イチ
けほけほっ、けほ……けほ、
空咳が止まらない。
階段登っただけで息苦しい。
吸入取りに戻らないと。
ヒューヒューと息を吸う度に気管が鳴る。
胸が痛い。苦しい。上手に息ができない。
コン、コン、コンコン
もう空咳どころじゃない。音が高くなってきた。
体全体を使って咳き込んでる。
生理的に溢れる涙が辛さを助長しやがる。
薄い窓ガラスから漏れた冷たい空気で校舎がいっぱいなんだ。雪は向こう側の世界を白で染め上げている。
コンコンコン、コンコン
しんどい。動くことすら出来ない。
階段の踊り場で、手すりを掴んだまましゃがみこむ。
──発作が止まるまで、誰も来ませんように。
心の中でそうは願っても、助けて欲しいと本心では叫んでいる。
咳が止まらない。息が出来ない。苦しい。痛い。
呼吸の仕方を忘れたように、はくはくと唇を動かす。
空気の吸い方がわからない。吐き方も思い出せない。
ゼーゼー、ヒューヒューと痛々しい呼吸音だけが耳に届く。
目頭からボロボロと涙も止まらない。
「っ、かける! かける!!」
返事をしたいのに声が出ない。動けない。
周回差で追いついた先輩が駆け寄った。
どれだけ俺は人に迷惑かければいいんだろう。
酸欠で頭が痛いし回らない。
「かける、息しよう。深呼吸できる?」
ひゅーひゅーと力なく空気だけが漏れる。
でも、咳はまだ止まらなくて。
背中を擦りながら星川先輩は続いて走ってきた部員を呼び寄せる。
「直ぐに顧問呼んで。保健の先生も連れてきてくれる? ……かける、救急車は?」
「いら……っ、ない…です」
喋ったことにより再び咳き込む。
肋骨がそろそろ折れるんじゃないだろうか。
痛い。息をする度に気道が、肺が痛い。
「ほーら、もう一回深呼吸して。吸ってー吐いてー……そう、いい子」
嗚呼、苦しいよ。
あなたの優しさも、走れないもどかしさも全部全部。
***
「で、波多野くん。これって?」
「退部届です」
「うん、それは知ってるんだよ」
目の前の顧問はため息混じりに緩く巻かれた長い髪をかきあげる。
「一身上の都合で陸上部を、辞めさせていただきたいと思います」
水分の含まれないような乾いた声。
自分の声じゃないみたいだ。
「今年の夏、インターハイ出たよね。三年の夏も出れたら多分だけどスカウト来るよ」
顔全面に呆れの文字がありありと見える。
冷たく突き放すように彼女の声に温度はなかった。
「……ごめんなさい」
「この前また発作あったよね? ドクターストップとか出されたりした?」
「いえ、一応その件については……はい」
口ごもって濁すしか出来ない。答えたくない。わがままだと分かっているけど、この場から立ち去りたい。
「じゃあ何でさ。辞めるなんて勿体ないわよ。私も顧問としてサポートが足りなかったって自覚はしてるんだよ」
無垢な目で見つめんな。こんな瞳で俺を覗き込むな。
「……これ以上、陸上を嫌いになりたくないんですよ」
嘘。真っ赤な嘘。
嫌いになんてなるわけない。
あんなに苦しい思いをしてもまだ走り続けたい。
走って跳んで、一直線にゴールだけを目指したい。
グラウンドの土埃の匂いも、競技場のゴムの感触も全部全部諦めたくなんてなかった。
大好きで仕方がない。
走りたくてうずうずしている。
それなのに、なのに、
「俺はもう陸上競技が出来る身体じゃないんです」
あーあ。結局理由言っちゃってるじゃんか。
隠したまま「さよなら」をしたかったのに、そんなプライドを抱え込んだままにすることすら今の俺には余裕がないみたいだ。
再発はもっと先のはずだった。
小児喘息は小学校に上がる前に治ったはずだった。
発作は大人になるまで出ない予定だった。
去年の秋口、風邪を拗らせて肺炎になった。
今までも気管は弱くて、風邪をひくと長引くタイプだった。咳風邪をひいて、熱が出る。治りが悪ければ熱が下がった後に気管支炎。けど、あんなにも長引いたのは初めてだった。
それがきっとトリガー。
季節の変わり目、台風、気温差。
一年中具合が悪い訳じゃない。
それでも、以前より発作の出る間隔は短くなっていたし、医者からも走り続けるのは控えるように言われた。
長い距離を走ると息が続かなくなる。100メートルのダッシュでさえ咳き込んでしまう。
今まで通りの生活は出来なくなってしまった。
選手と言うには致命的なまでに身体は
「俺はもう、ハードラーを名乗る資格なんてないんです」
それじゃあ、と言い残して教務室を出る。
無機質な引き戸を境に空気が冷えた。
廊下の結露がいつも以上にひどいのは気のせいだろうか。窓の外はきっと相変わらずの雪景色だ。何日も変わらない曇天模様は容易に想像できる。
ふうっと長く、湿っぽい息を吐いた。
無かったことに出来ればいいのに。
この身一つで風を切りながら走る快楽を知らなければよかった。
去年の秋、一回目の発作が起きたときに全部やめてしまえば良かったんだ。
そうしたら、もっとずっとさっぱりした気持ちでいられたであろうから。
早歩きをしながら階段を下る。
先日の発作のせいで息切れが酷い。
人気のない下駄箱の前に手をついて息を整える。
雪の中、傘もささずに手を振る姿が見えた。
白地にピンクのラインが入ったウィンドブレーカー。
紛れもない。春ヶ丘高校陸上競技部の元部長。
「ほしかわせんぱい」
俺にハードルを教えてくれた人。
いつもそばにいてくれた人。
大好きで憧れの人。
「かけるー! 一緒に帰ろー!!」
おそらく彼はそう言っている。
雪が音すら包み込んでしまっているから。あなたの声は聞こえない。
靴を履き替え、できる限りの速さで彼の元に向かう。
ビニール傘ごと俺は抱きとめられた。
「ほしかわせんぱい、ごめん、おれ」
「大丈夫。わかってるから。かけるは謝らなくていいんだよ」
嗚呼、いつも暖かい。
声も言葉も雪を溶かすほどに。
「責任なんて感じなくていいんだよ。お前がまだハードルのこと好きなら俺はじゅーぶん」
ぽんぽんと自分より上背のある俺の頭を撫でる。
「帰ろ。雪で電車止まっちまうべ」
いつかの日と変わらない悪戯っ子の笑顔。
今日だけは。今日だけは、あなたのひょうきんな態度にすら泣いてしまいそうだ。
伏せていた目をゆっくりと閉じる。泣き出しそうな気持ちに蓋をするためにも。
何もなかったよ、なんてそぶりをしても隠せている気はしない。
それでも目線を少し下の切れ長の目に合わせた。
「せんぱい。帰りましょう」
声は震えていなかっただろうか。
もう少しだけ背伸びして強がりたいんだ。
二人並んで帰路につく。
街灯は淡くコバルト色に足跡を照らした。
人がまばらの春ヶ丘の駅で数分待って、冷凍庫から出てきたような電車に揺られて二駅目。「
「大会とか記録会でさ、走ってる時に風の歌って聞こえない?」
ピコンピコン、プシュー……
通いつめた競技場行きの案内板が見えなくなる。
ゆっくりと移り変わる車窓の景色をじっと見つめる。
風の歌。
ハードルを跳ぶ時に空を手で切り裂く。
指先に感じるのは競技場の温度。
新しい空間との境目に身体を滑らせ、耳元で風の歌を聞く。
すごく心地が良い音。
自分も風になれる音。
「調子がいい時はゴールするまでずっと聞こえませんか?」
「うん。……俺はずっと聞けてないけどね」
星川先輩はただ曇った窓をぼんやり眺めているだけだった。
それがひどく寂しそうに見えた。
「お、れは、もっと走りたかったです」
「知ってる」
「風の歌もまだ聞きたかったです」
「うん」
「星川先輩、おれ、ハードルが好きなんです。大好きなんです」
「うん」
「やめたくないです。まだ先輩の隣を走りたいです」
辞めたくない。諦めたくない。まだ走りたい。
顧問の前で言うまいと黙っていた思いがこぼれ落ちる。
「せんぱい、おれ、走りたい」
走りたい。まだ走りたい。
一身上の都合なんて戯言だ。何度倒れても、周りに迷惑をかけてしまっても、まだ終わりにしたくない。親からも医者から止められても、諦めたくない。身体から聞こえる悲鳴がだんだんと大きくなっているのは知っている。もう限界だなんてずっと前から知っている。
「グラウンドで死んでもいいから俺、走りたいんだよ」
雪のように白いウィンドブレーカーをぐしゃりと握る。
「春ヶ丘高校陸上競技部」の肩書きを失いたくない。「春ヶ丘」のハードラーであり続きたい。
「かける、どんなカタチでも陸上は辞めるなよ」
星川先輩は車窓を見たまま呟いた。相変わらず真っ白な田園風景だけが広がっていた。
「春になれば俺はいない。東京に出てハードルを続ける。かけるほど走りたいと望んでいないのに俺は走る」
皮肉なことだよな、なんて乾いた笑みを浮かべて。
銀世界の向こうは大都会。ここよりずっと強い選手に溢れた街に先輩は行ってしまう。
「せんぱい、おれ」
「悔しかったら辞めんな。走れなくなっても離れんな」
わしゃわしゃと頭を搔き撫でられた。星川先輩の手は冷たかった。
無責任なことだってわかってるけど、なんて少年くさく照れ隠しで笑っていたけれど。俺は知っていますから。
声が今までで一番熱っぽかったことを。
胸の奥がきゅっと締め付けられる。目頭がじぃんとなる。
嗚呼、俺はこのまま泣いてしまうんじゃないか。
あなたの優しさで泣き崩れてしまうんじゃないだろうか。
「せんぱい、いつか俺がまた走れるようになったら隣のレーンに並んでいいですか」
いつか。どれほど先になるかわからない。一生かかっても来ないかもしれないいつか。
それでも俺はそんな未来に縋りたい。
「もちろん。ずっと待ってるから」
今だけは。今だけは夢を見させて欲しい。
中学の学ランに袖を通したばかりの春。グラウンドを囲むように咲いた桜の下。ぬるい風の中のレーン。はじめて先輩の隣を走った日。
嗚呼、あの日からずっと俺は星川先輩の隣が居場所だったんだ。あなたの隣のレーンに立つことが当たり前になっていたんだ。
よーいゴーの合図で同時に土を蹴ったグラウンド。
On your markの号砲で駆け出した競技場。
右足で踏み切って左足を大きく振り上げる。
指先を掠める緊張感と熱。
場所がどこであっても、あなたが隣にいればいつだって風の歌が聞こえた。俺は風になれた。
「絶対もどってきますから」
「次は俺のが速いって言わせてやるんで」
覚悟してくださいね、って言いながら子供みたいに泣いてしまった。
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