サン
赤のタータンがまだ8時過ぎだというのに既に熱い。
ウォーミングアップでゆっくりと走っている選手達が渋滞を作っている。自分が選手だった時と変わらないことを微笑ましくスタンドから眺める。
大きく息を吸う。夏の味がした。
競技場のゴムの匂い。
砂場からかおる雨上がりの匂い。
制汗剤と湿布薬の匂い。
知ってる。忘れたくなくて、諦めたくなくて仕方がなかった夏の全て。
ぎゅうと拳を握る。額から伝う汗をキャップを脱いで拭う。
「……ずっと聞いてないな」
路風の紺色の背中を見ながら呟いた。
肩を並べて走っていた先輩は聴こえるようになっただろうか。あの時の100メートルのタイムで110mHを走っている。彼は自分が知ってる風の中にはいない。
それでも、思いを託した少年が俺の代わりに聞いてくれる、と言えども。……違う。代わりなんて嫌だ。
キャップを深く被り直して、招集ゲートまで移動する。
もう選手ではないから。
選手を見るだけ。サポートするだけ。
「隣のレーンで走りたい、んだよな」
やりたいのは場内整理じゃない。中学生の中じゃない。
11時の競技開始の合図から、400メートルのトラックは歓声に包まれる。その中心の選手が羨ましい。
「決勝でまた会おう」と笑い合って固く握手する、そんな少年少女が眩しくて、思わず目を逸らした。
プログラムが進んで、ジリジリと直射日光が強くなる。
赤いタータンはスパイクの足音が絶え間なく、全国の参加標準記録をかけて熱がじわりと上がっていく。決勝となれば尚更か。
一度、二度と自分の体温、感情までもが高まって、心臓の拍動で身体中に血が巡るのがよくわかる。
「On your mark」で視界がはっきりする。
「set」の掛け声で、静寂。緊張がピンと張り詰める。
ライカンのトリガーが引かれる。
号砲。
スターティングブロックが一斉に蹴り出される。
星川先輩、何年前になるんですかね。
7月初旬の暑い日でしたね。覚えていますか。
俺は8レーンで、先輩が7レーンでした。そこそこ大きな大会の決勝で隣のレーンだなんて、嘘みたいだねって話していたんです。スタートの直前まで。
真っ直ぐに走って、眩い背中を追いかけていた。
手を伸ばせば届きそうで、近くて遠いあなただけを見ていた。あなたが「ハードル」だったんだ。
ぎゅっと競技役員の腕章を握る。
思い出したって何だって、もう選手には戻れない。
目の前を走るのは波多野懸でも、星川七誠でもない。「路風中の高井光希」だから。
思いを懸けるって結局何だろう。
なぁ、高井。俺だってまだ走りたいんだよ。諦めてなんてない。陸上から離れたくない。ハードルを大好きなままでいたい。俺だって、俺だって……
「波多野先生、星川さんって中3のベストいくつでした?」
「14.78だったかな。全中より通信大会の方が記録良かったんだよね」
「……そっかー。せめて先生の記録より速く走りますね」
「だぁいじょうぶ! 15は切れる。あと俺、中学ん時のベスト14.8」
「おぁ、がんばりまッス」
ほんの数分前。スパイク片手にウィンドブレーカーのチャックは全開。そういうとこだよ。教えてないのに俺に似るな。余計自分を重ねてしまうじゃないか。
それでも。ううん、だからこそ。君に精一杯のエールをおくるよ。
自分を重ねた「高井光希」に。溢れんばかりの思いを乗せて。
「……ッがんばれ」
真っ直ぐに駆け抜けて。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
振り上げ足。抜き足。前傾姿勢。
グンと伸びた右手で空気を切り裂いて。
赤のタータンを蹴って、身体を空の青に溶かして。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ピッチが上がる。
加速する。
ゴールに向かってもっともっと。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
指先に触れるスタンドの熱。
隣のレーンから足音。
近くて遠い背中。
見間違うはずない。ずっと追いかけてた。
紺色の路風。
白の春ヶ丘。
細身で長身の少年が走っている。
見えた。いるはずのないあなたを。
自分を重ねて走る少年。
半歩前に星川七誠を見た気がした。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
ゼロ、イチ、ニ、サン。
目頭がキュウと熱くなる。
いる。ここにいる。走っているんだ。
陸連の蛍光色のキャップを脱いで叫ぶ。
「たかいいいい!! 追い越せぇぇえええ!!!!」
鼓動が早くなる。
喉がヒリヒリと痛む。
握った拳からドクドクと熱が回って、あぁ、駆け出したい。いつかのように全力で。
ヒュッと耳元に風が抜けた。
前髪を軽く揺らした一瞬。頬を優しく風が撫でた。
聴こえる。
数え切れないほどレースをした
火照る指先から熱が溢れて、空気と混ざる。
110メートルのレーンを抜ける風になる。
風になれ。
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