第3話 その沁みは、人の形をしていた
「――こりゃひでぇな。畳も全部張り替えなきゃいけねー。事故物件はただでさえ賃料下げなきゃいけねーのに、どうすんだよ。くそ」
宮下は入るとすぐに、その暗がり部屋の玄関上に備えつけられたブレーカーを上げる。それだけでぱっと橙色の明かりが点った。
同時に宮下達の目に入ったのは、玄関から一直線に見える奥の和室の
リビングと寝室を分ける扉の擦り硝子には点々とこびり付く赤黒い沁み。
開いたままのその扉の先にある寝室はさらにひどい有様となっていた。
臆することなく進む宮下と、岩瀬。
それを追う紗枝。
寝室は和室となっている。
畳に滲む沁みはその色の重なりのなかで薄いところは黄色っぽく。濃い箇所は黒色となっていた。
――その沁みは、人の形をしていた。
人型ゆえに、沁み込んだ液体が、死んだ人間の体液であることを森脇はすぐに理解した。さらに濃くなった臭いは、三人の
紗枝はもう涙目になっていた。
それは決して被害者を思ってのことではなく、このような現場に立ち会わなければいけない自身の境遇に対してだった。
「仏さんは、ここにこういう感じで横たわっていましてね。このあたり、そう右足から腰にかけては食われとったとです」
「なるほどな、まずそうなもん食らった犬ころは、今回も見つからずか」
「鍵がかかとったはずなんですがね。まったく、謎ですわ。そもそもが仏さんもどうやって入ったのかもわかっとらんのでね。警察としてもお手上げなわけですわ。ま~こうやって宮下さんに来てもらったのも、いつもの通りで話をさせていただこうっちゅうもんでね」
その現場状況と、岩瀬の発言から、単なる孤独死や自死の現場でないことは明らかだった。
生活感が残るそこには、まだ被害者の息遣いを感じさせるようだった。
紗枝はここまでの情報を頭で整理する。
借り手のいない空き物件で、老女と思われる遺体が見つかった。
物件には鍵がかけられており、密室の状態だったという。
そして、その遺体の一部は野犬によって食いちぎられており損壊していた。
紗枝は状況からミステリーめいた事件だなと、頭に浮かべていた。……もしくは、もっとオカルト的な何かではないかとも思いを巡らせていた。
そんな妄想でもしていなければ、正気じゃいられないと思ったからだ。
しかし現場を一通り黙って見て回ったうえで、宮下はこう口にした。
「いつもの通り、孤独死の現場だな。あとは特殊清掃業者に任せて片付けますよ。岩瀬さん、そういうことで、いいんだよな」
「警察としてもこれ以上は手の付けようがないんですわ。まあ一応、現場検証としてお呼びしたまでで……事件性はなし、ということでお開きとしましょうか」
玄関のブレーカーを下ろす宮下と、それを見つめる刑事。
示し合わせたようなやりとりに、違和感を覚えた紗枝は思わず声をあげようとした。
「あの……ッ」
「森脇! お前も見て回ったよな、何も、問題はなかったよな」
「……え」
「お嬢ちゃん、お酒、あとお塩。出してくれますかね」
「……あ、はい」
まるでこれ以上のやりとりは不要だと言わんばかりだった。
『死にたくねぇなら――安いワンカップと食塩買って来いよ』先ほどの宮下の言葉が頭に浮かび上がる。
人が死ぬような事故や事件があれば、確かに花を手向けたり、このようにお酒や塩を用意するものかもしれないが、それにしても強い言い方だった。
紗枝はこの現場を見て、そして上司にあたる宮下と刑事の岩瀬の二人の発言からこれは妄想していたオカルト的な何かに違いないと気付いてしまった。
そのため口を閉ざした。
ただ黙って、コンビニのビニール袋を漁る。
沈黙の暗がりのなかで、がさがさとしたビニールの擦れる音だけが響く。
ワンカップの清酒の瓶を取り出し、岩瀬へ。食塩の小袋を宮下へと手渡した。
「……めんどくせえな、なんで瓶に入ったタイプじゃなくて袋入りを買ったんだよ」
包装された食塩は詰め替え用のもので、振りかけるための瓶に入ったものではなく、そのことに対しての苦言だった。
「まぁまぁ、宮下さん。一口ずつ、飲みましょうや」
ワンカップの蓋を開け、岩瀬はそれに口をつける。
ごくりと喉が鳴る音からも、それが仕草などではないことがわかる。
そして、宮下も同様にそれを呑む。
「ほら、飲んどけ」
「え……でも私、車ですよ」
「警察が手渡したもんだ、かまうもんか。なあ岩瀬さん」
「ははは、一口だけなら良いでしょうよ。飲酒運転より、目先の人命のほうが大事でしょうしねえ」
人命……。
その一言にぞっとしたものを感じた紗枝は、すぐにその清酒を口に含む。
喉を焼くような熱さのあとで清酒独特の甘さが残る。
――こんなことで、清めになるのだろうか。
そんな疑問が残るが、言う通りにする。
「よし、あとは塩だな」
宮下は、ひとつまみ分の食塩を自身の作業着へとかけていく。
同様に岩瀬も繰り返す。
「ほらよ。服の上から塩かけとけ」
オーバーサイズの作業着を羽織るように言われた理由はこれだったのか、と紗枝は思いながら、見よう見まねで塩を自らに振りかけた。
一連の儀式ともとれる作業を終え、三人は現場を後にした。
*
「あ……」
4階から3階へと階段を降りたところで、荷物を運びいれている引っ越し業者と、それを横で見ている背の曲がった老女がいた。
老女が宮下に気づくと、ゆっくりとした重い足取りで近寄ってきた。
「……どうもぉ。大家さんですかい? 今日から入居させていただく、酒井と申します」
「酒井? ああ、今月から入居ってことは大場さんの関係者か?」
「はい……わたしは大場の母です」
「……親が入るなんて、俺は許可してねぇぞ」
マスクによって宮下の表情はわからないものの、その声には凄みがあり怒りを孕んでいるのは明らかだった。
こんなお婆さんにまできつい口調をとらなくても、と紗枝は罰が悪そうに遠目から眺める。
「ごめんなさい。確かに娘は許可をとったと……。もう引っ越しも終わってまして、なんとか。なんとかなりませんかねぇ」
「……もう、入っちまったんだな!?」
「え、あ。はい。さっき荷物をいれるのに……」
「なら……いい。好きにしろ。うちの手配ミスだ。悪かったな婆さん」
宮下はそう言うと、階段へと戻っていく。
その後ろ姿を、深々と頭を下げて見つめる酒井という入居者。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
涙を流しながら、そうくり返す老女の姿は、傍目には異様なものに思えた。
だが、老人の入居というのは、不動産会社としては難しい問題だ。
生い先短い身であり、その住まいを終の棲家とすることを入居者は考えるものだろう。しかし物件の大家は安定収入のない老人の入居に対し、いくつかのリスクを想定する。
家賃の未払い、
孤独死となった際の清掃費用を
そういったいくつかの理由から
また、管理している不動産会社にとっても、次の入居者への心理的瑕疵の説明義務が生じることからも望ましい入居者とはいえない。
だからこそ、この酒井という老人は泣いて感謝を口にしている。
そして……。
おそらくは娘という大場にとって、この美空マンションは
だからこそ、無言で立ち去ることとした。
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