星空と白い噓(4)



 十一月下旬。あれから何度かラストリゾートから電話が掛かってきたが、全て無視していた。

 余程、反省したのだろう。無視しても電話は掛かってくる。

 アシスターを変更しようと考えた日もあったが、しゅんとした彼女の表情が脳裏に焼き付いていて、ついに電話をとってしまった。するとアシスターはまたしつこく謝ってきた後「一分、十秒だけでもいいので、会ってください」と必死に頼み込んできた。

 ――普通あんな形で突き放されて、こんなに会ってくださいなんて言うかしら。

 奈央は渋々といった感じの対応で許可したが、求められる感覚は決して悪い気分ではなかった。

 そうして三回目の面談、午後から来るアシスターのためにお菓子作りまでしている。

 これは未熟者に言い過ぎたことへのおびだと言い聞かせながらも、以前アシスターがお菓子を食べたいと言ってくれたことは覚えていた。

 久しぶりにボウルの中で溶かすチョコレート。ぼうっと見つめながら色々なことを思い出す。

 自分も就職してすぐにミスをして落ち込んだことがあった。誰にだって失敗はあるが、彼女がそれを必死でカバーしようとしているなら、向き合ってあげるのも誠意の一つ。

 浩一郎が好きだったガトーショコラを焼き上げている時間、窓から外を眺めた。

 目に染みるくらいの青空が広がる日。浩一郎と休みが被る日も、よく晴れることが多かった。

 ――奈央ってもしかして、晴れ女?

 ――ううん、私は多分、雨女。

 ――じゃあ俺が晴れ男なのかもなあ。

 たまに雨が降った時は、今日は力不足だったと笑っていた彼を思い出してしまう。

 アシスターは家に着くと、また「こんにちは……遠野眞白です」の挨拶をした。

 謝罪の言葉と、綺麗な直角のお辞儀もセットで。

「ちょっと、こんな玄関先でやめて。もう気にしてないから、早く上がって」

 そんな呆れるほどしつこいアシスターにガトーショコラを差し出すと、目を輝かせていた。

 食べたことがないのかと思うくらい、彼女は「美味しい……いくらでも食べられます! 奈央さんと一緒に過ごしてたら太っちゃうかもしれません……」と褒めちぎった。

「太っちゃう」と言う大袈裟な褒め方が浩一郎と重なって、奈央は切なくなる。

 十二月中旬。四回目の面談もまた晴天。変わらず「遠野眞白です」の自己紹介付き。

「ウィンドウショッピングに行きませんか」と提案されたのは数日前に電話で予約した時のこと。

 おっくうだったが、アシスターの少し弾んだ声に流されてしまい、藤沢駅へ出掛けることになった。

 昔から変わらず使っているリキッドタイプのアイライナーは、久々で苦戦した。

「もう、クリスマスですね」

「そうね」

 奈央は駅構内へ繫がるペデストリアンデッキを誰かと歩くのはいつ以来だろうか、としみじみ思いながら隣のアシスターの服を見る。

「そういえばあなた、いつもその格好ね。さすがにジャケットはもう寒いでしょう」

「い、いえ。私の中では一応、制服みたいなものなので」

 痩せ我慢と変な拘りを見せてくるアシスターの顔は、寒さのせいでプルプルと震えていた。

「ふうん」

「あの……あまり似合っていませんか?」

「別に悪くないけど、たまには違う服も着てみたら? というより風邪引くわよ」

「そうですね……でもこれと言って、着る機会もあまりないので」

「せっかく可愛いんだから、そんなこと言わないの」

 ――コウも、もっと違う格好してみたらいいのに。

 ――あまり服に拘り無くてなあ……どんな服がいいと思う?

 ふと浩一郎の声が頭の中に聞こえた気がした。

「……あとで私が選んで買ってあげるから」

 奈央は無意識に言っていた。

「え? いえ、それはダメですよ!」

 いつの日かの情景。表情や声色。何気ない仕草。一緒に行った場所。

 話すごとに一つ一つの記憶が、鮮明に蘇ってくる。

 ――ほら、何が欲しいの。欲しい物ないの?

 ――急かすなって! プレゼントなんてもらえると思ってなかったからなあ。

 いつの日も真っ直ぐ、馬鹿なほど正直だった言葉までも、次々と鮮明に。

「話しながら思い出すことは全然違う……か」

 最初の頃にアシスターに言われた言葉をボソリと呟いて歩くペースを落とす。

 過ぎてしまった時間と街の人混みの中で、浩一郎を探すように辺りを見回した。

「奈央さん?」

「彼ね、本当に噓が嫌いな人だったの」

「……」

「…………噓吐かない人なんて、きっといないのよ。ね」

 とても悲しい目をした奈央は、そう言った後すぐ忘れたかのように歩くペースを戻した。

 その日、奈央はアイボリー色のチェスターコートを買ってアシスターにプレゼントした。

 奈央の性格上、買うと言った手前、買わない選択肢は消えていた。それと以前、話の中でアシスターの誕生日がクリスマスに近いと聞いたのも何となく覚えている。

 肌が白いせいか、冬生まれと聴いてしっくりきたのかもしれない。

 誕生日のことを言うとアシスターは何度も「いくらなんでもダメです!」と言っていたが、奈央のセンスで選び取って見せると「これ可愛い……」とコートを物欲しそうな目に映していた。

 隙をついて買って押し付けるとアシスターはぜんとしていた。

「奈央さん、今日は本当にありがとうございました。でも私なんかが頂戴してよろしいのですか?」

「いらないなら返品してくるわよ?」

「えっ、それはダメです! すごくすごく、大事にします!」

「ふふっ、じゃあ黙って受け取っておいて」

 奈央は自分でも、どうしてプレゼントすることに拘ったのかはよく分かっていなかった。

 別れ際の駅、夕空に包まれたデッキのベンチでアシスターは嬉しそうに紙袋を抱き締めた。



 年が明けて一月十五日。初めてアシスターから面談日の指定で電話が掛かってきた。

「三日後? その日は仕事ね」

「あ……そうでしたか」

「まあ、夕方までだけど」

「本当ですか! それなら丁度良かったです……夜の七時、いえ、八時にお願いします」

 突っぱねたつもりだったが、何を勘違いしたのか押し返された。

 ――それなら良かったです? いや、全然良くないんですけど……。

 しかも「ラストリゾートに来てほしい」とのこと。アシスターの意図が読み取れないまま当日を迎え、仕事を終えて一度帰宅。そして軽い食事を済ませてから江ノ島方面へ車を走らせていた。

 二十分もかからない距離とは言え、仕事終わりの面談が億劫であることに変わりない。

 それでもアシスターの我が儘に付き合うべく、会いに向かう自分に「バカみたい」と呟いた。

 一月十八日、五回目の面談。この日は奈央の誕生日の前日だった。


 国道134号線沿いに立地するラストリゾートの入口で眞白は待っていた。

 これまで四回の面談。眞白は初めてアシスターとして向き合ってきた。安楽死を希望する者と、生きる意味や死ねない理由を一緒に探すために、寄り添ってきたつもりだ。

 自信のない眞白は、専門学生の時から一つの大きな疑問が浮かんでいた。

 どうしてアシスターでなければいけないのか。

 アシスターと出会ったから生きる意味に気付けた。出会わなかったから死んでしまった。

 いくら専門学校に通ったとはいえ、そんなバタフライエフェクトのようなことがあり得るのか。

 その疑問から枝が広がっていった。

 ――恋人や友人では駄目なのだろうか?

 ――仕事や趣味は? 家族や思い出は?

 眞白は人生経験も乏しい未熟なアシスターなりに必死に頭を回転させて走り続けてきた。

 色々と考えた結果、やはりこの前の言葉が引っ掛かった。そのことに触れると奈央を傷付けるかもしれない。だが残念そうな声の裏側に期待が秘められているように聴こえた瞬間があったのだ。

 そしてこの日を迎えた。彼女の気持ちを確かめる機会は今日しかないと信じてやまなかった。

 雲の無い夜空を見上げて、もう一度確信を重ねる。

 予定より少し早い時刻に、彼女は駐車場に停めた車から降りてやって来た。

「奈央さん、こんばんは。遠野眞白です」

「ねえ。あなた、いつまでその挨拶続ける気なの?」

 いつまで経っても名前を呼んでくれないことに眞白は寂しくなる。

「それで、今日はこんな時間にどうしたの? 寒いから中に入りたいんだけど」

 奈央は細い身体に合っていない大きめの黒いコートを着ていた。

 察する通り、それは奈央にとって大切なコートだ。


「奈央さん、七里ヶ浜に連れて行ってくれませんか?」

 ――七里ヶ浜。

 一度だけ、奈央の胸がドキッとした。

「どうして」

 奈央は小さく呟く。こわる顔を見せられることを予期していたのか、アシスターは深く頭を下げると共にこんがんしてきた。

「お願いします」

 彼女が深々と頭を下げている最中、奈央は空を見上げた。

 雲一つ無い夜空。風はたまに強く吹くが、外灯の無い暗闇ならよく星が見えそうな天気だった。

 ――あの日を繰り返そうとしているのね。

 勘付くのに時間は要さない。奈央は黙ったまま背を向けて歩き出した。

「奈央さんっ、待ってくだ―」

「ほら、行くわよ。寒いから早く」

 てっきり気を悪くして断られたのだと思い込んだ眞白は目を丸くする。

 振り返ってその表情を見た奈央はつくづく頼まれごとに弱いなと自分に呆れる。この数回の面談を通してアシスターは徐々に娘のような、面倒を見てあげたくなる存在に変わりつつあった。

 七里ヶ浜に向かう道中の交通量は多く、信号で止まる度に眞白はいつも通り話し掛けた。

「やっぱり、寒いですね」

「呼び付けたのはどこの誰よ」

「……奈央さんの家には、どうして浩一郎さんの写真が飾られていないのですか?」

 脈絡のない質問。自由人というあだ名で呼んでやろうかと、奈央は溜め息を吐いて答える。

「写真があると色んな感情が入り乱れて複雑になるの」

「たまに見たいなとか、思いませんか?」

「思うわよ……でも見ない」

「では、最後に見たのも随分と前ですか?」

「そうね。携帯には写真と動画が残ってるんだけどね。見ないようにしていても間違って目に入っちゃうことがあるくらいかしら」

「浩一郎さんの顔は思い出せますか?」

「……ええ」

「では、声は……どうですか?」

 ――声は、声は……。

 どうだろう。脳で再生する声は曖昧で、不鮮明で、思い出せるとは言えなかった。

 二人が乗った車は国道を走って十分程で七里ヶ浜に到着。海岸沿いの駐車場が既に閉まっていることを知っていた奈央は、二十分まで無料で停められる近くのコンビニの駐車場に停めた。

 ただそれだけの事でさえ懐かしく感じる。前に二人で来た時もここに駐車したなと。

 車から降りるなりアシスターは「浜辺の方に行きましょう」と手を握ってきた。じかに人肌に触れるのも久しい。眞白より小柄な彼女にとって、その手は大きく、温かい。

「ちょっと、手なんて繫がなくても行くってば」

「暗いですから、こっちの方が安全ですよ」

 気持ちは強引に、引っ張る力はそっと優しく。浜辺へ続く階段を下りると、あの日と同じ景色が広がる。

 三日月で空は暗く、星がよく見える夜。

 冷たい潮風、歩く度に沈む砂浜。

 寄せては返す波のさざめき、車が走る音。

「奈央さん」

「……」

「見てください、星、すごいですね」

「……ええ、そうね」

 眞白は唐突にバッグの中から水色の包装紙に包まれた箱を取り出して、奈央に差し出す。

「これ、何?」

「プレゼントです。奈央さん、一日早いですけど、お誕生日おめでとうございます」

「私に? いいの?」

「この前のお返しです。気に入って頂けるか不安ですが」

「ここで開けても、大丈夫?」

 奈央が訊くとアシスターはゆっくりと二回頷いた。

 包装紙のテープを丁寧にがし、白い箱を開けると写真立てが入っていた。L判サイズの、全体がクリアでシンプルなデザイン。写真立てを贈る意図は一つしかないだろう。その意図を読み取ったことで感情のかくをきたし、素直にありがとうと言うことが出来ずただ眺めているだけだった。

「飾ってあげてください。浩一郎さんの笑顔を」

「……気持ちは嬉しいけど、余計なお世話よ」

「……そうですよね。ごめんなさい」

 思っていたものと違う反応を見せられた奈央はがゆくなり、続けて言う。

「大体、どうせだったら明日にすれば良かったじゃない。なんで今日なのよ」

「明日は、曇りなのです」

 暗い水平線の方を見つめて答えるアシスターを見て、奈央はもしかして、と彼女の言動を思い返す。アシスターから面談日の指定をしてきたこと。それも、面談日の三日前に。

「本当は誕生日当日でしたら良かったのですが。天気はどうにも、変えられませんので」

「……無神経なこと言ってごめんなさい」

 そう謝る彼女に「いいえ」と一言。

「浩一郎さんの声を、思い出せますか?」

「今なら。今なら思い出せそうな気がする」

「それではこの星を見て、この波の音を聴いて、どうか思い出してください」

 言われた通り、目を閉じて追憶に寄り掛かれば、あの日に戻れるのではと錯覚するほど酷似していた。そう思えば思うほど、目を閉じることを恐れて二の足を踏む。

「どうして、こんなことするの。写真立てとか、あの日と同じシチュエーションとか」

「もう二度と、忘れてほしくないからです」

「……何よ。私が忘れたって言うの? 忘れてないわよ。忘れた事なんて、一度もないわよっ!」

 声を大きくする彼女を見ても眞白は動じないまま続けた。

「忘れています……大事なことを。浩一郎さんは、絶対に帰ってきます!」

 彼女の前で初めて大きな声を出した。言ってみて、苦しかった。あまりにも、彼女にはあまりにも残酷な言葉だと分かっているからこそ苦しくて、奈央より先に涙を流して手でぬぐう。

「浩一郎さんは、噓が嫌いだったと……仰っていましたよね。馬鹿正直なくらい、噓が嫌いだった……違いますか?」

「……」

「一度だけ。一度だけでいいですから。目を閉じて、もう一度だけ思い出してください。あの時の『必ず帰るから』と言った浩一郎さんの声を」

 眞白は涙で濡れた手でもう一度彼女の手を包み込み、目を見て頷く。「大丈夫、出来ます」と。

 奈央はゆっくりと目を閉じ、その拍子に涙がゆるりと流れ落ちた。


 ――大丈夫だよ、必ず帰るから。


「噓を吐くのが嫌いな浩一郎さんのことを、噓吐きにして良いのですか?」

 目を閉じていてもアシスターの表情が分かる。その優しい声は微笑みながら、そして涙を零しながらのささやきだと。

「帰ってこないから死ぬ――いいえ、違うと思います……。いつか帰ってくるから、奈央さんがずっと待ち続けて……そうしないと、ほら、浩一郎さんが噓を吐いたことになってしまいます」

 そして眞白が探し出した答えを確かめる。


「愛している人を噓吐きにしないこと。それが奈央さんの生きる意味なのではないでしょうか」


 目を開けた奈央はこらえきれず、子どものように泣きながら彼女に抱き付いた。

「なんっ……で……どうし、て……おいてっ……」

 上手く言葉にならず泣く彼女を、眞白は両腕でそっと包み、頭をでる。

「……ずっと…………わ、わたしっ……」


 ずっと、待ってるよ、コウ。

 帰ってきたら、どこへ出掛けよっか。

 またガトーショコラ作ってあげるからね。

 誕生日プレゼント、今度は何がいいかな?

 そうやって、ずっと写真を見ながら待ってるのに。

 でもきっと、初めて……噓吐いたのよね。

 写真ばかり見てないで、そろそろ現実と向き合わないと――。

 そうだ、いつの間にか自分の気持ちを忘れていた。

 最初は現実逃避を。その後で現実と向き合おうと思っても、写真を見るとまた過去に浸って。

 写真を見なければ向き合えると思っていたのに、結局安楽死制度という自死の免罪符にすがった。

 だから何度も同じ夢を見ていた。


 ――もう待たなくていいぞ。


 世界で一番見たい優しい笑顔の彼が、世界で一番悲しい言葉を告げる夢。

 忘れてはいけないことを忘れさせて楽になるための、自分にとって都合がいい夢。

「ねえ」

 奈央の小さい声はしっかり聴こえたが眞白は敢えて反応しない。

 意地悪ではなく、星空を見て発する言葉が自分に向けられたものではないと分かっているから。

「……ずっと、待ち続けるからね」

 寂し気に呟く横顔を見て、奈央も実のところ分かっているのではないかと眞白はうつむいた。

 苦肉の策で彼女のために吐いた、悪意の無い白い噓も。

 彼女の恋人を噓吐きにしないために、眞白自身が噓吐きになってしまったことも。

「思い出させてくれて、ありがとう」

 奈央はまた眞白の胸に顔を埋めて言った。


   * * *


「まし……じゃなくて遠野先輩。『ホワイトライ』って知ってますか?」

 あれから三年後の二〇三九年。眞白は後輩のアシスターに質問されてドキッとした。

「ホワイト、ライですか?」

「直訳すると『白い噓』。この前読んだ本に出てきたんです」

「そうですか……」

「傷付けるためとか、だますための噓じゃなくて、相手を尊重した優しい噓のことみたいです。なんか、素敵だなあって思って」

 後輩の言葉を聴いて奈央に吐いた噓と、あの時の胸の苦しみをはっきりと思い出す。

「素敵ですか……でも安易に使うものではないですね。噓は噓で、ずっと引きりますから」

 眞白は知らなかったフリをした。

「たしかに。それに、噓を言わない先輩には無縁ですね」

「……」

 もう噓は言いたくない。

 眞白はまだ、胸に後悔を残したまま。今でもあれで正しかったのかと自問することがある。

 出来ることなら、白い噓も吐きたくなかった。

「先輩?」

「……そうそう。つい最近、近くにパティスリーがオープンしたので行ってみませんか?」

「パティスリー? 急にどうしたんですか?」



 藤沢市の小さなパティスリー。彼女は自分の店を持つという一つの夢を叶えた。

 REN取得申請を取り下げたのはもう三年も前のことになる。部屋に写真立てを飾った時、再びパティシエとしての人生をやり直そうと決めた。開業費はかさんだものの後悔はない。

 奈央は今思う。

 あの時、死にたかったわけではなかった。ただ、生きる意味を見失っていた、それだけのこと。

 一見単純な答えなのに、一人で見付けることは出来なかった。出来なかったから安楽死を希望した。そのことに間違いはない。そして申請したことも間違いではなかったと思っている。

 人生とは時に複雑で、時に単純で、ほんの些細な出来事が大きく人を変えてしまう。そういうものなのだと年下のアシスターが気付かせてくれた。

 ――変な子だったけれど一緒にいて楽しかった。でも。

 でも、彼女と離れてから一つだけずっと心残りがあった。

 一度も名前を呼んであげなかったな、と。

 いつかまたどこかで再会出来るのなら、その時は名前を呼んであげよう。

 そう心に決めて今日も変わらずお菓子を作る。

 目が合ったらきっと彼女はこう言うだろう。


「こんにちは、遠野眞白です」


 店に入ってきた彼女は、あの日と変わらない透き通る声で挨拶をした。

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レゾンデートルの祈り 楪一志/IIV編集部 @IIV_twofive

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