8


 翌日は快晴だった。

 燦々と日差しが降り注いで、さわやかで涼しい風が吹いている。

 風が芝生を揺らす音と、セミのやかましい鳴き声が聞こえる。

 河川敷にやって来た俺は、芝生で覆われた斜面の上に寝転がっていた。昨日の夕立で濡れた芝生は、まだ乾き切っていなかったが、あまり気にならなかった。

太陽の光に目を細めながら空を見上げると、青い空と微かに漂う白い雲が飛び込んで来た。

 群青が、突き抜けるように広がっている。果てが見えない。どこまでも昇って行けそうだと思った。

 どうしようもなく、夏だった。夏が広がっていた。

だというのに、俺はそれを夏であると言い切れない。致命的な何かが欠けていた。

 隣に彼女がいない。彼女の艶やかな黒髪と、白いワンピースが揺れていない。彼女が笑っていない。たったそれだけのことで、それだけのことが、俺にとっては何よりも重要だった。

 たったひとりで、致命的な一つが欠けた夏のような何かに埋もれていると、余計な思考が頭に浮かんでくる。

 昨夜の彼の台詞が俺の頭の中で繰り返される。うんざりした。もう考えたくない。考えたくないのに、勝手に考えてしまう。

 自分が情けなくて、仕方なかった。

 彼のことも嫌いだし、自分のことは大嫌いだった。

 いつの間に、一体いつの間に、俺はこうなってしまったんだろう。

 昔はもっと素直だった。余計なことを考えないでいられた。やりたいことを、やっていた。自由に夢を見ていた。子供だった。良い意味でも、悪い意味でも子供で、けれどそんな子供だった自分が、今は羨ましい。

 嫌な歳の重ね方をしてしまった。

 自らこうなることを選んだはずなのに、今はもう、戻りたくても元には戻れない。

 今の俺は子供じゃなくて、大人ですらない。

 夢もなくて、やりたいことも満足にできなくて、好きな女の子を困らせて、こじらせて、身動きが取れないでいる。

「助けてくれ」と、情けなく夏に願った。呟いた。

気付けば俺は、泣いていた。どうして泣いているのかも、よく分からない。募りに募った感情が、飽和したのかもしれない。ここには俺しかいないから、我慢する必要もなかった。

でも、俺はずっと俺のことを見ているのだ。俺は、俺の視線からは逃れることができない。

どこまで情けなくなれば気が済むのかと思って、自嘲した。泣きながら、自分を笑う。自分をバカだと思った。やかましいセミの鳴き声が、俺を嘲笑っている気がした。

彼女は、こんな俺のどこが良いというのか、とか考えたりして、こんな自分が彼女の側に居るべきではないと考えて、でも、彼女には会いたくて会いたくて堪らなくて、彼女の声が聞きたくて、彼女の熱を感じて触れ合いたくて、笑顔が見たくて。

あぁまったく、こんな自分が嫌になる。大嫌いだよ。

「助けてくれ」と、もう一度呟いた。

この暑苦しくて、じっとりと湿って鬱陶しいのに、やかましいのに、どこかさわやかで、涼しげで、心地よくて、眩しいほど明るい夏に救いを求めた。この夏なら、俺の鬱々とした悩みを、しょうもないことだと笑い、吹き飛ばしてくれるような気がした。そういう夏を、どうしようもなく望んだ。

その時、ポケットに入れていたスマホが震えた。何かに引き寄せられるようにスマホを取り出して画面を確認すると、彼女からメッセージが届いていた。

彼女とは連絡先を交換していたが、結局、昨日まで彼女と連絡を取り合う機会はなかった。彼女はいつもこの河川敷にいたし、俺もそこにいたから。

でも、今日は。

 彼女から俺のスマホに、一つの音声ファイルが送信されていた。

『私のお話です』

 以前に彼女が言っていた、オーディオブックのことを思い出した。

 音声ファイルを再生すると、夏の音に溶け込むように、彼女の声が響き始めた。

「君は、私の救いなんです」


 〇


君は、私の救いなんです。

 私は、小学校の二年生になってすぐの頃、一つの大きな事故にあいました。どんな事故だったのかはこのお話に関係ないので、詳細は伏せます。私は、君に同情して欲しい訳ではないのです。

 ただ、その事故で、私は視力を失い、母を失いました。

 当時の私は幼く、何も分からず、理解できず、納得できず、何もできませんでした。

 目の前の絶望を、認めることすらできませんでした。

 ただ、ただただ、毎日を泣いて過ごしました。視力を失った私は、訳も分からず、現状を理解することを恐れ、拒み、何も分からない薄ぼんやりとした光の中で、ひたすらに泣いていました。

 父は私に色んな言葉をかけてくれましたが、愚かな私は、その全てを拒みました。当時の父だって、妻を失い、娘である私が視力を失い、どうすればいいか分からず絶望していたはずなのに、その時の私には知ったことではありませんでした。全てを、拒んでいました。

 私は、父に流されるまま、視覚障害者のための特別支援学校に通うことになりました。

そして父は仕事が忙しく、家に居ることが少なかったため、私は寄宿舎で日々を過ごすことになりました。

私は、私と同じように目に何かしらの問題を抱えた子たちに囲まれて、学校に通い、ご飯を食べて、眠りにつきました。ですが、私はその中に馴染むことができませんでした。馴染もうとしませんでした。

 そして、夏休みになり、寄宿舎が閉舎している間、私は祖父母の家で過ごしました。

 その頃の私が、どんな風に振舞っていたのか、実はあまりよく覚えていません。けれど、泣いてばかりで、無気力な日々を送っていたことだけは、分かります。

 夏休み最終日の前日の朝、私は家を抜け出しました。目が見えないのに、目が見えない生活にまだ慣れていないのに、白杖すら持たず、ふらふらと、極めて危なかっしく。

 なぜそんなことをしたのかと言えば、帰りたくなかったからです。明日になれば、父が迎えに来て、あの学校と寄宿舎に戻らなければならないと、私は分かっていました。

 今になって思うと、前を見ることができず、全てを拒絶していた私が悪いというのは分かるのですが、あの頃の私をどうやって扱えばよかったのか、今の私にすら分かりませんが、私を壊れ物のように扱う父や、学校や寄宿舎の人たちが、私は嫌いでした。息苦しかったのです。

 それに比べれば、ただただ純粋に私に優しくしてくれた祖父母の家にいるほうが、いくらか楽だと感じていました。だから逃げたのです。

 私は、子供でした。

現状を嘆いても、過去は変わらないのに、未来を見ることができませんでした。

 考えなしに祖父母の家を飛び出した私は、家に帰れなくなりました。色んなものにぶつかり、何度も転びました。痛くて苦しくて、何も分からなくて、泣いていました。

 そんな私に、ひとりの男の子が声をかけてくれました。

 私は、その男の子を知っていました。

 男の子の顔を捉えることができないのに、私は、私がその男の子を知っていると、思いました。

 男の子の声を聞いて、それが、あの時の男の子であると、私は確信しました。

 不思議な話だと、あまりにも都合が良すぎる話だと、思います。でも、間違いないのです。


 〇


この夏の、一年前の夏の話をします。まだ母が生きていて、私が視界に映る全てをしっかりと捉えることができていた頃の話です。

 小学生になって初めての夏休み、私は父と母と一緒に、父方の祖父母の家に遊びに来ていました。ここでいう父方の祖父母というのが、先に述べた祖父母のことです。

 父と母と一緒に、と言っても、父は仕事が忙しく、ほとんど私の側にいませんでしたが。

 昔の私は人見知りが激しく、臆病で、一人では何もできない子供でした。

 今の、父の言うことをほとんど聞かず、心配ばかりかけ、好きなように生きている私を見て、父はよくそんなことを言います。

 祖父母の家に来たあと、私は母と一緒に河川敷に出かけました。その時のことを、幼い頃の記憶ながら、鮮明に覚えています。

 その日は快晴で、空は突き抜けるように濃く青く、日差しは強かったのですが、涼しく心地いい風が吹いていました。セミもうるさいほど元気よく、合唱していました。

 河川敷に着いてすぐ、セミのうるさい鳴き声に負けないくらいの、大きな声が聞こえました。

 臆病で気の小さい私は、とても驚きました。お腹の底に響くような声量の、元気いっぱいの声に驚いた私は、母の陰に身を隠します。

 そんな私を優しい手つきで撫でながら、母は笑って言いました。

「まるで、夏みたいに元気な声だね」

 今思うと、あの時に、私の夏は始まったのかもしれません。


 〇


私の母は、不思議な人でした。

 母が生きていた当時は、そう思ったことはありませんでしたが、こうして今、昔のことを振り返っていると、確かに母は不思議な人だったと思います。

 母は、夏という季節のことを、とても気に入っていました。

 夏は、眩しいほど明るく、熱いほどに温かく、晴れ晴れとさわやかで、元気が貰える素敵な季節であると、母が言っていたのを私は覚えています。

 そんな母は、夏の秘密について度々私に話してくれました。特に、夏の日の、じっとりと暑く、寝苦しい夜なんかに、眠れない私を寝かしつけるため、その話をすることが多かった気がします。

「夏にはね、秘密があるんだよ」と、とっておきを自慢する子供みたいに眩しい笑顔で、母が話してくれる夏の秘密の話が、私はとても好きでした。

 母は言っていました。

 夏の中には、不思議な世界があるのだと。

 そこには、夏の魔法がかかっていて、夏の素敵なものがたくさんあると言うのです。

 母が話してくれるそのお話に、どうしようもなくワクワクしたから、私は夏が好きでした。


 〇


 夏の世界には、青々とした草原がどこまでも広がって、燦々とした日差しが降り注いでいて、涼しくてさわやかな風が吹いています。そこを裸足で走るととても気持ちが良くて、どこまでも、どこまでも走っていくことができます。

 耳を澄ませると、セミの大合唱に混じって、波の音や、川のせせらぎ、時々風鈴の音なんかが聞こえます。祭囃子と一緒に、花火の大きな音が聞こえる時もあります。

 大きく深呼吸してみたりすると、色んな匂いがします。草原のちょっと青くさい香りや、海の潮の香りがします。蚊取り線香の匂いがすることもあります。お祭りの屋台で売られているわたあめやラムネなんかの甘い匂いや、美味しそうなソースの匂いもします。

 夏の世界には、夏の素敵なものがたくさんあります。

 見上げると、青い空と白い雲があって、綺麗な星空が広がっています。

 遠くを見ると、大きな山が聳えていて、入道雲がもくもくと昇っています。

 草原を走ると、向日葵や朝顔が咲いていて、川があって、海があって、森があったりします。虫取りをすることもできるし、お化けに会うことだってできます。

 たまに夕立が来て、プールでも遊べます。大きなお祭りもやっていて、色んな出店が並んでいます。花火も上がるのです。

 そういう世界があるのだと、母は言っていました。

 そこには、夏の魔法がかかっているのだ、と。

 母が私に話してくれたのは、そういう素敵な夏の世界のお話です。

 夏の秘密の話です。


 〇


「あの子なら、夏の世界への行き方を知ってるかもね」と、河川敷を走り回る活発な男の子を見て、母は言いました。

 その男の子は、セミの鳴き声より大きく元気な声を上げて、他の友達を引っ張っていました。私と同じくらいの年齢の子たちがそこには集まっていて、その中心に、彼はいました。

 その男の子が走るとみんなも走って、その男の子が笑うとみんなも笑っていました。

 その光景は、私にとって、とても眩しいものでした。まるで、よく晴れた夏の日の太陽みたいに、眩しい男の子でした。

 当時、人見知りが激しく、臆病だった私にはできないことを、彼はやっていました。本当に、楽しそうでした。

 そんな光景を、私は母の陰に隠れて、離れた位置から眺めていました。

 あの男の子なら、母が話してくれた不思議で素敵な夏の世界への行き方を、知っているかもしれない。

 私は、彼と一緒に遊びたいと思いました。あの楽しそうな光景に混ざりたいと思いました。

 でも私は臆病だったから、母に「行って来たら?」と促されても、足を前に踏み出すことはできませんでした。母にべったりくっついて離れることをせず、ただ、羨ましいとだけ思っていました。

「あの子なら、夏の世界への行き方を知ってるかもね」

 もしかしたら、あの時母が言ったその台詞は、人見知りだった私に勇気の一歩を踏み出させるための方便だったのかもしれません。

でも私は、あの夏のように眩しくて明るい男の子なら、きっと夏の秘密と、夏の世界への行き方を知っている、と信じました。


 〇

 

 小学一年生の夏休み、私が母と一緒に河川敷に出かけ、その男の子を見かけることは何度かありましたが、結局、私が彼と言葉を交わす機会はありませんでした。

 それでも、ただ遠くから眺めるだけでしたが、私はその男の子に確かに憧れました。

 元気よく周りを引っ張って、みんなを巻き込んで明るくして、楽しく笑える彼のことを、まるで太陽のようだと、私もあんな風になりたいと、思っていました。

 それから一年の間に、私の身に起こったことは先述の通りです。

 私は大好きな母と、そして視力を失いました。

 また夏休みがやって来て、ひとり祖父母の家に預けられ、現実を受け入れることができず、逃げてばかりだった私は、家を飛び出し、帰れなくなりました。

 周りに何があるかも分からず、ぼんやりとした夏の光に包まれていた私が、道の隅のような場所で泣いていると、その男の子が声をかけてくれました。

 その男の子の顔を見ることも、どんな姿をしているか確認することも、私にはできませんでしたが、そのセミの鳴き声に負けないくらい大きく元気な声を、私はずっと覚えていました。

「どうして泣いてるの?」と、無邪気に言った彼に、私はこう言いました。

 もう、何もかもがイヤだと。

 お母さんもいなくて、ものを見ることも出来ない。楽しいことが何もない。もう全部イヤだと、泣き喚いた覚えがあります。

 彼は、私の目が見えていないという事実に、とても驚いたようでした。

「目が見えないのって、大変じゃないの?」と、男の子は素直に言いました。大変に決まってると私は泣きました。

「ほんとになにも見えないの?」

「なにも見えない」

「それって、目をつむったときみたいに、真っ暗ってこと?」

「ちがう」と私は首を振りました。

 明るい時は明るいし、暗い時は暗いと私が説明すると、「じゃあ、太陽の眩しさは分かるんだね」と彼は言いました。

 そう言われて、「一体それが何になるんだ」と私は怒りました。

「でも、ずっと真っ暗よりは、明るさが分かる方が良いでしょ?」

 私は呆気に取られました。当時、私に向かって、そんなハッキリした物言いをする人は、他にいませんでした。

「君、見たことないけど、どこに住んでるの?」

 私は男の子の勢いに流されるように、答えました。ここには住んでいないこと。夏休みだけ、おじいちゃんとおばあちゃんの家に来ているということ。

 そして、男の子の名前を教えてもらいました。夏のような彼によく似合っている、いい名前だと思いました。

「じゃあ、君はいつも、だれと遊んでるの?」と彼は私に尋ねました。

「だれとも遊んでない」

「え? だれとも?」

「遊んでない」

「さみしくないの?」

「さみしい」と言って、私は泣きました。そして、「お母さんに会いたい」と言って、私は溢れるように涙を流しました。

すると、男の子は私の手を取りました。

「君のお母さんには会わせてあげられないけど、さみしいなら、僕と一緒に遊ぼうよ」

 困惑している私の手を引きながら、彼は私に問いかけました。「どこか行きたいところはある? 目が見えないなら、僕が連れて行ってあげる」

 その時、私は、それまでの悲しいことや、イヤなことを全部忘れて、母の言葉を思い出しました。

 夏の秘密と、不思議な世界のこと。私の手を引くこの男の子なら、その世界への行き方を知っているかも知れないということ。

 私は彼に、一生懸命説明しました。

 夏の秘密と、不思議な世界のことについて。

 私の話を聞いた彼は、「僕、その世界のこと知ってる!」と、元気よく言いました。

私は興奮しました。やっぱり知ってるんだ! と嬉しく思って、気付けば私は泣き止んでいました。

「この近くに、大きい川が流れてるところがあるんだけど、暑い日に、その川が流れていく方に進んでいくと、その世界に行けることがあるんだ。それをさ、みんなに言うと、みんな僕のことをうそつきって言うんだけど、でも、ほんとに行けるんだよ。僕をうそつきって言う子と一緒に行こうとすると、行けないんだけどさ。不思議なんだよね。だからうそつきって言われるんだけどね。でも、なんか、君と一緒なら、行けると思う」

 そう言って、男の子は私の手を引きました。私の目には夏の眩しさだけがぼんやりと映っていて、男の子に引っ張られるまま、私は歩みを進めました。

セミがうるさくて、それ以上に心臓の音がうるさかったことを、よく覚えています。

 彼と一緒に少し駆け足になって道を行きながら、色んなことを聞かれました。

 私の目が見えないということに、彼はとても興味を持っていました。

 どうやって生活をするのかだとか、ひとりで歩く時はどんな風にするのかだとか、何かにぶつかってこけたりはしないのかだとか、ご飯を食べる時は大変じゃないのかだとか、字を読んだり書いたりすることはできるのかだとか、テレビを見れないならどうやってアニメを見るのかだとか、疑問に思ったことをそのまま口に出しているようでした。

そんな質問の数々をそれほどイヤだと感じなかったのは、その男の子が私のことを視覚障害者の可愛そうな女の子ではなく、壊れ物のように扱ったりせず、ただ一人の、目が見えないだけの女の子として扱ってくれたからなのだと思います。

目が見えなくて大変なのに、色々工夫して生活してるのはすごいね、がんばってるのはすごいね、というように彼が素直に感心した時、私は少しだけ救われたように感じました。

あぁ、私はすごいんだなと思いました。他でもない、彼がそう言ってくれたから、そんな風に考えることができたのだと思います。

 そして彼は、私に、彼が見ている光景を細かく説明し始めました。そこに何があって、どんな風に動いていて、何の色をしているか、などを。

「右には草が生えてて、その隣に川が流れてるよ。透明のきれいな水。ゆっくり流れてる。左にも草がいっぱい生えてて、斜めの坂があって、そこにも草が生えてる。ちょっと薄い緑色の、短い草。空は青い。ちょっとだけ白い雲が浮いてる。あ、鳥が飛んでる! スズメかな。あっちには野球をするところがある、今日は誰もいないけど、野球をやってる時もあるよ。あ、犬のお散歩してる人もいた。川の向こう側には、家がいっぱいある」

 彼の元気いっぱいな声は、私の耳をジンジンと震わせました。まるで夏に広がる自然の音に溶け込むように、セミの合唱や、川のせせらぎに混じって、私の耳に届きました。

一体どれくらいの間、私が彼に手を引かれていたのかは、はっきりとしません。

数分のような気もしましたし、何時間も進み続けたような気もします。ただ、夏の強い日差しがずっと変わらず私たちを包み込んでいたことだけは、よく覚えています。

周りにどんな光景が広がっているのかを、ずっと私に説明してくれていた彼は、不意に、「あ、草が広がってきた!」と言いました。「夏の世界に来れたみたい!」

 それを聞いて、私は胸を熱くしました。そして、とても悲しくなりました。私の目が見えたら、ずっと見てみたいと思っていたその光景を見ることができたのに。

 そんな私に彼は、「目が見えないのはしょうがない。いつまでもそんなことを考えても、楽しくない。だから元気を出して。その方が楽しいよ」と言いました。

 綺麗ごとでした。それを言うことに何の責任も感じていないような、軽々しい言葉でしたが、事実でした。彼が純粋にそう思って、それを口に出したのも、事実だったのでしょう。

 彼は言いました。「何があるか、僕が全部言ってあげる」

 私は彼に手を引かれました。「僕たちは今、草原の上を走ってる」

 靴を脱いだ方が気持ちいいと彼が言うので、私は裸足になって、彼と一緒に走りました。ひんやりとしてやわらかいものを、足の裏に感じました。「あっちに海があるよ」

 私と彼は海で遊びました。「きれいな水だよ。透き通ってる。魚も泳いでる」

 草原を走って、海で遊んで、川で遊んで、山に登って、虫取りをしました。セミの鳴き声に負けないくらいに、彼と一緒にはしゃいで、私は笑いました。とても久しぶりに、笑いました。

 思いっきり笑いました、夏のように。

 祭囃子を聞きながら、縁日に行きました。ラムネは甘くすっきりとして、りんご飴は甘く酸っぱく、わたあめは甘くやわらかく、かき氷は甘く冷たかったです。彼に手を包まれて金魚すくいをして、彼がクジで当てたぬいぐるみを私はもらいました。この時のサメのぬいぐるみは、今でも私の宝物です。

 彼と一緒に花火の音を聞きました。煌びやかに打ち上がる花火の色と形を、彼が教えてくれました。

 彼と一緒に星空を眺めました。一体何個の星があるのか、彼は私に教えようと必死に数えていました。「一、二、三、四」と、彼が指折り数えているのが分かりました。でも、三十を越えた辺りで、一体どこまで数えたか分からなくなったりして、彼は何度も挑戦するのですが、結局全部を数え切ることはできなくて。

「あーもうわかんない、めちゃくちゃ、たくさんの星がある。透き通った黒い空に、ぶわぁっ! って、白い星が散らばってるんだよ!」と投げやりに叫んだ彼の声が、どうにもこうにも可笑しくて、私はお腹を抱えて笑いました。

 私と彼は、不思議で素敵な夏の世界で、日が暮れるまで遊びました。

「もうそろそろ、帰らなきゃね」

 彼がそう言って、私は「帰りたくない」と駄々をこねました。「もっとここで君と遊んでいたい」と。

 すると、そんな私の気持ちに応えたかのように夕立が来ました。

 ざぁと強い雨が降り注ぎ、私と彼は雨宿りをしました。とても大きな木があって、その枝葉の下にいると彼は私に説明しました。

 激しい雨音を聞きながら、私は「ずっとこのままがいい」と言いました。「君とずっと一緒にここにいたい」と言って、「帰りたくない」と。

「でも、帰らなくちゃ」

「いや、だよ。帰っても、楽しくない。ここにいる方が、楽しい」

「君のおじいちゃんとおばあちゃんが、帰りを待ってるんじゃないの? お父さんも、いるんでしょ?」

「そうだけど……、でも、帰ったら、また、あそこに行かないといけない」

「あそこって?」

「私みたいに目が見えなかったり、目が悪い人が通う学校」

「普通の学校とは違うの?」

「普通の学校と同じことも勉強するけど、目が見えなくてもちゃんと生活していくための方法を教えてくれたりする」

「じゃあ、行かないとダメじゃん! 目が見えないと、大変なんだから」

「でも、でも、いやなの。あそこにいると、苦しいし、いやになる。ここにいる方が、楽しい」

 その時、彼が少し困ったように笑ったのが、私は分かりました。なぜか、分かりました。

夏の太陽のように眩しい彼の笑顔を、私が曇らせてしまったことが分かって、私はきまり悪く思いました。

それでもやっぱり、帰りたくはなくて、私はワガママに、駄々をこねました。子供でした。

 そんな私に、彼はこう言いました。

「君は、やりたいことはないの? 確かにここは、すっごく楽しい場所だけど、君と一緒に遊ぶのは僕も楽しいけど、ここにいたらできない楽しいことがたくさんあるよ。僕はさ、やりたいことがたくさんあるんだ。それはさ、ここにいたらできないんだよ。君は、やりたいことは、ないの?」

 ありました。

 私がやりたいと思っていることが、私の夢とも言えるようなものが。

「私、お母さんみたいになりたい」

 母は、死んでしまった私の母は、小説家でした。母はいつも優しくて、笑っていて、楽しい人で、面白くて素敵なお話をつくって私に聞かせてくれて、そんな母は私にとって憧れで、母のようになりたいと私は思っていました。

「あと、君みたいにもなりたい」

 夏のように振舞う彼のようになれたなら、私はこんな情けない自分を変えられると思いました。もっと前を向いていけると思いました。

「僕みたいになりたいの?」

「うん」

「どうして?」

「だって君は、私の好きな夏みたい」

「よく分からないけど」と、彼は可笑しそうに笑いました。「じゃあ、がんばらないとね」

「がんばれる、かな」

「君なら絶対大丈夫だよ。僕は、死んじゃった君のお母さんのことを知らないし、君が僕みたいになりたいっていうのも、よく分からないけどさ。絶対なれるよ、君がなりたい君に。だって、君は、すごいから」

 その無責任な大きな声は、私の体の内側に強く響いて、胸を熱く、暑くしました。

 いつのまにか、雨音は消えていました。

 オレンジ色の夕焼けがとても綺麗で、そこに大きな虹がかかっているよ、と彼は言いました。

 自分でもどうして泣いているのか分からない涙が溢れて、たぶんそれは、彼と別れなきゃいけない寂しさだとか、私の目が見えなくなってしまったことや、お母さんが死んでしまったという現実をようやく直視したことによる辛さだとか、これからの毎日に対するたくさん不安だとかが募って、込み上げてしまった涙なのだと思います。

 私は彼に手を引かれて、家に帰りました。その間も、彼は、周りにある光景のことを、私に細かく教えてくれました。

「もうすっかり暗くなっちゃったね。真っ暗だ」

 私の家の前に着いた時、彼はそう言いました。

 そして、「また会おうね」と言って、彼は私の手を離しました。その瞬間、私は酷い不安に駆られて、彼に言いました。

「絶対、絶対会おうね。私、がんばるから」

「うん、がんばってね」

「事故には、あわないでね。暗いから、危ない、から」

「うん、大丈夫だよ。だって僕だから」

「また、会おうね」

「うん、また一緒に遊ぼう」

 そうして、私は彼と別れたのです。

 家に帰ると、祖父と祖母が私のことをとても心配していて、一体ひとりで目も見えないのにどこに行っていたのか、と私に言いました。

 私は彼と一緒に遊んだことを全部話しましたが、信じてもらえませんでした。縁日のクジ引きで、彼が当てて私にくれたサメのぬいぐるみを私はずっと片手で抱えていた訳ですが、それを見せても、信じてもらえませんでした。

 その時の私は、信じてもらえないことをただ不満に思っていましたが、こうして今になって考えてみると、祖父と祖母が私の話を信じなかったのも無理はありません。

 とても、とても不思議な出来事でした。

 普通に考えて、現実にあんなこと、起こる訳がないのです。でも、確かに私は彼と一緒にその世界に行ったのです。

 私の記憶に残っているのは、その世界にあったとても眩しい光と、音や匂い、感触、そして彼から受け取った言葉の数々のみですが、今でもそれらは私の脳裏に鮮明に焼き付いているのです。間違いなく、あれは現実でした。

 それからの私は、彼と交わした言葉の通りに、頑張りました。

 墨字を読むことができない私は点字を覚え、白杖を使った外での歩き方を覚え、音や触覚に頼って生活する術を学びました。

 また彼と出会った時に、すごいと言ってもらえるように。

目が見えなくても、前を向いて、自分の生きたいように生きていけるように。

 夏の眩い太陽のように、なりたい自分になるために。

 

 〇


 私は、小説家になることを決意しました。

 それが母の職業であるというのも大きな理由ですし、目が見えなくとも、指で、口で文字を書くことはできますし、指で、耳で、文字は読むことができると分かったからです。文字を言葉を受け取れば、目の前に世界が広がります。薄ぼんやりとした光の中でも、真っ暗な闇の中でも、そこに世界が生まれるのです。

 それを私に教えてくれたのは、彼でした。

 母が私に教えてくれた夏の世界のような、彼が私を連れて行ってくれた夏の世界のような、素敵な世界を私もつくりたいと思いました。

 絶望の底にあっても、夏の快晴の空に輝く太陽みたいな元気が貰えるような、そんな物語の世界を。


 〇


 彼と不思議な夏を過ごした翌年、私はまた祖父母の家を訪れました。

 また会おうと、彼と交わした約束を思い出して、私は胸がいっぱいになりました。私は、彼との再会を疑っていませんでした。もう一度、彼と一緒に遊びたいと思っていました。彼に手を引かれ、あの素敵な夏の世界に、もう一度。

 彼に話したいことがたくさんありました。

 新しい友達ができたこと、点字の勉強をしていること、小説家になる夢を持ったこと、目が見えない生活にも慣れて、色々なことができるようになったこと。

 しかし、どうやって彼と会うかという問題がありました。

 私が知っているのは、彼がこの辺りに住んでいるということと、彼の名前くらいでした。彼の家の場所すら、知りません。

 昨年の夏、別れ際、彼は私を家まで送り届けてくれたので、私がいる祖父母の家の場所は知っているはずです。だから私は、彼が私のことを迎えに来てくれると思いました。恥ずかしい話ですが、それはまるで、王子さまを待つお姫さまのような気持ちでした。

 しかし、夏休みが始まってしばらくしても、彼が私のところに来てくれる気配はありませんでした。

 もしかしたら、彼はこの家の場所を忘れてしまったのかもしれないと、私は思いました。彼が約束を忘れてしまったとは、思いませんでした。

 私は、ひとりで外に行ってはいけないという父から言いつけを破り、おじいちゃんとおばあちゃんの目を盗んで、家を飛び出しました。逃げるために飛び出したのではありません、進むために飛び出したのです。

 おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に行くこともできましたが、それは恥ずかしいことでした。だって、好きな男の子に会いに行くのですから。

父曰く、その頃からの私はもう、手が付けられないお転婆な娘になっていたとのことです。

ただでさえ人見知りで、臆病で、母にベッタリでひとりでは何もできなくて、その上、視力を失い、母を亡くして全てを拒絶していた以前とは比べ物にならないほど、私は元気でした。

いつのまにか、そうなっていました。

まるで、暗い日陰が眩しい太陽の光を受けて、明るくなるように。

無闇に飛び出した去年と違い、私はしっかりと白杖を持って慎重に歩き、人の気配がすれば積極的に話しかけて、河川敷を目指しました。その道のりを、自慢の記憶力を活かして、しっかりと記憶しながら進みました。そういった振る舞いは、学校で教えてもらったものです。

河川敷に辿り着いた私は、芝生の生えた斜面に立って、白杖を置くと、両手を広げて風を浴びました。

その日は、いつもより一際太陽の光が眩しくて、セミがやかましくて、そしてとても暑い日でした。きっと空は快晴で、群青が広がり、雲が白かったことだろうと思います。耳を澄ますと、川のせせらぎも聞こえました。

気温は高かったものの、吹く風は涼やかで、私の長い髪と、ワンピースの裾がゆらゆら揺れているのが分かりました。とても気持ちいい場所だと思いました。

私は、去年の夏、彼に手を引かれてこの河川敷を走り、あの素敵な夏の世界に行ったのだということを強く実感しました。

確かにあの日、私の中で何かが変わったのです。

そのことを想うと、頭の中に、彼の笑い声が聞こえた気がしました。セミの鳴き声に負けないくらい大きな声の、夏の快晴の太陽に負けないくらい明るい響きの、そんな声が。

私は、自分の頬がつい緩むのを感じました。不思議な気持ちでした。

彼と再会できた訳ではないのに、すぐ側に彼がいるような気がしてなりませんでした。

夏が始まった、と思いました。



私がその夏休みの間に、彼と会うことはありませんでした。

私は度々河川敷に赴いて、時間を過ごしましたが、誰と話すこともなくひとりでした。

その河川敷にいれば、いつか彼が声をかけてくれるような予感があったから、私は河川敷に行ったわけですが、結局、小学三年生の夏休みはそんな風に何事もなく終わりました。

彼は約束を忘れてしまったのだろうか、と私は思いました。

仕方のないことかもしれません。

あの日の彼は、私にとっては特別以外の何物でもありませんでしたが、彼にとっては、偶然出会ってちょっと遊んだだけの女の子という認識だったのかもしれません。

 また会おうという約束も、そこまで真剣なものじゃなかったのかもしれません。

 私は落ち込みました。

 ですが、どうにも納得できませんでした。

 きっと何か事情があるのだろうと、私は都合よく思いました。たまたま、私が河川敷にいる時に、彼がそこを通らなかっただけ、だとか、もしかしたら彼は家の事情で違う街に引っ越してしまったのかもしれない、とか。

 彼が私との約束を忘れてしまった、とは思いたくありませんでした。

 恋は盲目、という言葉があります。

 私はいつの間にか、たった一度一緒に遊んだだけの男の子に、どうしようもなく恋をしていて、余計なものが目に入らなくなっていたようでした。

 私にとっての彼は、憧れで、理想で、いつも元気で明るくて誰かを悲しい気持ちになんかさせることのない素敵な男の子という認識でした。

 そんな彼が、あの約束を忘れるわけがない、と。

 随分と、自分にとって都合の良い考えだと思います。ですが、当時の私はあまりに自然とそんな考え方をして、ひとりで勝手に納得していました。

 彼と私が会うことができないのは、きっと何か事情があるからなのだ、と。

 バカな話です。

 本当に、恋は盲目なのだと思います。


 〇


 また一年が過ぎ、小学四年生の夏休み、祖父母の家を訪れた私は、毎日のように河川敷に通いました。

 何かしらの事情があるにせよ、彼が私を一番見つけやすいのはここに違いないと思ったからです。

 河川敷で、私は気ままに過ごしました。

 気持ちよく風に当たったり、暑くも心地よい日差しを浴びたり、イヤホンで音楽やオーディオブックを聴いたり、点字の練習がてらに点字で小説を書いたり、点字の本を読んだり、など。

 その翌年の夏も、そのさらに翌年の夏も、その次の夏も、同じように過ごしました。


 

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