星空と白い噓(2)
* * *
学生の頃から
下積み期間はお菓子作りなどさせてもらえず、誰でも出来るような雑用がメインだった。
少し慣れ始めた頃から日中業務が終われば練習のために残業を重ねる日々。
それでも日々の
プライベートではパティシエというワードの受けが良く、そのお陰もあって勤めてから数年の間に交際をした相手は三人いたが、結局どの相手も長くは続かなかった。
そうして奈央にとっての男に対するイメージはいつしか、我が儘な生き物となった。
そこまで仕事一筋だった彼女が帰郷することになったのは二十九歳を迎えた年の梅雨の季節。
勤め先が倒産した。その日も一日中しとしと雨が降っていたのを今でも覚えている。当時、二度目のJARSが流行したことを引き金に人々の生活様式は大きく変化した。不要不急の外出を控える動きから消費の流れは
無論、十年超の経験を活かしてパティシエとして東京に残る選択肢もあったが丁度その頃、父の
奈央の両親は幼い頃に離婚。元より、男手一つで育ててきてくれた父親のことを想えば帰郷する機会はこの他にない、と考えた果ての最善の選択だった。
仕方ない。仕方ない。仕方ない。
頭の中を『仕方ない』の一言で埋め尽くした。それ以外の余計な後悔が入る
帰郷した当初は落ち着くまでの間と思い、父が住んでいた藤沢駅付近のアパートに転がり込み、仕事は正社員として働き口を見付けるまでの
何もかもが、とりあえずの埋め合わせ。言うまでもなく物足りない日常。
休日に時折作るお菓子を父親は申し訳なさそうに美味しいと褒めてくれた。糖分を控えめにしたお菓子は奈央にとってはそうでなくとも、父親にとっては美味しかったらしい。
――仕事大変だったから。そろそろこっちに帰ろうと思ってたから。
そう言うと父親は寂し気な表情で「そうか」と言い、質素な味のお菓子を口にした。
美味しいと喜んでもらえる
だが、その頃は人手が足りないというパティスリーは見付からなかった。藤沢市だけではない。
ウイルスに支配され外国からの襲撃を受けることもあった状況下では、人々にとってお菓子は二の次にも及ばない存在。とは言え、一人で開業するリスクが怖く、貯蓄も
どうしようにも環境を変えられない。変える勇気がない。そんな自分の無力さを実感した。
気付けば木々が纏う緑も暖色に染まり、季節は移ろっていた。日に日に抱えるストレスを発散するために通うようになったのは友人が経営するショットバー。
ある夜、奈央はバーで一人の男と出逢うことになる。仕事で客にクレームをつけられた
勤め先からの帰り道に漏らした溜め息の数は軽く十回。
「奈央がビール飲むなんて珍しいな」
小学生の頃からの友人であり、今はマスターの
奈央が座るのは決まってカウンターの角席。ボックス席も含めて全て埋まれば二十人分くらいのスペースはある、ほんのり照明の暗い店。
水曜日の九時過ぎ、他に客はいなかったため、奈央は慶次に仕事の
「……だから、そんなの正論過ぎるって。私だけ悪いみたいじゃない」
「まあほら、もう気にすんなって……いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
話を中断して入り口の方を見た慶次につられて、奈央は視線を追った。
一人の男が不慣れな様子で店の中を窺いながら「ええ」と頷いていた。
――この店に新規のお客さん来るんだ。
奈央はすぐにカウンターのビールへと視線を戻して手に取って、ごくりと一口分、喉を鳴らす。
先程の態度と打って変わって事務的な説明をする慶次。マスターらしい一面に奈央は少しだけ口元が緩んだ。慶次は新規の客におしぼりを、続いてビールを注いで渡す。その流れでカラオケのリモコンを奈央の席へ持ってきて「ほら、歌えよ」とニッと白い歯を見せる。
二人のやりとりを見ていたのか、先ほどの客が話し掛けてきた。
「お二人は、ご友人同士なんですか?」
「ええ、小学生の頃からの付き合いでして」
躊躇うことなく反応する慶次に、さすが接客慣れしているマスターは違うな、と感心する。
男は「そうなんですね」と言って
「ここ、常連さんばかりで。平日はいつも
「落ち着く雰囲気のお店ですし、僕は静かな方が好きですよ……ああ、歌はぜひ歌ってください」
男は奈央の目の前にあったリモコンに手のひらを向けた。
面長の顔は、もう秋だというのに焼けている。
彼は
「びっくりした、すごくいい声ですね!」
「とんでもない」と照れ隠すようにソルティドッグを頼み、奈央は残っていたビールを飲み干す。
「野木さん、この曲、知ってましたか?」
「いや……知らなかったです」
「やっぱり。知ってる曲の方が楽しいですよね」
自分の好きな曲の認知度は低い。実感して少し残念に思いながら、次に何を歌おうか考える。
「そうですか? 好きな曲歌いましょうよ! 僕も知らなかった良い曲と出会えるチャンスです」
「……そう?」
周りを気にする必要はないと言ってくれているようで、奈央は嬉しくなった。
それから常連客が来て賑わってきた後も、浩一郎は奈央の歌に聴き
「いやー、羽柴さん、ほんと上手いですね!」
浩一郎は何度もうんうんと頷きながら褒めた。慶次も含めて皆が
「さっきから大袈裟ですって、普通ですよ、普通」
奈央は酔いが回っていたが出来るだけ謙虚さを崩さず、けれどもやっぱり照れていた。
「いやいや。なんて言うか、こう、上手いと言うか……声が本当に、いい」
「もう、褒めるのいいから、野木さんもほら! 私が知らない曲、歌って教えてくださいよっ」
奈央は気の張らないひとときを過ごし、退屈だった日々にはなかった、表情豊かに楽しめるあの感覚を久しぶりに味わった。
* * *
「彼の仕事――自衛隊員だったんだけどね、仕事の話を聴いたり、あとは好きな映画のこととか。それから『こんな時間まで飲んでて奥さんに怒られないの?』って訊いたら未婚だってことが分かって、私も未婚だって打ち明けた時には変に盛り上がったわ。久しぶりに楽しいなって気持ちになって、その場で連絡先を交換してね。心の中ではどうせ連絡なんて取ることないんだろうなとか、結構失礼なことも思ってた。でも次の日に早速連絡がきて、最初に一緒に出掛けるまで一週間もかからなかったの。それから……」
「奈央さん」
アシスターから突然、苗字ではなく名前を呼ばれて話を中断する。
「……うん?」
「ゆっくりで、大丈夫ですよ」
気付けば目が
「そう、ね……ありがとう」
「悲しい……ですよね」
眉尻が下がるアシスター。奈央にはありきたりな同情の言葉でしかない。
「……当たり前でしょ」
奈央は悲しみを
どうしてこんなにも勢いを止めることなく話したのか。
そうは思いながらも、話している間ずっと頷きながら聴いているアシスターを見て、彼と重ねてしまった他に答えは見当たらない。こんな風に浩一郎のことを誰かに話すのは久しかった。
「でも、奈央さん、笑っていますよ」
「……ほんとバカね。これが本当に……心から笑ってるように、見える?」
これ以上涙が流れないようにと鼻をすする奈央の仕草が、我慢強い人だと眞白に印象付ける。
唇をグッと嚙んでいたアシスターは、ゆっくりと口を開いた。
「あの……今、何かが動き始めたような気がしませんか?」
「動き始めた?」
その時、眞白は自分の経験を振り返っていた。
専門学校を卒業した日、電車の中で陽菜と思い出話をした時のこと。あの時は一人で頭に浮かべるより、陽菜と話している方が具体的に思い出すことが出来た。
当時の風景や、家族との会話の一つ一つを鮮明に。
「私もよく昔の楽しかったことを思い出すのですが、誰かに話しながら思い出すと何故かいつもより思い出が綺麗に浮かんで見えます」
「……」
「一つ一つの情景が鮮明に。表情や声色や仕草、一緒に行った場所、食べた物。それまで思い出すことがなかった、奥の方で眠っていた記憶がどんどん……浮かび上がってきませんか?」
「……そんなことないわ。一人でも、思い出すことくらい、出来るわよ」
奈央は首を横に振る。
「そうですね……それでも、これからも話してくれませんか?」
奈央はその言葉を聴いて、浩一郎の人柄と似ている部分を感じた。
――彼もそんな人だった。私とは違う、主張に対して否定から始まることはしない。一度受け入れた上で自分の意見も交えてくる、優しくて時々ずるいなと思わせる人。
「奈央さんが思い出す時に、
彼女は透き通った声で言って、優しく微笑んだ。
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