第一章 星空と白い噓

星空と白い噓(1)

 どうして戦争は繰り返されてきたのだろう。あれやこれやと思慮に思慮を重ねたとして結局のところ帰結するのは『争いごとはよくない』という感覚でしかない。人々はそのまぎれもない感覚を、おおよそ両手の指で足りるか足りないかくらいの年頃から覚えていく。

 食糧が不足しているなら分け与えて共に生きるべきだ、という温かい想い。

 争いから生まれるのは憎しみしかない、という正義。

 誰かの大切な人の命を奪ってまで生きたくない、という自己犠牲の心。

 命ある者すべてがそうなれば、きっと平和で素敵な世界になるに違いない。

 もうじきの坂を越えるしばも昔はそんなな少女だった。

 ――もう待たなくていいぞ。

 世界で一番見たい優しい笑顔の彼が、世界で一番悲しい言葉を告げる夢。

 夢の中ではその言葉にがえんずることなく首を横に振っているのに、目を覚ますと忘れている。ただ何となく彼の夢を見たような曖昧な記憶だけを残し、目を覚ますのは決まってうしどき

「もう、秋か」

 冷房無しでも室温が程よく過ごしやすいことに気が付いた十月初旬。不眠で悩まされることなど一昔前まではなかったのにと立ち上がり、手洗いに行く。用を済ませて洗面所の電気を点ける時、まぶしい光に目を細める。

 少しずつ光に慣れてから目に映るのはいつの日もさいな思い出たちだった。

 取り残された二つの色違いの歯ブラシ。三面鏡の収納にはメンズのシェーバー、ヘアワックス、ヘアスプレー。ハンガーに掛かった茶色のフェイスタオル。

 どれももう使われなくなって数年が経ったというのに、置かれた物はあの頃から何も変わっていない。必要とされなくなったのは私だけじゃないと、いつしか仲間意識を持つようになっていた。

 ――もう諦めていいのよ。

 目の前の鏡に映る自分からそんな声が聴こえる気がするようになって、幾月も経過した。

 いつの間にか貧弱にせ細り骨張ってしまった身体からだも、つい数年程前までは魅力的な曲線美を活かすタイトめの服装が似合っていた。得意だったお菓子作りは止めてから五年経つ。

 ――このガトーショコラ、本当にい。今度また作ってほしいな。

 そんな風に温かい言葉で褒めてくれたあの人の声を、日が経つごとに鮮明に思い出せなくなっていく。その度にしょうそうかんに駆られる自分がみじめだった。いざとなれば携帯電話に保存された動画を見て表情や声を感じられる。それにも関わらず記憶にこだわってかたくなに見ようとしなかった。

 今の自分は中身も外見もとても褒められたものではないと分かっている。

 鏡に映る自分はもう昔のような自分ではなく他の誰かになってしまったのだ。

 そう錯覚することでしか冷静さを保てなくなったのは、美を失ったからではない。

「もう、楽になりたい」

 愛する恋人を失ってしまったからである。

 そんな彼女は、今日出会うアシスターが独り立ちしたばかりだとは知らなかった。

「……こんにちは」

 初めて訪れたラストリゾート。受付員に案内されるがまま入ったのは想像の斜め上をいく綺麗な部屋で、意表を突かれた奈央は戸惑いながらつぶやくようにあいさつをした。

 声が小さ過ぎたのか、はたまた部屋に誰もいないのか、挨拶は返ってこない。

 奈央はつい先日REN取得申請を市役所の幇助課に提出したばかりだった。これから一年間という長いのか短いのか分からない時間の中で、アシスターと面談を重ねなければならない。

 早く楽になれたらいいのにと思う彼女にとっては、考えるだけでとても面倒なことだった。

 五階建ての施設の最上階、二十じょう程度の部屋の中は一言で言えば綺麗。床は白い大理石調で、天井には暖色のダウンライトとスポットライトタイプのシーリングライト。白い壁には大型テレビ。

 おそらく面談に使うであろうダイニングテーブルは四人用。これもシックな天然石調で、椅子は対面で一つずつしかない。ぜいたくな二人暮らしのリビング、そう表現するとしっくりくる。

 壁の三分の二を占める大きな窓は南向きで、水平線を望むことが出来た。

 窓に近寄ってみると江ノ島がなつかしく目に映り、奈央は過去を重ねる。日が高い時間に海を眺めるのはいつ以来のことかと記憶を辿たどっている最中、背後でドアの開く音がした。

 音を立てたのは女――大人になるもう一歩手前の女の子と言った方が適切か。

 純白のフリルブラウスに、足首まである淡青色のロング丈スカートをまとったせいなスタイル。

 彼女は目が合うなり「あっ」と声を出して一瞬固まった。

「すみません、もういらしてたんですね」

「……はい」

 彼女は抱き締める様に持っていた薄型の電子端末をまじまじと見てから顔を上げた。

「羽柴奈央さん。お名前にお間違いはないですか?」

「ええ」

「ありがとうございます。本日から担当させていただく、アシスターの、遠野眞白と申します」

 不慣れなのか緊張しているのか、たどたどしさのにじみ出る話し振りで少々不安だ。

「よろしく、ね」

「よろしくお願いします。どうぞ、お掛けになってください」

 アシスターにうながされて腰を掛けると、それを確認した彼女が向かいに座った。一応、マナーはしつけられているらしい。

 それにしても肌が透き通るように白く、健康的な細さだ。顔も綺麗、なのに。

 服の色とは裏腹に表情が少し暗いのが残念だった。

「……」

「……」

「羽柴さん」

「なに?」

 テーブルや、横の方に視線を逸らすアシスターの仕草が気にさわって仕方ない。

「……なによ」

「私、羽柴さんに寄り添えるように頑張ります」

 言えた喜びなのか、彼女は薄ら微笑ほほえんでいた。少しぎこちなさが残っているが、その気持ちが切に伝わるような、どこか寂しげな瞳に悪意は無いのだろう。

「まだ何にも知らないでしょう、私のこと」

「はい。だから知りたいです、羽柴さんのこと。どうしてここにいるのかを」

「……随分ぐいぐい来るのね」

「ご迷惑でしたか?」

「ケースバイケースよ。あなたはあなたで仕事だもの、仕方ないわ」

「……承知しました。えっと、羽柴さんには今日を含めて最低十回面談をしていただきます。もしお望みであれば途中でアシスターを変更することも可能ですので、遠慮なさらないでくださいね」

「そんな制度あるの? 知らなかったわ」

「私どもアシスターは、申請された方のお気持ちが第一優先です。ご要望にお応えします」

「ご要望、ね」

「はい。出来る限りのことであれば何でもいたします」

 ――要望なんて何もない。言えばかなうほどの些細な要望なんて。

 言いかけて、でも閉じ込めて、話題を変えようとした時に一つ疑問が浮かんだ。

「ちなみに十回以上の面談って、今日から連日、十日間面談しても条件は満たされるの?」

「一応、そういうことになります。ですが申請が受理されてから一年間はREN取得出来ないですし、一年後の最終日の翌日から三日以内には必ず最後の意思確認面談があります」

「なるほど」

 それなら敢えて早く面談を済ませるメリットもない。今後どのくらいのひんで面談をしていくことになるのかを考えてみても、やはり月に一度くらいが一般的だろうと思う。

「逆に、中にはぎりぎりになってからまとめて十回面談する方もいるみたいです」

「みたい、っていうのは聞いた話ってことね?」

「私はまだ経験が浅いので……」

「そう」

「あの、早速で申し訳ないのですが、羽柴さんはどうしてREN取得申請を出されたのですか?」

 せんさいな事柄にも遠慮せずしつけな質問をしてくる彼女に、やっぱり礼儀をわきまえていないのかと考え改める。

「その前に一つ確認なんだけど、本当に知らないで訊いてるの? 私、申請する時に書いたんだけど」

「ええ、存じ上げません。理由を書くのは幇助課が申請を受理するためのものであって、アシスターが事前に情報を入手するためではありません。申請書の注意書きにも書いていたかと……」

 奈央は確かにその注意書きを覚えていた。しかし彼女の疑い深い性格上、あんなものは形式的なもので事前にアシスターへ流出しているのだと、信用出来ないのは仕方がなかった。

「そう。それじゃあ例えば私が話さなかったらあなたはどうするつもりなの?」

「えっと、今は……浮かびません」

「えっ?」

 安楽死希望者を前にして最初から浮かばないと断言されるとは思っておらず、理解に苦しむ。

「……話したくないことを強制するわけにはいかないですから」

「まあ、それはそうだけど。あなた方の、アシスターのルールとして強制出来ないの?」

「いいえ、そういう訳ではありません」

「じゃあ、あなた自身のやり方ってこと?」

「一応今のところは……まだはっきりとは決まっていませんが」

 奈央は困り気味にこめかみの辺りを搔いた。頭の中で整理している最中にも構わず眞白は「でも、知りたいです。出来ることなら」と続けるが、それが更に奈央を困らせているという自覚は無い。

「あのね、あなたっていくつなの?」

「今年で二十歳になります」と返答する彼女に、奈央はあきれて鼻で笑う。

「まさかとは思ったけど驚いた。ハタチにもなってないのね。ついでにもう一つ確認なんだけど、今まで何人と面談してきたの?」

「……今日が、羽柴さんが、初めてです」

 うそでしょう、と呆れたままの笑い顔で固まる奈央。同時に発言の違和感にも納得出来た。

「あのねえ。私の半分しか生きてない子に死にたい理由なんか話してもしょうがないでしょう」

「死にたい理由を聴くことに年齢は関係ありません」

けん売ってるの?」

 早速アシスター変更制度を使ってしまおうかと頭に浮かんだ時、アシスターはあわてた。

「いえ、違います、申し訳ありません。お言葉ですが私たちアシスターも希望者の方々を選ぶことは出来ないのです。年齢といい、経験といい、未熟者であることは本当に申し訳ないですが」

 真面目で、少し焦りながら、それでいて済まなそうな表情へと変わるアシスターを見て、自分も大人気なかったとかえりみる。

「……まあ、どうせ死ぬんだからね。別にあなた一人に話したところで何の支障もないわ」

 話をする気になった奈央は背もたれから背を離し、前屈みになってテーブルにりょうひじをついた。

 そして、すうっと鼻から深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

「えっと、どこから話せばいいかしら」

「全部です。全部、聴かせてください」

 呼吸一息すらいれなかった。

「ほんと、あなたって遠慮ないのね」

「……はい。そうしないと私がいる意味がないですから」

「いても何も変わらないと思うけど」

「たしかに、特別なことは出来ないかもしれません。その代わりに、奈央さんが吐き出せなかったことを全部受け止めます。ゆっくり、全部です」

「……」

 受け止めると言いつつ強引な姿勢も、まだ仕事に慣れていないからなのだろう。

「私の好きだった人が、もう帰ってこないの。きっと、この世にはもういない」

「えっ? いない……ですか?」

「ええ。色々あってね。まあ、順を追って話すけど……その人と付き合っていたの」

「そう、ですか……ご結婚はされていなかったのですね」

「恥ずかしい話だけれど、私、結婚したことがないのよ」

「別に、恥ずかしいことではないと思います」

「私の年齢くらいは知っているでしょう? 知らなかったとしても、この見た目で想像付くと思うけど」

 眞白は奈央を見つめた。自分よりも細いその身体は健康的に維持されたものとは言い難かった。

 ほおけ、瞼は窪み、唇はカサカサに乾燥している。おうとつのハッキリしない化粧映えしそうな塩顔ではあるが、少なくともここ最近メイクをしていないことが想像出来るくらいがなかった。

「三十九歳、ですよね」

「そこは知ってるのね」

「一応、最低限のことは伺っております」

 ――だったら死にたい理由は最低限の情報じゃないとでも言うのかしら。

 そう思いつつも仕方なく、未熟なアシスターの望み通りに、戻れない過去を語り始める。

「JARSさえ流行らなければ、こんなことにはなってなかったのに」

 そうすれば失う悲しみだけでなく、始まりの出逢いさえ――何もかも無かっただろう。

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