第4話 あの物件にはな、笑子が憑いてんだよ
「今日は、もう帰っていいぞ。また近いうちに、呼ぶことになると思うが、塩と酒、忘れるなよ」
「え?」
「さっきの婆さん。もう長くねえから」
「それって――どういうことですか」
「笑子だ。あの物件にはな、笑子が憑いてんだよ」
*
別れ際の宮下とのやりとりを思い返しながら、紗枝は夕食の準備をしていた。
403号室で見た光景のせいで自身の食欲は湧きそうもなく、正直一口も入らないだろうことはわかっていた。
だが食事の用意は、同棲している交際相手のためには必要なことだった。
「……心理的瑕疵。事件や自死の現場となった物件の賃貸契約、売却契約をする際の説明責任……。あんなことがあった部屋には、たしかに住みたくないわよね」
「それに……笑子って。結局なんなんだろう。宮下さんはあの婆さんが笑子に祟られるような言い方をしてたけど。たぶん、質の悪い冗談だよね」
本当に403号室のように人が死ぬような事態であれば、刑事もそこにいたのだから何らかの動きはあるだろう。
また、それが気休めであれ関わりのある神社から神主を呼んでのお祓いだってするだろう。宮下も言っていたように、そういう繋がりだけは時代錯誤に残っている商売だ。
――それに笑子の話を口にしたときの宮下さんは笑っていた。
さすがに、人が死ぬかもしれないというときにそのような表情を見せるわけはないと、紗枝は考えたのだ。
火にかけた深鍋に油をひき、玉ねぎ、牛肉をフライパンで炒めていく。
焼き色がついた頃合で、先に炒め終えていたじゃがいも、人参とともに深鍋に移す。
「うまそーな匂いじゃん! カレー?」
「あ。タカ起きたの? 残念。カレーじゃなくて肉じゃがなの。そんなに匂いする? 全然いまの私、鼻が
「ん? 紗枝、鼻が利かないのか。部屋までいい匂いがしてきたから起きたよ。いいじゃん肉じゃが」
「うまく作れてる自信ないけどね、もうすぐできるからお皿とか用意してくれると助かるかな」
「おっけー」
交際相手である香田崇は工場勤務で、シフトは深夜を含めた交代制だった。
ここ二週間はその深夜勤務にあたる。
そんな勤務時間の兼ね合いもあり夕方までは大抵部屋で寝ているが、丁度時間としても起きてくる時間ではあった。
つまり当面の間、紗枝はこのマンションで夜、一人ということでもあった。
「ねえタカ。今日も仕事なんだよね」
「そうだよ? 飯食ったら行ってくるわ」
「だよね。うん、頑張ってね。ご飯よそうね」
茶碗を手に炊飯器の蓋を開けた。
立ち込めた湯気が顔にあたる。この鼻でもさすがに炊き上がったご飯の匂いくらいはわかる。
「うっ……」
その瞬間、強烈な吐き気がして森脇は手で口元を抑えた。
「紗枝、どうした?」
「……ううん、なんだろう。急に吐き気がして」
「大丈夫か? あ、もしかして……妊娠してるんじゃないか」
まさか、と思った。
しかし……生理不順が続いていた矢先でもあり、紗枝にとっては思い当たることでもあった。
交際相手の香田とも、妊娠するようなことがあれば結婚をしようという話をしていて、お互い社会人でもあり生活の面で問題はない。
気になることがあるとすれば、それは昼間の宮下の言葉だった。
――妊娠とかしてねーよな?
妊娠していたらなんだというのだろうか。そう思う気持ちとともに、言いようのない不安が心に広がっていくのを感じていた。
「紗枝? 紗枝、大丈夫?」
「……あ。ごめんタカ。ちょっと色々考えちゃって。今度、検査薬買ってくるね」
「お、おう。あんまり無理するなよ。もしほんとに妊娠していたら、籍、いれなきゃな」
「そうだね。うん。そうしようね」
§
妊娠検査薬の結果は陽性の判定で、それを香田は素直に喜んだ。
それから数日、日に日に重くなるつわりを抑えながら、通常業務をこなす日々だった。しかし感じていた不安については、凄惨な現場を目にしたことによる心理的なショックと、妊娠による体調の変化からだろうと、紗枝は考えるようになっていた。
宮下から二たびの連絡が入ったのは、前回美空マンションを訪れてから丁度、一週間後のことだった。
その呼びつけは前回のように曖昧なものではなく、また直属の上司である坂崎を通してのものでさえなく、直接宮下から紗枝のもつ社用携帯への着信だった。
『大場のところの婆さんが死んだ。岩瀬さんももう着いてる頃だろうから、急いで来い。うちの社用車が出払ってるから、そっちの車を出してこい』
もう長くない。
そう言った宮下の言葉は冗談ではなかった。
ぶり返す不安を胸に、紗枝は清酒と食塩を準備して宮下の待つ営業所へと車を走らせることとなった。
*
「今日はスーツじゃないんだな」
「……学びましたから」
宮下を拾い、前回と同じルートで、美空マンションまで向かう。
「煙草は絶対に吸わないでくださいね」
「へいへい。ホントうっせぇな」
口調は相変わらずではあったが、宮下はその言葉通り、現場に着くまで煙草を口にすることはなかった。
酒井トヨは、301号室の寝室で首を吊って亡くなっていた。
娘である大場幸子が訪れた際、いくらインターフォンを鳴らしても反応がないことから、不審に思い合鍵をつかって開錠し発見したという。
現場へと到着した二人は、状況から酒井の自殺という線でそのまま話を進めるとすでにそこで待機していた岩瀬から説明を受けた。
「まー、そういうことにするわけですがね、今回も笑子ですわ」
「だろうな、喰われてたんだろう?」
「ええ。ホトケさんの両足、まるまる無くなっとりましたわ」
「はは、そりゃまたひでぇもんだな」
用意した食塩を振りかけながらの会話。二度目とはいえ慣れない事故現場の検証で吐き気を抑えながら紗枝は二人を見ていた。
明らかに異質な会話内容でありながら、それを笑ってしていることに違和感がある。
――狂ってる。
そう思わざるを得なかった。
「あの、笑子って。なんなんですか」
「お嬢ちゃん宮下さんから何も聞かされてなかったのかい。人が悪いねえ」
「それは俺の仕事じゃねーよ。坂崎が何も話さねえまま寄越したんだよ」
「むかしこのへんに住んどった憐れな女の名前よ。まあ、もうとうに亡くなっとってな、いまじゃ悪霊っちゅうもんかね。この物件に住み着いとる。まあ詳しくはあとで宮下さんに聞かせてもらい」
そこまで言うと、岩瀬は清酒の瓶を手にぐびりと呑む。
そして、宮下、紗枝と回し呑むことで前回同様の一連の儀式を終えた。その行動にどのような意味あるのかは依然としてわからないものだったが、こうも明確に悪霊などと言われてしまったら言う通りにしないわけにもいかなかった。
「今回は珍しく続きましたな。次がないように、お互いきをつけましょうや」
「岩瀬さん、今回はうちの
「ええよ、ええよ。まあ女親さえね、入れなきゃここもいいとこやからね。それじゃあ、あとは警察のほうで処理させてもらいますわ」
そう言って岩瀬は去っていく。
その遠くなる背中を見届けてから、宮下は紗枝へと声をかけた。
「このあと時間あるか?」
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