じました。

 ああ、この人は躊躇ちゅうちょなく『そういうこと』が出来る人なのだというのは、私にもすぐに理解出来ました。


 皆が口を揃えて、この人のことを『危険だ』というのは、正直とてもよくわかります。

 それでも尚、不思議とこの人と話をしたいと思ってしまう。

 きっと、それはこの人からまったくあせりや苛立いらだちを感じないからなのかなって、自分ではそう思っているのですが。

 私が出遭ってきた危険な人たちは、皆一様に苛立ちや焦りを抱えていた。利口に立ち回っているように見えても、それは上辺だけで、すぐに馬脚ばきゃくを現したり、怒りを隠せなかったりという感じで、余裕のない人がほとんどだった。

 けれど、カイン様は違う。同じような鬼気を備えていながらも、それ以外はまったくと云っていいほどに様子が異なっている気がして……。


「少し、蒸らしが長かったかも知れないわ」

 そんなことを考えていると、カイン様のほっそりとした綺麗きれいな指が、私の前にカップを置く。ほんのりと優しい湯気の奥に、云われてみれば確かに、ちょっとだけ色の濃い紅茶がのぞいている。

「ありがとうございます」

 どうしてカイン様はいつも手ずからお茶を淹れて下さるのだろうか。私の毒殺を恐れていると云っていたような気がするけれど。

「あの、私って誰かに命を狙われる可能性があるのでしょうか」


「……」

 あっ。思った事をそのまま口にしたのはまずかったかも知れません。何だかおかしなものを見た、というような表情をカイン様がなさっています。

 うぅ、ちょっと恥ずかしくなってきましたね……。


「アベルは総ての民に望まれている存在だけれど、それはアベルでなければならない、という意味ではないわ。それはわかるかしら」

 しばらくすると、カイン様は私にそう説かれた。

「ええと、望まれているのは『聖女』であって、『私』ではない……という意味で合っているでしょうか」

「その通りよ。その意味で行くと、貴女が特定の勢力と仲良くなり過ぎたりして、疎遠になる勢力を作ってしまうのは得策とは云えないの。これもわかるかしら?」

「自分の利益にならないなら、殺してしまえ……ということですか」

「そうね。逆に考えるならば、アベルがここにおしゃべりしに来てくれているというのは――つまり私と仲良くしてしようとしてくれているということになるのよね」


「ええと、それってつまり、カイン様と仲良くし過ぎると、私は他の人たちから命を狙われる可能性が出てくる……ということですよね?」

「よく出来ました」

 カイン様は、何だかとっても楽しそうに微笑む。もしかしたら本能的に、この人はそういう力のゲームみたいな話がお好きなのかも知れない。ちょっとだけ、恐い表情がうっすらと覗いている。


「貴女が『国民の誰にとってもお優しい聖女』であり続けることが出来れば、多分、貴女が命を狙われることはないと思うけれど」

「そ、そうですよねっ!」

 ちょっと安心するけれど、そんな私を見て、カイン様はちょっと意地の悪そうな笑みを浮かべている。


「けれどアベル。貴女、一生そんなことを続けることが出来ると思う? 誰のことも嫌いにならないし、誰の前に出ても、いやな顔ひとつ見せずに生きていくなんて、そんなことを」

「……無理ですぅ。だって私、教会で暮らしていたみぎりから数えて、もう二十人くらいは嫌いで逢いたくない人がいますもの」

 神様も、私を聖女に選んだ時に、何ならこの性格ごと聖女のそれに入れ換えてくれたら良かったのに。そんなことを考える。

「ふふっ、生まれた時から聖女だったなら、そんな悩みとも無縁だったかも知れないのに……残念だったわね」

 カイン様は楽しそうだ。私としてはあまり楽しい話ではない筈だけど、どうしてなのかカイン様が楽しそうだと、私まで楽しくなって来てしまう。

「ですがそれはつまり、カイン様と仲良くなると、私はカイン様に護ってもらえるようになる……ということですよね!」


「えっ……」

 カイン様は、そこで何故か動きが止まってしまう。

「あれっ、違いましたでしょうか……嫌われると殺されるというなら、仲良くなったら護って頂けるようになるのかと思ったのですが」

「ああ……そうね。先ほどの論から考えてみれば、確かにそういう答が導き出されるわね。そうでなければ釣り合いは取れないけれど……」

 そう請け負ってからも、カイン様は不思議そうな顔をして考えている。もしかして、私の考えは何か間違っていただろうか。

「論としてはわかるけれど、なかなか難しいわね。私、邪魔者じゃまものを消すのは得意なのだけれど、人を護るというのはしたことがないのよね……」

「ええっ……」

 今度は、私の動きが止まる番だ。そんな恐ろしい事をさらっと云われても困ってしまうのですが……!?

「あら私、何かおかしなことを云ったかしら……? ああ、云ったわね。気にしないでいいわ。ただの云い間違いだから」

「云い間違い、ですか?」

「ええ」

 にこやかな笑み。

「ええと……云い間違えなかった場合、それはどんな言葉だったのでしょう。ちなみにお伺いしても?」

「……それ、どうしても聞きたいかしら?」

 ゆっくりと席を立って私の傍までやって来ると、カイン様はにっこりと微笑んで私の肩に手をかけた。

「えっと……いえ、そこまででもない、でしょうか」

「そう。それなら良かったわ」

 くすくすと悪戯いたずらのように微笑むと、もう片方の手から、まるで魔法のようにお菓子をのせたお皿が現れて、私の前に置かれた。

「これ、今日のおすすめよ。パデュイリーに新しく出来たお店のものなんですって」

「はっ、はい……いただきます」


 もしかして、私は毒殺されてしまうのでは……なんてちょっとだけ思ったけれど、カイン様からは特にそういう雰囲気ふんいきを感じなかったので、素直にお菓子を頂く事にした。

 それに、このタイミングで口を付けなかったら、それはそれで失礼ですし……。

「わっ……これ、すごく美味しいですね!」

「そうでしょう。私も昨日初めて食べたのだけれど、これはアベルにも教えてあげなくてはって、そう思っていたの」

「では、パデュイリーからこれ、わざわざ……?」

「使用人に買いに行かせたから、わざわざというほどではないわね。安心していいわよ」

「は、はい……んん?」

 安心……? なんだろう、何を安心すればいいのだろうか。


「あの、またこんなに長居をしてしまって……」

 結局お菓子を三つも平らげて、また夕方近くまで居座いすわってしまった。

「構わないと、いつも云っているでしょう? 本当に、覚えない子ね」

 カイン様は小さく微笑むと、少しだけ首をかしげる。美しさと可愛らしさを両方備えている、不思議な人だと思える。

「ええと、では、ご機嫌麗しゅう。カイン様」

 遠慮会釈えしゃくなく見詰めてくる視線に、やや照れを感じつつ、別れの挨拶あいさつを済ませる。

「ええ、ご機嫌麗しゅう。聖女様」

 カイン様も、いつものようにドレスを摘まんで一礼。見送ってくれた。


「……私、からかわれたのでしょうか」

 もしかしたら、皆さんに聞かされた悪い噂に疑心暗鬼ぎしんあんきになっていたのが、われ知らず顔に出ていて、カイン様はそれをおからかいになったのかも知れない。

「アベル様、どうぞ至急お屋敷までお戻りになって下さい」

 そういえば、いつものように部屋の外で待機していなかったマルコさんが、急ぎ足で私のところにやって来た。

「どうかしたのですか?」

先般せんぱん連絡が入りまして、お義父君ちちぎみがパデュイリーで布教活動をなさっている時に、ならず者の一団ともめ事が起きたそうで、軽く怪我けがをなさいまして」

「またですか。それで、お義父様はご無事なのですか」

 お義父様は枢機卿にまで出世されたというのに、未だに貧民街区などで教導きょうどうを行う事が多い。立派な身なりで下層階級地区を訪れれば、当然こういった衝突は後を絶たないのですが……。

「はい。たまたま近くに敵対する博徒ばくとの一団があり、加勢してくれたとかで、大した怪我にはならずに済んだとか」

「はあぁ……それは何よりです。すぐに戻って、お義父様に治癒ちゆほどこして差し上げなければ」


(えっ、パデュイリー……?)

 急ぎ屋敷に戻ろうとして、さっきのカイン様の言葉が脳裏を横切った。

『使用人に買いに行かせたから、わざわざというほどではないわね。安心していいわよ』

(加勢してくれた一団というのは……まさか……?)

 さっきは、まったく意味がわからなかった『安心』という言葉だったけれど……。

「いえ、ですが……まさか、ですよね……?」

「アベル様、どうかなさいましたか」

「何でもありません。屋敷に急ぎましょう」

「はい。門の外に馬車を待たせてありますので」

「ありがとうございます。マルコさん」

 カイン様の不思議な言葉を振り切るように、私は馬車に向かって足を速めるのだった……。

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