ニ
出会いはいつだって突然だった。
フェンスの外側からグラウンドを見ていた。
路風の野球部はびっくりするほど大所帯で、ずっと少年野球をやっていた身としてはわくわくするものがあったけど、入る気にはどうもなれなくて、ぼーっと目の前でちょこまか走る上級生を眺めていた。
何となく目に入った細身の先輩。
クラウチングスタート。あ、何か始まる。
グラウンドの国旗掲揚塔の前。控えめに線を引かれたレーン。塗装が剥げかけたハードルがずらり。
「へぇー、かっこいいじゃん」
小学校の体育でやったハードル。練習した人がやるとどうも別の競技になるらしい。
脚が ぐん と伸びたように見えた。
とたとたと走って、またぐように跳んでいた授業とはえらい違いだ。
ばか高いハードル。ハードルとハードルの間、足音はリズミカル。ゼロ、イチ、ニ、サン。身体を前傾。頭の位置がぶれない。右手はぐんと伸びる。無駄のない脚の抜き。
「……全然知らない競技じゃんかよ」
衝動的にフェンスの向こう側に走り出した。
入学したての身体には通学カバンが大きくて、背中でガタガタ音を立ててきしんでいた。袈裟懸けにしていたエナメルバッグも膝の後ろでバタバタ言ってる。ぶかぶかの学ランは土埃で真っ白だ。
名前も知らない先輩。彼と比べるなんておこがましいくらいにみっともない走り方をしている。
荷物が肩にくい込んで、足がもつれて、それでも早く会ってみたくて。
感動? 憧憬? 嫉妬? なんだっていいや。
言葉にならない心の内を伝えたい。
「あの! 俺もハードルやりたいです」
「入部する?」
すらっとした高身長。切れ長の瞳から想像できないくらい優しく微笑まれたらさ、
「はいります!!」
って答えるよね。
あの日が
***
「かける? 準備全部しなくてもいいんだよ?」
「ごめいわくでしたか!?」
「いやいや、すごくありがたいけど、」
「けど?」
「オレも手伝うからさ。後輩ひとりに仕事押し付けてるなんてバレたらさ、おっかない先輩みたいになっちゃうだろ?」
眉毛がきゅっと垂れ下がって微笑。
え、かっこいいんだが。後輩思いすぎるんだが。
「……いや、あの、ペーペーに仕事押し付けちゃってくださいよ。雑用なんて後輩の仕事なんで」
おろおろとハードルの高さを合わせながら応じる。
道具出しは負担でもなんでもない。自分が早く準備すれば先輩の隣を走れる時間がいっぱい取れるし、なんて言えるはずもなく。
「かけるくんや、、、道具出し競争をすることにしようか」
「……は?」
「よぉい」
この先輩何言ってるの? 競争?? どういうことだ。
「どぉおおん!!」
バッとグラウンドの土を蹴り上げ、一直線にゴール方向に向かって走る。10台目のバーをガチャガチャと直して、9台目に向かってダッシュ。
「やば! 負ける!!」
手早く2台目を直して、3台目に向かう。
グラウンドの隅っこ。
110メートルの直線にガチャガチャと錆び付いて、塗装の剥げかけた10台のハードルを躍起になって準備する自分たちは周りからどんな風に見えてるんだろう。
「かけるーおそいぞー!」
100メートル13秒そこそこの記録保持者が全力でインターバルの区間を駆ける。普通にカオスである。
中間地点である5台目に手をかけられた。
「オレの勝ちぃー」
ドヤ顔で高さを調節する高身長の上級生。ずっと顔はこちらに向けたままである。カオスである。
「……ま、まけたぁー」
俺、完全に諦め。パタパタと駆け寄る。
「ほぉーら、後輩ごときが道具出しなんてするもんじゃねぇーんだわ」
満面の笑みでガチャンとフック式のピンを締める。
え、イケメンに見える。
「……負けちゃったんで片付け頑張ります」
「えー!? そんなこと言わずに一緒にかたそうよー」
肩に手をかけ、体重を預ける。
中学生男子の1年の身長差を考えてみて欲しい。
「先輩、重い」
「えー!?」
ぎゅむ、と頬を摘まれる。
湿った砂と鉄の匂い。
思わず顔を顰めてしまう夕方の匂い。
「くっさ!!!」
噎せるほどに吸い込んで、身体中に巡っている。
何十回、何百回。何度だってグラウンドで息をする度に、俺はハードラーなんだって思えるのかもしれない。
──きっと、離れてしまった今でも。
満開の桜が囲むグラウンド。
日が傾いて、オレンジ色に染まり始めたレーン。
スパイクの足音。オンユアマークの掛け声、ラップタイムを刻む電子音、高跳のバーが転がる音。
空に溶けるグラウンドの雑踏で一際鼓膜を揺らすのは、やっぱり今も変わらない。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
まだあどけない前傾姿勢も、抜き足も、きっといつかの自分と同じで。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
真っ直ぐにゴールを捉えた顔は真剣で。
……何よりすごく楽しそうに走る。
グラウンドは広く見なければ。
ひとつに注目しちゃダメなのに。
あの人とは違う。自分も変わりすぎてしまっている。
それでも、それでも。
おろしたてのスニーカーで地面を蹴って、フェンスの向こうへ。
もつれる脚、喘ぐ呼吸。
動きたいのに動けない。苦しい。
みっともないだろう?
君に向かって走ってる俺は、数年前までここで走ってたんだよ。
「…ッねぇ!! 君!!
肩で息をする。ヒューヒューと音が鳴る。
走りながら咳き込む知らない教師が近付いてきて、しかもどんなナンパだよって話だよね。
「えっ、あ、一応」
「おれッ、陸部の顧問になった、波多野って言うんだけど、ッ! 君は!?」
「あ、はい、
「風の歌、聴こえる?」
俺にはもう聴こえない大好きな音。
110メートルの直線を振り上げた脚が、手が、空気を切り裂いて、ヒューヒューと柔らかな風の音が耳元でずっと響くんだ。
前傾姿勢で風に身体を預けて、自分が自分で無くなる感覚、君ならわかってくれるかな。
高井くんはゆっくりと瞬きをした。
「風になれる音……ですか?」
ああそうだよ。ここにも居た。
110mH を知ってしまったんだ。君も、俺も。
「き、みに、俺の夢を
「え?」
君が走るグラウンド。今跳び超えた旧式のハードル。
もうフェンスの外側から見るのは嫌なんだ。
「俺のが速い、って言わせたい人がいる」
どうしても勝ちたい人がいる。
もう一度隣を走りたい人がいる。
追い付いて超えたいハードルだから。
「君にね、思いを託したい。……星川七誠の隣で、俺の代わりに風の歌を聞いて欲しい」
「え゛」
はじめましてで馬鹿を言ったのはわかってる。
15にも満たない少年にだいぶ無理を言ってしまったよね。ううん、無理じゃないと信じたい。
「全日本インカレ出てた人、デスヨネ」
「そ。話がはやいね」
俺のせんぱーい、だなんて言うと目を白黒させて、高井くんは頭を抱えた。
柔らかな風が頬を撫でた。
あの日、星川先輩に俺が出会った日。ちょうど同じように桜の香りが今みたいにしたんだ。
だから大丈夫。大丈夫だよ。
だって君にも「風の歌」が聴こえるんだろう?
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