プロローグ

プロローグ(1)

 平年よりも遅くに感じた春の匂い、始まりの季節。こよみの上では春分を迎えて一週間が経ち、学生生活を終えた二人は、夕方のしちはまで海をながめていた。

 彼女達が住むがわけんふじさわと言えばしまを有する観光都市。名前だけで言うなら、実際には藤沢市より江ノ島の方が随分とよく知られている。

 江ノ島が浮かぶしょうなんの海では強い風が吹けば海面は波を立て、ウェットスーツ姿の人々はサーフィンにふける。日が沈む頃には、淡い青から燃えるようなオレンジへといろどられるグラデーションの空が、あまの人々をとうぜんと酔いしれさせてきた。

 今年で二十歳になる彼女、とおしろも海が好きだった。でも潮風はあまり好まない。長いストレートの黒髪が潮のせいでゴワゴワとして、櫛ぐしの通りが悪くなるのをきらう。どちらかと言えばひとの少ない、音も静かで、風もいだ夜の海を好んだ。

 彼女が海に居れば周囲の男は口をそろえて『絵になる』と言う。その名の通り透明感のある白い肌に一六八センチメートルの長身細身。まつの長いふたまぶた、鼻は高くも低くもないが唇は形がれいだ。上唇の山は曲線がはっきりと、下唇は厚過ぎずふっくらと。

 整っているのに明るい表情を見せることは多くない、宝の持ち腐れである。十九年と少しを生きてきて未だに克服出来ない人見知りや、けんそうを苦手とする大人しい性格。

 その性格ゆえ静脈が浮かび上がる白い肌と、背の高さにコンプレックスを抱いていることを人には言えずにいた。今、隣に座っているやながわを除いて。

「自信ないなあ……」

 無意識にれた心の声。そんな眞白の弱音に対して陽菜は息をするように返事をした。

「あたしも、自信なんてないよ〜」

 何となく同調するために言った、とは思えないほどの即答に不意を突かれて、横を向くと目が合った。

 眞白とは正反対と言っても過言ではないくらい、いつもよく笑う彼女。人の話を聴く時に相手の意識を吸い込んでしまいそうなくらいまじろぎせず見つめる瞳はあんかっしょく。小鼻のふくらみは人より少ししっかりしているが大きいわけでもなく、どちらかと言うと笑った時に見せる八重歯が特徴的。

 そんな彼女が珍しく寂し気に見えたが、憂いの表情は黄昏たそがれどきによく似合う。

 陽菜の栗色の髪が見られるのは今日で最後だ。せっかく元気の良い陽菜に似合っていたのにと思いつつも、自分達がこれからく職業のことを考えれば仕方ない。

 潮風に揺れたポニーテールスタイルを見ながら、眞白は少し寂しく、けれど楽しみにしていた。

「だよね。自信なんて、あるわけないよね」

 陽菜の言葉を落とし込むように眞白ははんすうした。

 自分とは対照的な陽菜。同じ気持ちだったことを確認出来た眞白はホッとする。

「昔さ、人って死んだらどこに行くんだろうって思わなかった?」

 浜の砂を人差し指でいじりながら、眞白は問い掛ける。

「あー、思った、思った! なんとなくだけど天国は雲の上にある、もう一つの世界みたいなイメージがあったかな。死んだら空に昇って新しい国で生きていくんだ〜、って」

 さっきまで浮かない表情をしていた彼女は少しだけ普段の明るさを取り戻す。

「分かる。私のイメージもそんな感じだったな」

「眞白も? でもさ〜、実際本当にどうなるんだろうね。今考えてみても分かんないや」

「私は、消えてなくなるなんていやだから……空に昇っていくイメージのままでいいかな」

「そうだね……あたし達ほんとに『アシスター』になるんだ。これからやっていけるのかな?」

 陽菜は座ったまま一度天をあおいだかと思えば、すぐに顔を下へ向ける。不安を潜ませた一言に対する答えが見付からず、眞白が目をらした先には今を楽しむ人々がいた。

 海でサーフィンをする者。江ノ島を被写体にカメラを構える者もいる。

 誰もがうっとりする綺麗な景色でさえ、今は少し胸を締め付けた。

 ――あの人には生きる意味も死ねない理由もなかったのだろうか。

 これから『安楽死希望者』と面談をしていく眞白はそればかりを考え込む。


 今日、二人は『安楽死』による最期の瞬間をたりにした。

 目の当たりにしたと言っても画面越しの出来事である。ただ、いくら専門学校の講義だとしても刺激が強すぎた、と陽菜は言った。確かに眞白にとっても衝撃的だった。

 安楽死をするための薬を飲んだ後、数分間は話すことや手を動かすことが出来る。覚悟を決めて眠りに就くまでのその数分はまさに生と死のはざ

 眞白にはそれが、もう引き返すことが出来ない恐怖を感じてしまう光景にも見えた。

 これから〈じんめいほうじょしゃ=アシスター〉として使命をまっとうしなければいけない二人にとっての最後の試練でなかったら、目を逸らしていたかもしれない。

「こんなことくの本当に今更だけど、陽菜はさ、何でアシスターになりたいと思ってたの?」

「……んー。ごめん、眞白とか他の人達みたいにどうしても、って理由はない……かな」

「……そっか」

「けど、こんな時代だからまたいつどうなるか分からないじゃん? 生きてる間にかせがなきゃいけないなら、人のためになって感謝されて稼ぎたいっていうのが本音だと思う」

「なるほど、ね」

 その言い方が良いとは思わないが、陽菜の本音は人間らしくとうだと感じた。

 西暦二〇三五年、日本では既に〈安楽死〉が認められるようになっている。

 事の発端は、ある感染症の世界的な流行。今となっては、ほぼ終息して過去のことになりつつあるが、この数年で受けた影響は計り知れなかった。

 従来の風邪の病原体であるRSウイルスが変異した呼吸器の感染症で、第一発症者は日本人だったそうだ。感染力は強く、重症化した者が助かる確率は低かった。

 やっかいなことにウイルスにも種類がいくつか存在し、型と個々人の先天的耐性により症状が異なるとされ、専門家の間では人工的に病原が作られたのではと憶説も飛び交った。

 それゆえに二回目に流行した際、JARSジャルス(Japanese-artificial-respiratory-syncytial)Ⅱ型ウイルス=日本型人工的呼吸器合胞体ウイルスと称された。

 世界中から非難され、時には外国から襲撃を受けるようになった日本。

 そうして世の情勢に日一日と不安をつのらせるようになったこの国に生まれたのが〈安楽死制度〉。

 一人一人の生き方を尊重することが目的とうたわれた。

 人は自己の生命に対して異なる考えを持っている。生を授かることが選べないのであれば自分の命に終止符を打つという最期の決定権は自己に託されるべきである。

 それが新たな日本における国民のあるべき姿、とされるようになった。

 仮にJARSに感染せず健康で生きていられたとしても、突然誰かに襲われて命を落とすこともあった、それくらい不安定な治安。

 生きたくても生き辛い、死が幸せなのではないかと錯覚してしまうような、そんなかなしい世界。

 一人一人の生き方を尊重するなど建前であって綺麗ごとでしかなく、安楽死が認められるようになった背景を思い返せばそんなに美しい言葉で片付けることは出来なかったのではと眞白は思う。

「なんか、ごめん」

 不意に陽菜があやまる。ばつの悪さを隠す時だけ薄い唇をむのは彼女の癖だった。

「なにが?」

 理由を察しながらもつい反応で訊き返してしまう――自身のそんな性格を、眞白は嫌った。

「いや、眞白と違って不純だよね、あたし……。最悪だよ、ほんと」

「うーん、そうかな? 現実的、って表現が正しいと思うよ」

 そう言うと陽菜は照れくさそうな笑みを浮かべて「ありがと」と言う。

 眞白にとってアシスターになることは一種の罪のつぐないに似たもので、陽菜はそれを知っている。

 大切だった人を救えなかった過去。陽菜だけには、それを打ち明けていた。

 もう取り返しは付かないことだけれど、絶対に忘れてはいけない。そのために、専門学校に通ってアシスターの資格を手に入れたことで、罪を背負うスタート地点に立ったのだ。

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