10


「そういう私のお話でした」

と、その締め括りを以って、スマホから流れていた彼女の声による話が終わった。

 長い長い話だった。

 俺は芝生の斜面の上に仰向けに寝転がって、太陽の光を遮るようにまぶたを閉じ、片腕で目元を覆いながら、彼女の声に聞き入っていた。

 全てを聞き終えたあと、俺は余韻のようなものに浸りながら、どう整理すればいいか分からない自分の思考と向き合う。

 一つ言えることは、彼の言う通り、彼女は俺を待っていた、ということだ。

 ずっと昔に交わした約束を、俺が忘れてしまった約束を、彼女はずっと覚えていて、毎年の夏をこの河川敷で過ごしていたのだ。

それを俺は、彼女が俺を待っているということに気付かぬまま、ただ遠くから黙って眺めていた。

全く、どういうすれ違いだと言うのだろう。あまりにも出来過ぎていて、滑稽な話だ。

あんまりにも今までの自分のことがバカバカしく思えて、つい俺は声を出して笑ってしまった。本当に、バカで間抜けなヤツだ。

 その時、俺のすぐ近くに彼女がやって来たのが分かった。

 彼女は俺の隣でゆっくりとしゃがみながら、俺の位置を確かめるように手を伸ばした。彼女の指先が俺の腹の辺りにそっと触れて、彼女が距離を詰めてくる。

いつものように、触れ合いそうで触れ合わないすぐ側の所に座り直した彼女は、いつもより気まずそうな、恥ずかしそうな、緊張したような、それでいてやっぱり朗らかな聞き心地の良い声で言った。

「全部聞いちゃった?」

「聞いた」

 俺は体を起こして、後ろ手を突きながら隣の彼女を見る。

 艶やかな黒髪と、白いワンピースが、涼やかな風にゆらゆらと吹かれていた。彼女は膝を抱え込むようにして、赤らめた顔を俺に向けている。

「なんかさ、本当に勢いだったの」

「うん」

「昨日、君に告白して、結構自信あったのに、曖昧な返事されちゃってさ、やっぱり私なりに動揺してた訳ですよ。平気な感じを装ってたけどさ、やっぱり私も普通の女の子なんです。むしろ他よりも融通が利かない、めんどくさい子なの。君が言ってくれるような、からっとした眩しくて明るい夏みたいな女の子じゃないんだ。だから、調子の良いこと言って君と別れたあとも、どうしようどうしようって悩んで、悩んで、悩んだんだよ。それでもう考えるのめんどくさくなって、ヤケクソになってさ、そうだ、せっかく私は小説を書いてるんだから、私小説っぽく私の気持ちを全部、全部君に伝えたらいいじゃんって思って、君に送ったやつの録音を始めたんだけど、思ったより興が乗っちゃって、あんなことになっちゃった」

「うん」

「正直さ、今、すっごい後悔してるんだよね。ほんと、今も、めちゃくちゃ恥ずかしいし、逃げ出したい」

 恥ずかしさを誤魔化すように、彼女はからからと笑った。彼女の内心を知った今でも、その笑顔はやっぱり夏のようだと俺は思った。

 俺は言う。「正直なこと言っていいか?」

「う、うん、どうぞ」

「君は、俺が思ってたような女の子じゃなかった」

「だと思うよ」

でも、彼女が弱い部分を抱える普通の女の子だということは、昨日の時点で何となく分かっていた。その上で頑張っているから、夢を追いかけているから、明るく元気に、気ままに振舞うことができるから、彼女は眩しく、夏のようなのだ、と。

 俺の想像と違ったのは、彼女も元からそうだったという訳はない、という部分だ。

今の彼女が夏のようであることに変わりはない。

 彼女は自分のことを子供だと言っていたが、子供でも大人でもなくて、身動きが取れなくなっている俺からすれば、そうやってひたむきに夢を見ていられる彼女は、すごいのだ。

「でもさ、俺にとっての君は、夏のようで、夏って季節になくてはならないもので、俺は君のことを夏の妖精みたいだと思ってる。それは変わらない」

「お、おぉ……、君もけっこう言うねー。そうか、夏の妖精か……それは、また」

 彼女の顔がますます赤くなる。俺の顔も赤い。

「あと、俺にとっての君も、救いなんだ。俺はずっと君に救われてた」

「……ずっと?」

「そう、ずっと」

不思議そうに首を傾げている彼女に、俺は言う。

「君の言う通り、俺も中々めんどくさい考えを抱えてこじらせてる。たぶん、君よりずっとめんどくさい。俺はさ、君のストーカーだった」

 その台詞は、思ったよりずっとすんなりと俺の口から出て来た。臆病に口を噤んでいた昨日とは違う。

 それは、先に彼女に自分を曝け出してくれたからだ。彼女のお陰だ。

 ここまでされたら、俺だって話すしかないだろう。例えそれで、彼女に嫌われてしまうことになったとしても。


 〇


 小学三年生の頃、俺が周囲から爪弾きにされて、昔のように向こう見ずで空気を読まず元気だけを振りまいていた自分を封じ込めたということ。

 夏休みに、ひとりでも孤独を感じさせず、夏のように眩しく見えた彼女に俺が縋って、救いを求めてストーカーのようになっていたということ。

毎年の夏、彼女の目が見えないという所に付け込んで、彼女を眺めていたということ。

 そのことを包み隠さず俺は話した。

 俺が彼女をどんな風に思っていたかということや、その時の俺がどんな気持ちだったかということを、なるべく細かく。

ただ、彼のことについては話さなかった。あの彼という存在は、あくまで俺個人に関わる問題で、彼女にまで話すべきではないと思ったから。

「じゃあ君は、昔、私と遊んだことは覚えてないって、こと?」

 彼女は俺の話を聞いて、ひとしきり驚いた反応を見せて落ち着いたあと、少し悲しそうに、寂しそうにそう言った。

「いや、全く覚えてないって訳じゃないんだ。少しは、覚ええてる」

 彼の話を聞き、彼女の話を聞いたことで、ずっと昔の夏、一人の女の子と遊んだ記憶を俺は薄ぼんやりとだが、思い出している。それがとても楽しかった記憶であるというのも分かる。

 しかしその記憶は、何かの分厚いフィルターにでもかけられたかのように、細かい部分が判然としない。

「そっか……、まぁ、ずっと昔のことだもんね。じゃあ、君が連れて行ってくれた、あの夏の世界のことも、分からないよね」

「……ごめん、分からない」

「まぁ仕方ない仕方ない、少しでも覚えててくれたってだけでもよしとします。それよりも問題はあれだよ、私はずっと君を待ってこの河川敷にいたのに、約束も忘れちゃった君は、私に話しかけようともせずにずっとストーカーやってたなんてさ、なんていうか、すっごく、ものすごーくバカらしいことだよ。一体何やってたの?」

「ほんとうにそう思う」

 情けないという言葉以外が出てこない。

「にしてもそっかぁ。じゃあ、そこに至るまでの過程はどうあれ、この十年間くらい、私たちはずっとお互いのことを想い合ってた訳だ。いやー、すごいすれ違いだね」

「なんでちょっと嬉しそうなんだ?」 

 よく見ると、彼女の口元が緩んでいる。

「まぁ、これでも小説家を目指して日々小説を書いてるだけあって、ロマンチストなんですよ、私は。そりゃ、君が少し勇気を出してくれたら、もっと早く君と一緒に過ごすことができたのに、とは思うけどさ。お互いがお互いのこと考えてたのに、ずっと言葉を交わさなかったっていうシチュエーションは、なんていうか、ロマンチックだと思う」

「そうかな。俺は、我ながら自分のことを随分と気持ちの悪いヤツだと思ってるんだが」

「そうかもね。でもそれを言うなら、一回遊んだだけの男の子をずっとずっと覚えて胸に抱えてた私も大概だし、まぁ、似たようなもんだと思う。やっぱりさ、お似合いなんだよ、私たち」

 あまりにもあっさりとした彼女の態度に、俺は拍子抜けのような感情を覚える。果たしてこれでいいのだろうか、という思いがある。

 俺と彼女は、互いに自分という存在の中身を曝け出したが、やっぱり互いの良い所というか、自分にとって都合の良い所しか見えてないように思える。

 だって、恋は盲目だから。

自分の気持ちをそっくりそのまま相手に伝える方法はどこにもなくて、どんなに言葉を重ねたとしても、人の気持ちはすれ違うものだから。 

「今の俺はもう、君を無理やり引っ張って行ったような、怖いもの知らずの昔の俺じゃない」

「うん、知ってる。でもさ、今の君も案外好きなんだよ、私。もちろん昔の君のことも、好きなんだけどさ。今の君と一緒に過ごせるだけで、私は安心できるの。君こそいいの? 私は決して、夏みたいなキラキラした女の子って訳じゃない。裏では色々めんどくさいことを、考えてるの。誰かに迷惑もかけるし、結構自己中なんだよ」

「言ったろ? その上で、夢を見るために前を向こうとしてる君は、やっぱり俺にとっての夏なんだよ」

「ふむ、なるほど、ならやっぱり問題はないね。私と君は、お互いがお互いのこと好きで、気が合って、一緒にいると楽しい。つまり結構お似合いで、相性がいいと思うんだ」

「そう、なんだろうけどさ」

「まだ納得できない?」

「うん」

「なんていうか、君は本当にめんどくさい成長の仕方をしたんだね」

「俺もそう思う。何なら見捨ててくれていい」

「うーん、それは無理かな。だってもう、君のこと好きになっちゃったんだもん。何なら、そういう君のめんどくさい所まで、愛おしいって思っちゃってる。今の君には友達がいないのかもしれないけど、私がそんな君の居場所になってあげたいと思うの」

「見る目ないよ」と、俺は苦笑する。

「まぁ、恋は盲目ですから」と彼女は微笑む。「こんな盲目の私を、夏みたいだって言って、素直にすごいって言ってくれるのはさ、君くらいだと思うんだ。そんな君に、隣に居て欲しいって思うの」

「そっか」

「うん、そう」

 一体、俺は何が納得できないのだろうか。自分でもよく分からない。

 本当に、本当に我ながらめんどくさい拗らせ方をしているなと自嘲する。

 でもこのまま彼女と一緒になっても、妙なしこりが俺の中に残ってしまうのは確実だ。そんな気持ちで彼女の隣に居座って、表面上の幸せを装うことは、俺には出来ない。

 何か、何かが欠けているのだ。何かが足りないのだ。とても大切な何か。

 必死に思考を回す。どうすれば、俺は俺を納得させられるのだろうか。

どうにも俺は、理屈っぽい。己が孤立し始めたあの時から、段々と俺はそういう人間になってしまった。信じられるのが、理屈しかなかった。

 人の感情の機微を、感覚的に読み取って、取り違えてしまうことを恐れて、その全てに具体的な理由を求めようとしているのだ。行動に理由を求めないと、安心できなくなっている。落ち着かないのだ。

 彼女と俺が互いのことを好きなのだと分かってなお、俺はまだ自分が彼女の側にいるための理由を欲している。もっと具体的で、確固たる何かを。

こんなことを考えていると、こんなにも暑い夏の中にいるのに、隣に夏の太陽みたいに眩しい彼女がいるのに、俺の体の内側は、夏という季節から乖離するように冷え、暗くなる。

冷えた体で、一つ一つ確認していくことにした。

「君と一緒にいると、楽しいんだ」と、俺は言う。

「うん、私もそう」

「あと俺は、君の側にいるためなら、頑張れると思う。夢を追いかける君に恥じないように、立派な人間になろうと思える。って言っても、俺にできるのは勉強くらいなんだけど」

「なにそれ」と、彼女が可笑しそうに笑った。

「君は、俺の救いなんだ。余計なことばかり考えて、自己嫌悪して、そんな自分の思考に押しつぶされそうな孤独な俺は、君に救われてる」

「それを言うなら、私も君に救われてるんだけどな」

「でも、昔の君を救った俺は、ここにいないんだよ」

「いるじゃん、ここに」

 そう言って、彼女は俺の手に、そっと自分の手を重ねた。彼女の温もりが、皮膚を通して俺の内側に伝わっていくような感覚があった。冷えた体の内側が、熱くなっていく。

 だけど、やっぱり俺の内側にある一部は、冷えたままだった。どんなに熱くなっても、冷静な自分がそこにいる。めんどくさくて、こじらせて、暗くなってしまった自分が。

「君のために、俺が出来ることはないかな」

「一緒にいてくれるだけでいいよ。それだけで私は嬉しいし、楽しいし、ホッとする」

 そう言ったあと、彼女は控えめに、こう付け加えた。

「でも、君がそこまで言うならさ、いくつかワガママ言っていいかな」

「うん」

「君に、色んな所に連れて行って欲しい。色んな、素敵な所。海とか、山とか、お祭りとか。君と一緒に残りの夏休みを思いっきり楽しみたいの。それでね、そこで君が見たものを、私に教えて欲しいんだ。私たちの前に広がってる光景を、一つ一つ」

 俺の手に重ねられていた彼女の手に、少し力がこもったのが分かった。

「そうしたら私、もっと自分の納得のいく小説を書ける気がするの。……今はさ、お父さんに全然ダメだって言われてるんだよ、私の小説。それでさ、実は一昨日の夜に、これからのことについて、お父さんと電話で話したんだけどね」

「うん」

「私、今行ってる学校の高等部を卒業したら、小説を書くのはやめて働けってお父さんに言われてるの。私は目が見えなくても、読み上げソフトとかを使えばパソコンを触れるからさ、卒業したあと、お父さんが働いてる所で、事務作業の仕事をさせてもらえるらしいんだよね。お父さんが掛け合ってくれたって。でも、私はさ、大学に行きたいんだよ。まぁ、高三の夏休みの昼間にこんなことしてて何言ってんだって話だけどさ、あ、これでも夜はちゃんと勉強もしてるんだよ? でも、それを言ったら、お父さんに怒られちゃった」

「どうして?」

「私が、普通の大学に行きたいって言ったから。君みたいなちゃんと目が見える子が通うような普通の大学の、普通の学部。目が見えなくてもできる仕事をやるための資格を取るような所じゃなくて、本当にどこにでもあるような普通の所。まぁ、ぶっちゃけ私のワガママなんだよ。だって、私がそこに行きたいのは、色んな友達をつくってさ、私が今いる学校よりもっと広い世界で、普通に遊んで、色んなことを自分の身で体験してみたいから、だから。そんな風にしながら、もう少しだけ、自由に小説を書いていたいの」

 切実にそう語る彼女の願いは、今、俺と同じ高校に通っている三年生たちが、当たり前にやろうとしていることだ。

 まだ社会に出たくないから、青春を延長したいから、大人にならず遊んでいたいから、というような理由で大学に行こうとしているヤツなんか腐るほどいる。

 そういう奴らよりは、自分の夢のために、まだ自由に小説を書いていたいと言っている彼女の方が立派だと俺は思うけれど、結局、他の人から見たら同じようなものなのかもしれない。

「でも、お父さんはさ、たぶん私に小説を書くのを早く諦めさせたいのと、私がそういう大学に行くのがあまり意味無い上に、すっごく危ないと思ってるから、行かせたくないんだと思う。お父さんが私を心配してるのは分かるんだけどさ、それがお父さんなりの優しさなんだろうけどさ、やっぱり私は納得できないの。私はこんな目になってさ、ただでさえ思い通りに生きていけないことが多いんだから、せめてそれくらいはしたいようにさせてよっ! て、思っちゃう。うん、本当にただのワガママ。子供の、ワガママ」

 そう言って彼女は苦笑を浮かべる。

「でも、お父さんは納得してくれそうにないからさ、私が、お父さんがびっくりするくらいのすごい小説を書くことができたら、お父さんも少しは考えを変えてくれるかもしれないって、思うの。たぶん、お父さんが一番気にしてるのは、そこだから。大学に行かせずに早く働かせようとしてくるのも、そこなんだと思う。たぶん、本気で夢を追いかけても、どうしてもどうしてもその夢を叶えられなくて、私が時間を無駄にして、すっごく傷付くと思ってるんだよ」

 だから、そんな父に、小説の編集者である父に、自分は小説家としてやっていけると思わせられるほどの小説を書きたいと彼女は言っているのだ。

「正直さ、自分でも分かってるんだよね。今まではできるだけ見ないようにして、私なら大丈夫だって根拠もなく思ってたけどさ。ほんとは分かってるの、今の私には足りないものがたくさんある、って。特にさ、私は目が見えないから、やっぱりどうしても、ね。まだ目が見えてた頃のずっと昔の記憶を思い出したり、他の小説を読んで得た知識から想像したりとかは、色々やってるんだけどさ、そんなので誤魔化せるほど甘くはないんだよ」

「だから、俺と一緒に色んな所に行って、そこで俺が見た光景を説明して欲しいって?」

「うん、そう」

「でも俺は、別に小説家を目指している訳でもないし、特に何か見たものを口で説明するのが上手いって訳でもないぞ?」

「それは分かってる。でもね、君と一緒にどこかに行って、君と同じ空気を感じて、君が私の隣で、目の前に何があるかを説明してくれたら、今の私に足りないものを埋められる気がするの。君に聞いてもらった音声の中でも言ったけど、昔の君と、夏の世界に行って、そこにあるものを君が一つ一つ教えてくれた時、君の声を聞くだけで、目の前にある素敵なものが自然と頭に浮かんだの」

 その時のことを、俺はよく覚えていない。俺が彼女の手を引っ張って、不思議に素敵な夏の世界に行ったという時のことを。どこまでもただ純粋に、彼女と一緒にいることを楽しみながら、夏のように彼女を照らして、光を与えていたというその頃の自分のことを、覚えていない。

 今の俺が、彼女のためにできることがあるとすれば――。

「わかった、行こう、君の行きたい所に」

 俺は大きく頷いて、できる限りハッキリとした声で言った。自分自身に自信を持たせるように、彼女を安心させるように。


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