第23話 十年越しのブーメラン
――切っ掛けは何だったのですか?
「夏前に起きたとある事件が引き金になりました。と言っても時間の問題だったのかもしれません。先程話したように様々なプレッシャーやストレスが積み重なった状態でしたので」
――なるほど。精神的に追い込まれていて、暴発しやすい下地が存在していたところに事件が起きたわけですね。その事件とは?
「私の住んでいたアパートの隣室で動物の虐待死事件がありました」
――七篠さん目線で時系列順にお願いします。
「暖かい日が続いて、さりとてエアコンを点けるにはまだ早いくらいの時期の話です。ある日、ベランダの窓を開けて涼んでいると、女の人の怒鳴り声が聞こえてきました」
――それが隣人の方ですか?
「はい。若い女の人でした。ダックスフンドを連れている彼女と何度かすれ違ったことがあるのですが、落ち着いた感じの方でした。会釈を交わす程度にしか関わりは無かったですけどね」
――怒鳴り声の内容は聞こえましたか?
「大きい声でしたので、少なくとも両隣と上には聞こえていたと思います。『はぁ? 私が悪いの?』だとか、『お前が先にやったんだろうが』なんて聞こえてきました。ヒステリックな感じです」
――それは頻繁に起こりましたか?
「私は家を空けることが多かったのですが、その私が頻繁に耳にするくらいでしたので日常的な行為だったのでしょうね。声も徐々に大きくなっていって、ある時から物を投げつけているかのような音が響くようになりました」
――苦情は入れましたか?
「いえ。私が寝るときに煩くしないのであればと気にしないようにしていました。ですが、それから徐々に激しくなっていきました」
――具体的には?
「怒鳴りながら雑誌や新聞紙のようなモノで何かを叩いているかのような音が聞こえるようになりました。バシッバシッと。それで、すぐ後にくぐもったような様なキャンキャンとかグフッとしたような鳴き声がしました。まるで生き物が咳でもし損ねたような、吠えようとして止めたかのような、そんな感じです」
――隣人女性は電話先の相手への怒りを飼い犬にぶつけていた?
「音から判断するとそうだと思います」
――それから何か行動に移されましたか?
「頻繁に繰り返されるので、まずは家でペットを飼っていた彼女に相談しました。すると、通報すべき、声をかけるべき等のアドバイスをされました」
――しましたか?
「最初は躊躇って行動に移せませんでしたが、隣人が散歩に出た際に思い切って声をかけました。すると、『最近粗相をすることが多いから躾をしている』と。そう言われてしまっては何も言い返せません。虐待は室内で行われていますし、証拠も何もありませんから。そして、それからの彼女は虐待と思しき行為をする際には窓を閉めるようになりました。窓を荒々しくピシャリと閉めた後に微かに怒鳴り声や叩く音が聞こえました」
――七篠さんの子供時代と同じで、手口が巧妙化してしまいました。
「はい、余計なことをしてしまいました。自らの経験があったにも関わらず馬鹿なことをしました」
――その後は?
「たまに挨拶する仲の近所の猫好きなおばさんに話をしたら、動物病院に相談してみると良いと言われました。それで、実際に相談に行ったら『動物は法律上はモノ扱いだから対応するのは難しい』と」
――警察に通報はしましたか?
「はい。相談してみましたが、証拠が無いとどうにもできないし、有っても介入するのは難しいと」
――私は以前、数十頭もの多頭飼いから飼育崩壊に至った事件の取材をしたことがあるので、その難しさは理解できます。明らかな証拠や、周辺住民からの多数の苦情があっても行政を動かすのは難しいです。現代でもそうなのです。ペット事件に対する社会的認知度の低い十年以上前で、しかも個人の通報で、何とか出来るような問題だったとはとても思えません。ましてや虐待は室内で行われているわけですから。
「そうかもしれません。でも、そう簡単に割り切れませんでした」
――それは、その出来事が七篠さんご自身の幼少期を想起させるからですか?
「そうだと思います。今までずっと淡々と話していますが、当時は音が聞こえるたびに胃が迫り上がるような不安感を感じていました。部屋をうろうろして、酷く落ち着きませんでした。きっと感情移入していたんでしょうね。『あの犬は毎日人の顔色を窺って、嵐が過ぎるのを待つように縮こまって生活していた過去の自分なんだ』って」
――その際に先程の離人症の症状が出ることは?
「ありました。この時期はしょっちゅうでした。先程の三つ目の仕事の際と、隣人が犬を虐待している時は特にです。というか、特にその二つが引き金になっていたのでしょうね。その内容を思えば皮肉な話です。酷い矛盾です」
――その後はどうなりましたか?
「無駄でも何でもとにかく何とか証拠を確保しなければと、レコーダーを購入して録音する機会を待ち構えていました」
――機会は訪れましたか?
「いえ、来ませんでした。今まで頻繁だったヒステリックな騒々しさが、まるで嘘であったかのように静かになりました。隣人の方はとにかく生活音が大きかったんです。ドアはバターンと閉めるし、ドスンドスン歩くし、深夜に洗濯機を回したりもしていました。ですが、それが一切無くなりました。それで、『あぁ、引っ越したのかな』と思ったんです。いえ、本当はそう思いたかっただけでしょうね」
――……。
「そんなある日、キッチンの排水口がいやに臭うことに気がついたんです。私は性格的には大雑把ですが、衛生面では結構神経質な方なので、排水口や生ゴミはこまめに掃除をしていたので不思議だなって思ったんです。でも、いくら掃除をしても、漂白剤やパイプ洗浄剤を使っても臭うんです。小蝿が無限に湧いてくるんです」
――……。
「それで、これは果たして自分の部屋だけなのかなと思って左右の住人に訊ねてみたんです。片方の男の人は何も臭わないと言っていました。ですが、反対の犬の飼い主の方はインターホンに出ない。これは、まぁ『だろうな』って感じでした。引っ越したと考えていましたからね。それで、さらに反対の、私の部屋から二つ隣の女性の方に訊ねてみたら、私と同じように悪臭に困っていると」
――どのような臭いでしたか?
「酷く饐えたような臭いです。夏場に生ゴミを長いこと放置したような感じです。日に日に酷くなって、それこそ鼻が曲がるようにキツかったです。それで、二つ隣の女性とその場で相談して管理会社に連絡をしました。『排水口から酷い臭いがして困っている。部屋の構造的に103号、つまり私達の間の部屋に原因があるのではないか。もしかしたら上の203の住人も困っているのではないか』と」
――どうなりましたか?
「間と上の住人に連絡をしてくれました。やはり上の住人も悪臭に困っているようでした。それから、管理会社さんによると、103の住人はどうやらまだ引っ越していなかったようです。しかし連絡はつきませんでした。それで、管理会社さんは連絡が付くまで三日待ってほしいと」
――三日後、どうなりました?
「いえ、三日なんて我慢できませんでした。あまりの悪臭で部屋に居られませんでしたから。排水口を塞いでもどうしようもなかったくらいです。それで、二つ隣の女性と共に管理会社に何度もクレームを入れました。何とか隣室を調べてくれと。しかし、向こうは『決まりですので』と頑なに拒否するんです。なので、『いいから一度来てこの臭いを嗅いでほしい。ただごとじゃ無いから。無理なら警察を呼ぶ』と主張しました。そこまでしてやっと来てくれた管理会社の人は、部屋の臭いを嗅いで『あぁ、これは酷いですねぇ』って」
――何だか他人事のようですね。
「ですよね。それで、管理会社の方が、103の住人にしつこく電話をしたり、インターホンやノックを連打していたのですが、それにも何の反応も無い。それで、私が裏に周ってベランダからその部屋を覗いてみたんです。すると、窓に飛び散った茶色い飛沫がまだらに付着しているのが見えました」
――窓の茶色い飛沫というのは酸化した血痕ですか? 怖すぎます。それを見てどう思いましたか?
「殺人事件かなと。それで、そのことを管理会社の人に伝えて『警察を呼んだほうがいい』と伝えたのですが、『それは困る。鍵を持ってくるからまずはこちらで確認させてほしい』と」
――警察沙汰になると物件の価値が暴落するから出来るだけ介入を避けたいということでしょうか?
「そうだと思います」
――それからどうなりました?
「管理会社の社員の方数名が土足で入って行きました。二つ隣の女性と私も気になってはいたのですが、中が見えないようにガードされました。暫くしてから出てきた彼等は『事件性は無い。しかし清掃作業が必要である。上と左右の住人には臭いについての補償は行う』とのことでした。清掃はその日のうちに入りました」
――詳しい説明は?
「その時は無かったです。後日、呼び出されて管理会社に赴いた際に、臭いに対する補償として家賃三ヶ月分を無料にすると言われました。もし出て行くなら、僅かではあるが金銭での補填はすると。しかし、代わりにこのことについては口外しないでくれと書類にサインを求められました。しかし、どうしても納得がいかなかったので、『何が起きたのかを教えてくれないならサインはしない』と言うと、仕方なくといった体で説明をしてくれました。端的に言うと、隣人女性は飼っていた犬を虐待死させて、そのままどこかへ失踪してしまったそうです」
――事件性は無いって言っていませんでしたか?
「そう言っていましたね。やはり法律上、動物はモノ扱いであると。そういうことなのでしょうね」
――サインはしましたか?
「しました。三ヶ月分の家賃が浮くのは大きいですから。二つ隣の方はすぐに引っ越しをされていましたけどね。まぁ当然だと思います。隣でそんなことがあった上に、清掃が入ったとはいえ臭いも暫くは続きましたから」
――その時の心境をお願いします。
「笑いが止まりませんでした」
――何故ですか?
「自分が滑稽すぎてです。私の幼年期の話を覚えていますか?」
――どのあたりでしょうか?
「近隣の方が声をかけてくれたあたりです。当時の私は、親切心から声を掛けてくれた方に対して『どうせ口だけで、何も出来ないくせに』とか、『中途半端なことをされると酷くなるから何もしないでいてくれた方がいい』だとか考えていました。それらの言葉が十年の歳月を経て自らに返ってきた訳です。〝ブーメラン〟です」
――実際にその立場に立たないとわからないこともありますし、どうしようもないこともあるのでは?
「それですよ。当時辛い思いをして、『自分だったらこうするのに』『自分なら絶対に見て見ぬふりをしないのに』という考えが根底にあったんです。それがこの結果です。何にも出来ないし、行動すらロクに起こせない。挙句には、当時一番嫌だった〝中途半端な介入〟を自らがしてしまうんですから。無力で、滑稽で、浅はかで、本当にどうしようもない人間ですよ。笑っちゃいます」
――ですが、先程『素人が介入するのは難しい』と言っていたじゃないですか。七篠さんも例外ではありません。あなたも被害に遭った経験があるだけの素人です。ご自身でもそう言っていました。
「ですが……」
――七篠さん、一旦落ち着いて下さい。取材の目的は七篠さんの言い訳や懺悔を聞くことではありませんからね。はい、深呼吸。
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